2024/06/07

喧嘩の日本史

 【書 名】喧嘩の日本史
 【著 者】本郷和人
 【発行所】幻冬舎新書
 【発行日】2024/05/30
 【ISBN 】978-4-344-98731-9
 【価 格】980円

■足利義満
細川頼之が家庭教師でつけたのが二条良基。内大臣、左大臣、太政大臣となります。左大臣は全ての儀式の監督役で儀式の段取りや貴族たちの動きが分からなければできません。平清盛はできなかったので内大臣から太政大臣になっていますが、足利義満に比べて格式が下になります。

中級実務貴族を家来にしました。家来にとっても荘園の取り立てを武士にやってもらわないといけないのでWin-Winでした。足利尊氏は武家政権が貴族社会をのみこむプランを考えていましたが足利直義は鎌倉時代と同じ、東国中心の武家主義でしたが足利義満でプランが実現することになります。

■光秀の裏切り
本能寺の変時の宣教師のレポート
光秀の嫡子・十五朗がキリスト教の洗礼をうけようとしたところ、信長によって討たれそうになったため信長を討ったという話です。

→ 喧嘩の日本史

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軍師たちの日本史

 【書 名】軍師たちの日本史
 【著 者】半藤一利、磯田道史
 【発行所】ポプラ新書
 【発行日】2014/05/07
 【ISBN 】978-4-591-14035-2
 【価 格】920円

■伊勢神宮
関ケ原あたりで大友皇子軍と大海人皇子軍が対峙した時に疾風が大海人皇子軍の後ろから吹いたおかげで勝利します。伊勢の方から吹いた風で神風と呼ばれ、天皇家の氏神として浮上することになります。

■虎の巻
兵法所に六韜があり、その一つに虎韜があり、ここから派生しました。六韜は武王が太公望に質問して答える問答形式で記載されています。

■リーダーの条件
しんどい時でも的確な判断が必要。鳥羽伏見の戦いでインフルエンザによる高熱で慶喜は会津軍からの進軍要請に「勝手にせい」と放り出してしまったことが、あの体たらくになってしまいました。

■調べつくす
島原の乱の収拾にあたったのが松平信綱です。着任するんり敵方の遺体を解剖して食物の状況をチェックしています。また敵方の陣中に甲賀者をいれますが、九州の訛りが分からないと帰ってきたのに激怒しています。島原に向かう前には江戸で宣教師の書物からキリスト教の考え方についても調べています。ノアの箱舟まで知っていた可能性が高く、一揆方の死生観まで探っています。願望と現実をごちゃませにしないことで、情報収集し案をたくさん考え決断する。

■開国兵談(林子平)
ペリーが来た時に小笠原をアメリカ領土にしたという話に大騒動。調べると開国兵談がオランダ語に翻訳されており小笠原は日本領土と明記されていて、ことなきをえました。ペリーは既にフランス語版を読んでおりブラフでもあったようです。

■勝海舟
火縄銃は100~150メートルが射程距離で鎧で防げましたが、螺旋状の溝がほられる新式銃になると500メートルにのびます。鎧を突き破傷口に鎧の破片を散らばせますので鎧をきてたら危ない戦場になります。

■経路依存性
ダグラス・ノース(ノーベル経済学者)
経路ーこれまでの行きがかり、道筋 慣れ親しんだ経路はなるべく変わらない
別館をたてるー勝海舟は海軍伝習所を創設 今なら特区ですが明治初めの敗軍は佐賀藩と幕府の海軍医術に支えられることになります。新しい国家の先まで見通していました。

■チャンス
チャンスは貯金できない ヘンリー・フォード
空間は取り戻せるけど、時間は取り戻せない ナポレオン

■山本五十六
真珠湾に特殊潜航艇で攻撃し9人が戦死、1人が捕虜となりました。捕虜が出たことをひた隠しにしますが山本五十六が捕虜になっても決死でつっこんだことには変りない。と他の隊員と同様に感状を出していました。小沢治三郎中将が感染の時代ではなく航空能力の時代になるということで機動部隊が作られます。

■戦人訓
生きて虜囚の辱めずを受けず
原案を作ったには陸軍中野学校の創設者だった陸軍少将で「戦場で敵国の女性を襲うようなことは厳にせぬように。そんな気持ちが起きた時は自分の父母を思い。郷里の里の人たちの顔を思い浮かべろ。そうすれば悪いことはえきないかずだ」が島崎藤村の推敲で変な形になっていまいました。

→ 軍師たちの日本史

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軍師たちの日本史

 【書 名】軍師たちの日本史
 【著 者】半藤一利、磯田道史
 【発行所】ポプラ新書
 【発行日】2014/05/07
 【ISBN 】978-4-591-14035-2
 【価 格】920円

■伊勢神宮
関ケ原あたりで大友皇子軍と大海人皇子軍が対峙した時に疾風が大海人皇子軍の後ろから吹いたおかげで勝利します。伊勢の方から吹いた風で神風と呼ばれ、天皇家の氏神として浮上することになります。

■虎の巻
兵法所に六韜があり、その一つに虎韜があり、ここから派生しました。六韜は武王が太公望に質問して答える問答形式で記載されています。

■リーダーの条件
しんどい時でも的確な判断が必要。鳥羽伏見の戦いでインフルエンザによる高熱で慶喜は会津軍からの進軍要請に「勝手にせい」と放り出してしまったことが、あの体たらくになってしまいました。

■調べつくす
島原の乱の収拾にあたったのが松平信綱です。着任するんり敵方の遺体を解剖して食物の状況をチェックしています。また敵方の陣中に甲賀者をいれますが、九州の訛りが分からないと帰ってきたのに激怒しています。島原に向かう前には江戸で宣教師の書物からキリスト教の考え方についても調べています。ノアの箱舟まで知っていた可能性が高く、一揆方の死生観まで探っています。願望と現実をごちゃませにしないことで、情報収集し案をたくさん考え決断する。

■開国兵談(林子平)
ペリーが来た時に小笠原をアメリカ領土にしたという話に大騒動。調べると開国兵談がオランダ語に翻訳されており小笠原は日本領土と明記されていて、ことなきをえました。ペリーは既にフランス語版を読んでおりブラフでもあったようです。

■勝海舟
火縄銃は100~150メートルが射程距離で鎧で防げましたが、螺旋状の溝がほられる新式銃になると500メートルにのびます。鎧を突き破傷口に鎧の破片を散らばせますので鎧をきてたら危ない戦場になります。

■経路依存性
ダグラス・ノース(ノーベル経済学者)
経路ーこれまでの行きがかり、道筋 慣れ親しんだ経路はなるべく変わらない
別館をたてるー勝海舟は海軍伝習所を創設 今なら特区ですが明治初めの敗軍は佐賀藩と幕府の海軍医術に支えられることになります。新しい国家の先まで見通していました。

■チャンス
チャンスは貯金できない ヘンリー・フォード
空間は取り戻せるけど、時間は取り戻せない ナポレオン

■山本五十六
真珠湾に特殊潜航艇で攻撃し9人が戦死、1人が捕虜となりました。捕虜が出たことをひた隠しにしますが山本五十六が捕虜になっても決死でつっこんだことには変りない。と他の隊員と同様に感状を出していました。小沢治三郎中将が感染の時代ではなく航空能力の時代になるということで機動部隊が作られます。

■戦人訓
生きて虜囚の辱めずを受けず
原案を作ったには陸軍中野学校の創設者だった陸軍少将で「戦場で敵国の女性を襲うようなことは厳にせぬように。そんな気持ちが起きた時は自分の父母を思い。郷里の里の人たちの顔を思い浮かべろ。そうすれば悪いことはえきないかずだ」が島崎藤村の推敲で変な形になっていまいました。

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2024/06/05

日本史の違和感

 【書 名】日本史の違和感
 【著 者】本郷和人
 【発行所】産経NF文庫
 【発行日】2024/06/24
 【ISBN 】978-4-7698-7069-2
 【価 格】900円

■パンデミック
藤原四兄弟がなくなった天然痘。正倉院文書に残された正税帳で推定したところ総人口の25~34%、100~150万人ほどが亡くなる、すさまじい疫病でした。聖武天皇が大仏建立した気持ちがよく分かります。

■冊封
冊封(中国皇帝の家臣)された国は貢献物と版籍(地図と戸籍)を毎年進上しなければなりません。版籍奉還の版籍がここからきています。

■始球式
明治41年(1908)アメリカ選抜チームと早稲田野球部との親善試合で初めての始球式が行われました。投げたのは大隈重信でストライクゾーンからはずれてしまいました。打者は大隈総長に恥をかかせてはいけないと空振りします。これが伝統になりました。

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2024/05/03

中世都市鎌倉を歩く

 【書 名】中世都市鎌倉を歩く
 【著 者】松尾剛次
 【発行所】中公新書
 【発行日】1997/11/15
 【ISBN 】978-4-12-101392-1
 【価 格】660円

■古代の鎌倉
郡衙がおかれ寺もあり、幕府が置かれる前は辺鄙な土地というわけではありませんでした。

■若宮大路
大路に開いた門があったのは御所だけで若宮大路は儀礼のための聖なる道でした。また御所のある東側がたかくなっていました。御所あたりの側溝は幅3m、深さ1.5mもありました。

■丈尺制
丈は約3m、尺は約30cmで測量する時にこの丈尺制が使われるようになります。

■四角祭(陰陽道)
山城国-和爾または龍華・会坂・大枝・山崎または関戸)
鎌倉-六浦、小坪、稲村ケ崎、山内

■忍性
民衆救済などをしていた忍性は鎌倉幕府の尊敬を集め、関西は西大寺、関東は極楽寺(忍性)の律僧が鎌倉幕府の後援をうけることになります。

■戒壇
東大寺、筑前観世音寺、延暦寺に戒壇がありましたが中国では東大寺の戒壇しか認められていなかったため延暦寺で受戒をうけていた天岸は東大寺で受戒したという偽書を作ってもらって中国にわたりました。

■最後の執権
北条高時ではなく第15代、金沢貞顕、第16代、赤橋守時と続きます。

■貝
鎌倉で食べられる貝はアカニシ。中世や近世の人の乱獲で日本近海ではとれなくなってしまいます。韓国では現在でも食べられています。

■篝屋
御家人がつめた交番のようなもので、事件が起きると太鼓をたたきました。辻と辻の交差点などに設置されたようです。

■上杉四家
山内上杉家、扇谷上杉家、宅間上杉家、犬懸上杉家で鎌倉を本貫にしました。太田道灌の屋敷も扇谷にあり英勝寺が跡地と考えられています。もともとは丹波国太田郷(亀岡市)が太田氏の本貫で宗尊親王が1252(建長4)年に鎌倉へ下向する時、主君の上杉重房とともに太田資国も鎌倉へ下りました。

■伊勢氏
伊勢長氏(北条早雲)の後を継いだのが伊勢氏綱で鶴岡八幡宮を再興します。氏綱は古河公方の外戚となっており鎌倉幕府の北条氏と同じような立場になったことから北条氏へと改姓します。

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2024/04/08

歴史の真相が見えてくる旅する日本史

 【書 名】歴史の真相が見えてくる旅する日本史
 【著 者】河合敦
 【発行所】青春新書
 【発行日】2024/04/15
 【ISBN 】978-4-413-04692-3
 【価 格】1400円

■宇多須神社
江戸時代に前田利家を祀っており明治になってから尾山神社が創建されて移されます。前田利家は現場での働きを期待されており長篠の合戦の頃には将官不足となったため一軍の将になっていきます。利家はソロバン重視で莫大な財産を築いていましたが、前田利長に借金証文を渡しながら、俺が死んでから前田の味方になった大名には証文を返し、借金を免除してやれ、そうすれば前田家の勢力は増大すると語りました。

■咸臨丸
太平洋横断をした後、対馬を占拠したロシア艦に交渉する幕府の施設を運んだりしていました。やがて蒸気機関がダメになり帆船として使用されますが榎本武揚が品川港から幕府海軍を出す時、回天丸に曳航された咸臨丸は房総沖で艦隊とはぐれてしまい清水港に入ってしまいます。湾内にいた新政府軍の軍艦に攻撃されてしまいます。亡くなった咸臨丸乗員の遺体を葬ったのが清水の次郎長です。咸臨丸はやがて北海道で使われていましたが函館近く木古内町で座礁し沈没してしまいます。

■出島
築城経費の一部は幕府でしたが大部分は25人の裕福な長崎商人が出資。借地料として銀55貫(1億円)が毎年、オランダ商館から商人に支払われていました。

■木曽福島 関所
脇道にも関所が作られ贄川関所と妻籠関所がありました。箱根の場合は仙石原、根府川、矢倉沢、川村、谷ケ村という5つの裏関所があった。関所破りの報告は数例しかなく、よほどのことがない限りは見て見ぬふりをしていました。

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2024/03/26

道と日本史

 【書 名】道と日本史
 【著 者】金田章裕
 【発行所】日経BP
 【発行日】2024/03/08
 【ISBN 】978-4-295-11983-7
 【価 格】1,000円

■北陸道
北陸道は湖西の木津から山に入り玉置駅、美彌駅、松原駅へと続いており、阿倍仲麻呂の変では、この道をたどろうとしますが、既に抑えられており、現在のマキノから続く北陸道に入りますが当時は山道だったようです。

■駅馬の使用
大瑞、軍機、災害・病気の発生、謀反、外国からの渡来、幣帛使などの公使、国司が報告のために上京する四度使(大帳使、貢調使、正税帳使、朝集使)

■信長 東山道の改修
天正3年(1575) 東大寺金堂の日記
スリハリ峠を人夫2万人以上を動員して幅三間、深さ三尺の切通し状の道と水田部分ではそれを埋めた道を建設し京都・美濃間を三里ほど短縮

■唐橋
鴨川にかかっていた橋で東側には醍醐道(滑石越)が通っていたため京都の玄関口になっていました。

■平安京
京都といえば格子状になった町並みが有名ですが、だんだんと農地になったり道に扉がつけられて家になったと変貌してしまいます。

■沓掛
地面が柔らかいので馬に沓(わらじ)をはかせていました。馬沓をははすことで沓掛になった説があります。

→ 道と日本史

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2024/02/17

9割が答えに詰まる日本史の裏面

 【書 名】9割が答えに詰まる日本史の裏面
 【著 者】歴史の謎研究会
 【発行所】青春文庫
 【発行日】2023/12/20
 【ISBN 】978-4-413-29841-4
 【価 格】980円

■和同開珎
和銅元年(708)5月に銀銭が作られ8月に銅銭が作られます。翌年8月に銀銭が廃止されたため、和同開珎は銅銭というイメージになりました。

■千利休
田中という名前でしたが父の田中千阿弥から千をとって姓にしていました。幼名が田中与四郎だったので千与四郎とも呼ばれていました。仏門に入った時に宗易という法号から千宗
易と名乗ります。利休は朝廷から与えられた居士号で、茶会で宮中に入るために臨時につけられた名前です。

■オランダ風説書
フランス革命のあと、オランダはフランスに占領されてしまいオランダ風説書には記載されていません。いつも「オランダ本国は平穏なり」と記載されている文章がありませんでした。

■島流し
渡世勝手次第-自分で仕事をみつけて生計を立てなければならず手に職がないと食うた食わずの暮らしになります。

■西郷隆盛
西郷に連絡がとれない時に正三位をもらう時に名前が必要です。友人に聞くと西郷隆盛と答えましたが、父親の名前でした。しかし政府が交付してしまったので西郷隆盛になりました。

■橘耕斎
幕末、日本地図などを中国語通訳にわたしていたところ幕府にみつかりロシア船で逃げたところクリミア戦争に巻き込まれてイギリスへ。ロンドンで2年過ごしロシアにわたり20年ほどたったところへ岩倉具視使節団がやってきて面倒をみます。この後、日本へ戻りました。

→ 9割が答えに詰まる日本史の裏面

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2024/02/09

15の街道からよむ日本史

 【書 名】15の街道からよむ日本史
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】日経ビジネス人文庫
 【発行日】2023/12/01
 【ISBN 】978-4-296-11743-7
 【価 格】900円

■奥の細道
芭蕉とともに旅をした曾良は信濃上諏訪生まれで伯母の縁で伊勢長島藩に仕官します。河合惣五郎の名前で10年ほどを藩士として過ごします。江戸に出て芭蕉の門下生になります。「曾良旅日記」を残しましたので「奥の細道」の創作部分などが分かるようになります。

■寛永寺
東の比叡山として山号は東叡山にし、延暦寺が延暦の元号からとったように寛永の元号からとりました。

■運送業・中馬
農民の片手間仕事だったのが荷物が増えるとともに専業になっていきます。問屋場を通さず荷主との直契約です。名古屋・松本間を中馬が運んだ荷物は1万4943駄(宝暦末年)で80%が伊奈街道を通りました。

■問屋場
飛脚-継飛脚と呼ばれ公文書をリレー形式で届ける仕組み(低額)
御定運賃-公的荷物(低額)
相対運賃-私的荷物(御定運賃の倍が相場)-中間という中抜き業者が出てきてしまいトラブルに

■伊勢参り
日永の追分で東海道から分かれ参宮街道へ
津(江戸橋駅付近)ー参宮街道に関からの伊勢別街道が合流
月本の追分(六軒駅付近)-参宮街道に伊賀上野からの伊賀街道が合流
六軒茶屋-参宮街道に初瀬街道が合流
中川原(宮川の渡しを降りたところ)-伊勢本街道が合流

→ 15の街道からよむ日本史

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2024/02/03

磯田道史と日本史を語ろう

 【書 名】磯田道史と日本史を語ろう
 【著 者】磯田道史
 【発行所】文春新書
 【発行日】2024/01/20
 【ISBN 】978-4-16-661438-7
 【価 格】900円

■武田信玄
家康が旧武田領に進駐すると人を煎り殺す釜を発見し、一罰百戒になると家康は考えましたが家臣の本田作左衛門が恐怖で人を治めても長続きしないと諭した逸話があります。家康は軍事を信玄に学び治世は北条を見習いました。

■赤穂浪士
大石内蔵助は詳細な会計報告を残し、また吉良邸の外に医者を待機させて、簡易救護所まで作っていました。

■将の条件 鈴木正三(禅僧で元は三河武士)
・先見の明がある
・時代の流れが的確に読める
・人の心をつかむことができる
・気遣いができて人徳がある
・自己の属している共同体、組織全体について構想をもっている
・大所高所から全体が見渡せる力量をもっている
・上に立つにふさわしい言葉づかいと態度が保てる

■信長の死生観
信玄が信長の故郷近くの僧に信長の人となりを尋ねる一説が信長公記にでてきます
「しのび草には何をしよぞ、一定kたりをこすよの」
自分が死後、何をやったといって語られるかを意識していました。実に長い人生観をもっていました。

■梅毒
鉄砲伝来より30年以上も前、1510年代に日本に入ります。朝鮮出兵の影響が大きく、肥前病とも呼ばれています。

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