2024/03/16

もう一つの幕末史

 【書 名】もう一つの幕末史
 【著 者】半藤一利
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2024/02/15
 【ISBN 】978-4-569-90381-1
 【価 格】800円

■伊藤博文
英国公使館焼討に参加していたのは高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨、品川弥次郎など。伊藤博文は盲目の国学者・塙保己一の息子だった塙次郎を暗殺しています。老中の安藤信正に頼まれて過去の外国人待遇の先例を調べていたのですが、これが攘夷志士に天皇退位の研究していると変な噂が広まってしまいます。帰宅するところを待ち構えて切ったようです。明治の元勲といってもテロ集団と変わらないのが実態です。

■鳥羽伏見の戦い
新政府側 60人、幕府側 279人の戦死者が出ましたが15,000人の軍勢ですので、いくらでも挽回できましたが錦の御旗が出たところで慶喜が戦意喪失してしまいます。

■江戸の無血開城
勝海舟が山岡鉄舟を派遣しますがお供につけたのが益満休之助です。幕府に薩摩藩邸を先制攻撃させようと動いていたリーダーです。薩摩藩の藩邸焼討の時に捕虜となり牢獄に入っていたのを勝海舟が自宅に引き取っていました。薩摩出身の益満がいたおかげで新政府軍でいっぱいの街道を西郷隆盛のもとまでたどりつけたようです。

勝海舟はパークスとも会っていて交渉がダメなら海上から江戸に入った新政府軍を火攻めにする話までします。西郷隆盛はパークスに呼び出されていますので、この話を聞いた可能性があります。パークスは慶喜のイギリス亡命についても勝海舟に提案していたようです。

■咸臨丸
福沢諭吉は勝海舟は船酔いでずっと船室にいたと書いていますが、どうも嘘で海軍伝習所で嵐の海をいくらでも経験していました。実際はサボタージュで幕府から難破した米国測量船の船員も船に乗せよと言われたのが気に入らなかったようです。後世、米国の船員のおかげで太平洋が渡れたと言われたのを危惧したからです。実際は日本人だけで成し遂げました。

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2024/02/13

新・幕末史

 【書 名】新・幕末史
 【著 者】NHKスペシャル取材班
 【発行所】幻冬舎新書
 【発行日】2024/01/30
 【ISBN 】978-4-344-98717-3
 【価 格】1100円

副題が「グローバル・ヒストリーで読み解く列強VS日本」で、幕末史に大きな影響を与えた外国勢力に焦点をあたえています。

■戦争を徹底的に避けるが武士政権のリアリズム
イギリスは兵庫開港を要求し認められなければ軍事行動を起こすと圧力。ところが孝明天皇は激怒します。間にたった慶喜は窮します。京都にいた諸藩の武士を集めて意見を集約し孝明天皇に戦争回避が総意と伝え勅許をえます。

■万延二分金
金銀の交換レートが海外と違っていたために金が海外へ流出します。そこで勘定奉行・小栗が作ったのが万延二分金。銀が71%を占める金貨でした。この改鋳による利益でフランスに依頼して造船所を作ることになります。対馬事件に対応するなど、鋭い幕臣でした。

■局外中立
戊辰戦争が始まると列強はどちらにも加担しない局外中立とします。これは居留地などの外国人を保護するための施策でした。ところが列強に連絡もせず江戸に進軍をはじめた新政府軍に対して外国人居留地を守る兵も出さずに何事だとパークスなどは怒り心頭。しかも恭順している慶喜を攻めるとはどういうことだと、新政府軍には横浜には居留地を守るために軍艦が集合します。東海道進軍中に列強の軍艦から攻撃されたら終わりです。勝海舟との会談以前に西郷隆盛は江戸無血開城の選択をしていたようです。

奥羽列藩同盟が発生すると新潟港をおさえます。局外中立といいながら民間人は対象外になります。プロイセンと関係があったシュネル兄弟が武器などを列藩同盟に売ります。少なくともライフル5000は売りさばいていました。供給元はアメリカで南北戦争が終わり、膨大な余剰兵器がありました。新潟港ではシュネルらが砲台などを取り付けて防衛していましたが、裏切った新発田藩領に上陸して進軍し、新政府軍におちたため列藩同盟は崩壊することになります。

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2023/12/24

南北戦争を戦った日本人

 【書 名】南北戦争を戦った日本人
 【著 者】菅美弥、北村信三
 【発行所】筑摩書房
 【発行日】2023/09/15
 【ISBN 】978-4-480-01781-9
 【価 格】1700円

1876年12月30日、アレクサンドリアの地元紙に「ある日本人の死」という記事が掲載され、南北戦争に従軍していた模様です。少なくとも2名の従軍者がいたようです。吉田松陰がアメリカに密航しようとして捕まった事件が有名ですが、実際に密航したケースや遭難で海外にわたっているケースがありました。また咸臨丸からも3名が行方不明になっています。水夫クラスで西欧の進んだ姿をみたのが原因かもしれません。

また咸臨丸で病気となり療養で残ったものや看護人で残った者もいますが、ほとんどは日本へ向かう便で帰国しています。なかには亡命者もいて使節団でアメリカにわたった塚原は、帰国しますが鳥羽伏見の戦いで幕府が敗れたためアメリアに亡命。後にジョセフ・ヒコとハワイで会ってともに明治の日本へ戻りました。

■軍人恩給
2020年、南北戦争最後の恩給受給者が亡くなったことがニュースになっています。

→ 南北戦争を戦った日本人

 

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2023/12/20

人物から読む 幕末史の最前線

 【書 名】人物から読む 幕末史の最前線
 【著 者】町田明広
 【発行所】インターナショナル新書
 【発行日】2023/12/12
 【ISBN 】978-4-7976-8132-1
 【価 格】920円


JBpress連載「渋沢栄一と時代を生きた人々」、「幕末維新人物伝2020」を改稿してまとめた一冊です。


■井伊直弼
日米通商条約を結んだのは岩瀬忠震と井上清直で、井伊直弼はあくまでも勅許獲得するまで延期でした。ただし窮した場合は調印してもよいと言ったため現場で実行してしまいました。ただしイギリス、フランスがアメリカと結んだ通商条約以上を求めないようハリスが斡旋するという誓約書付きでした。中国でアロー戦争が起き天津条約がイギリス、フランス連合軍と結ばれた背景がありました。


■平岡円四郎
大河ドラマ「青天を衝け」で注目を浴びた平岡円四郎が慶喜の近侍となったのは32歳の時。慶喜は16歳でした。粗暴で空気が読めない平岡に対して慶喜が礼儀作法を教えるという珍事がはじまります。平岡も平然と主君から手ほどきをうけていました。箸や椀の持ち方、食べ方なども指導します。


■京都守護職
松平容保が有名ですが最初は島津久光に京都守護職就任の話がいっていました。ところが生麦事件の勃発で鹿児島がいつ英国艦隊の来襲があるか分からない状況で辞退します。


■坂本龍馬
薩摩藩は薩英戦争で軍艦を失い、幕府からの借用船が豊前田ノ浦で長州藩から砲撃され、逃走中の火災で士官や機関員などが亡くなってしまい海軍力が壊滅的な状況に。そこで坂本龍馬をはじめとした海援隊を薩摩藩士として雇うことになります。ただし龍馬は長州との人脈があるため薩長同盟に携わることになります。

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2023/03/13

グローバル幕末士

 【書 名】グローバル幕末士
 【著 者】町田明広
 【発行所】草思社文庫
 【発行日】2023/02/08
 【ISBN 】978-4-7942-2632-7
 【価 格】1200円

幕府が考えていたのが大攘夷(国を開き富国強兵してから攘夷を実行、つまり未来攘夷)、これに対して長州や朝廷は小攘夷(即時攘夷)でした。下関戦争や留学生を送ることで上層部は未来攘夷へ転換しますが、下級武士レベルでは攘夷のままでした。

■和親と通商
日米和親条約は鎖国の枠内という認識でした。ところがアロー戦争が勃発します。そこでオランダとの和親条約に条項を追加しますが長崎での会所貿易のままでした。アメリカのハリスはイギリスが天津・北京条約で清が植民地化していくことを危惧して、先にアメリカと日米修好通商条約を締結すればイギリスは条約以上の要求をしてこないことを伝え、条約を締結します。

■岩瀬忠震
ハリスと交渉した岩瀬は基本的に自由貿易派。井伊大老は勅許をえるまで待てと言いますが井伊は窮した場合は締結してもよいと言ってしまったため、現場判断で条約締結してしまいました。安政の大獄では岩瀬らは弾圧されます。結んだ条約が不平等条約と言われますが関税は20%で妥当なものでした。ところが慶応2年(1866)に英仏米蘭との間で改税約書で5%になってしまって安価な商品が大量に流入して激しいインフレになってしまいます。下関砲撃事件の賠償金を2/3にする条件で長州の攘夷運動によるツケでした。結局、自分たちのせいで不平等になった条約を明治になって交渉することになりました。

岩瀬忠震は海外を見たくっていろいろと画策しますが、結局は弾圧などで断念します。
幕府は英仏米蘭以外にポルトガル、プロイセン、スイス、ベルギー、イタリア、デンマークの11ケ国と通商条約を結んでいます。
安政元年から翌年にかけてロシア使節プチャーチンの要請で戸田(へだ)でヘダ号の建造が行われ岩瀬忠震は諸藩から船大工や藩士を参加させました。200人を超えていて、これで造船技術が日本全国に広がりました。

■生麦事件
島津久光はファイアリー・クロス号を横浜で購入しますが、幕府のいやがらせが色々とありました。永平丸と名づけ、買った軍艦に乗って薩摩へ戻ろうとしたら、島津久光は藩主ではないのでダメということで陸路をとることになります。途中で発生したのが生麦事件です。

■池田長光
攘夷派の急先鋒で幕府から開いた横浜の鎖港を交渉するようにパリに派遣されます。幕府は時間稼ぎのつもりでしたが海外を見た池田長光は考え方をまったく変更。帰国すると海外渡航の自由化や海外への特命全権大使の派遣を幕府に建白します。国内一和、海陸軍備、各国交際の3つをするために留学生派遣や現地新聞を定期購買して情報収集なども建白します。長州ファイブや薩摩スチューデントなど幕府が知らない間に各藩は留学生を派遣しており、分かっているだけで加賀藩、佐賀藩、広島藩、紀州藩、福岡藩などでした。ただ長州ファイブは自費での渡航で金がないため井上馨は藩の武器購入資金の1万両を担保に渡航費用を捻出しましたが、了承していたのが大村益次郎でした。

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2022/07/30

お金の流れで見る明治維新

 【書 名】お金の流れで見る明治維新
 【著 者】大村大次郎
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2022/4/18
 【ISBN 】978-4-569-90203-6
 【価 格】760円


■参勤交代の中止
黒船来航で沿岸警備をしなければならないが各藩とも財政悪化しており、1862年に参勤交代を3年に1度にし藩主の妻子も国元に帰すことにしました。諸藩も藩士たちの消費が消えたため江戸の景気が急激に悪化します。


■撫育局
長州藩が設けた班内の産業振興をする機関で藩会計とは別にします。もともとは宝暦検地での増分が元になっています。別会計なので藩の会計が赤字になっても補填などには使われませんでした。幕末に船や武器を買い込むことができました。


■坂本龍馬の下関商社構想
長州征伐の前に幕府が長州藩の大坂にあった蔵や商船などから18万俵を没収してので長州藩が関門海峡を通る幕府の船から同等の米を没収する噂が流れていました。藤岡屋日記にも長州藩が没収し、没収された領民に一升200文の破格値で売られたと記録されています。坂本龍馬は下関を通る船から通行料をとろうと考えていましたが瀬戸内海の廻船業者からの反対で立ち消えになったようです。


■金がなかった新政府
大政奉還されて驚いたのが朝廷のようで持ち金もないのに政権運営はできません。そこで幕府に献金を申し出ますが、朝廷に不満がある幕府が献金するわけがありません。ところが孝明天皇の一周年祭りもできないと聞いた徳川慶喜は5万両の献金をします。朝廷派と幕府擁護派が対立していた時期なので献金は公表されませんでした。


金がないのは幕府も同じで大坂での在留経費が1日7000~8000両かかっており、老中の板倉勝静に側近だった神戸謙次郎が報告しています。徳川慶喜の耳に入っていたはずで大坂城を脱出して江戸に戻ったのは財政的な理由も多かったです。


■官軍
金がないので進軍する沿道の諸藩が兵糧を一時的に負担し、朝廷が後日返済することになります。この兵糧を負担するかどうかで官軍か朝敵か判断しました。また1万石あたりに300両を上納させ、金を出さなかった藩は朝敵とみなされました。


江戸は無血開城しましたが金がない官軍は江戸にすぐ入れませんでした。三井、小野、島田から軍資金を調達でき、ようやく江戸城に入城できました。


■贋金作り
各藩で偽二分金作りが行われましたが含有量によって番付が作られました。よい順で筑前、加賀、佐土原、宇和島、薩摩、安芸、郡山、土佐、三原となります。


■農地解放
明治維新によって侍は地位を失います。一番、得をしたのが農民で明治6年に改正地券と呼ばれる農地の権利書が発行され、藩のものだった農地が自分のものになり移動の自由、職業の自由も与えられます。

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2021/12/05

福沢諭吉が見た150年前の世界

 【書 名】福沢諭吉が見た150年前の世界
 【著 者】武田知弘
 【発行所】彩図社
 【発行日】2021/07/21
 【ISBN 】978-4-8013-0536-6
 【価 格】1650円


明治維新前に3回も洋行していたのが福沢諭吉です。


横浜-上海ーシンガポールーセイロンーアデンースエズ 地中海へ出てフランスのマルセイユかイギリスのサウスアンプトンへ着く
香港、上海ー横浜ーサンフランシスコーパナマーニューヨーク
横浜からヨーロッパへ行く時に一等だと6000万円ほどかかりました。


香港発アメリカ、ヨーロッパ行きは年4便の船便でしたが、月1,2回に便が増えるようになりました。


■メキシコ・ドル
アメリカ・ドルはメキシコ・ドルを真似して作られたほどの世界通貨でした。メキシコ・ドル1枚が一分銀3枚に該当しました。お金を現金でもっていくのではなく、当時は為替を使う形でした。横浜や長崎の支店にお金をもっていくと為替証書が発行されるのでロンドンの本店へ持っていくと正金になりました。


■オムニバス
すべての人のためにというラテン語が元。近代になって乗合馬車の意味となり、バスの語源になりました。


■醤油
海外視察で行燈など、いろいろな物を持っていきましたが、ほとんどは使いじまい。ただ醤油はよく使い。残りが少なくなりオランダで50本を購入しましたが、オランダでは醤油を売っていました。


■書籍では調べられないものだけを現地で知る
病院や銀行のシステムがどうなっているのか西洋では当たり前なので書籍には記載されていません。西洋では当たり前にことをひとつずつ聞き出して日本へ導入していきました。


■咸臨丸
咸臨丸がサンフランシスコに来た時に歓迎をどうするかという話になり、話がすすまないのでキャプテン・ブルックが義勇兵団に声をかけ、皆が軍服を着て歓迎しました。福沢諭吉が初めてアメリカに行った時に中浜万次郎とウェブスター辞書を1冊ずつ買ってきました。これがウェブスター辞書の輸入第一号でした。

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2021/11/20

明治の説得王・末松謙澄

 【書 名】明治の説得王・末松謙澄
 【著 者】山口よう司
 【発行所】インターナショナル新書
 【発行日】2021/06/12
 【ISBN 】978-4-7976-8076-8
 【価 格】880円


西郷隆盛への「降伏勧告状」の草案を作ったり、「大日本帝国憲法」の起草をした人物です。もともとは小倉藩の庄屋の四男でした。


■修史
正しい歴史を編纂することで日本では901年に奏上された「日本三大実録」以来、編纂されていませんでした。そこで現在の東京大学史料編纂所に通じる組織が作られ明治34年(1901年)から現在まで「大日本史料」が刊行されています。この黎明期にいたのが末松謙澄で私費を出して明治維新史である「防長回天史」を編纂します。

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2021/06/19

幕末武家の回想録

 【書 名】幕末武家の回想録
 【著 者】柴田宵曲
 【発行所】角川ソフィア文庫
 【発行日】2020/10/25
 【ISBN 】978-4-04-400600-6
 【価 格】1,320円


■将軍への謁見
5人1組ぐらいでお辞儀をするだけですが畳の縁に手がついたり、障子に脇差が触ったりすると御目付が駆けてきて下城差留になります。譴責をうけるだけで、それ以上の処分はありません。


御能見物の登城の日に限って町奉行の批判や悪口をしてもいいそうで、将軍家が下情を知る意味があったようです。


■藩主の日常生活
厳格で東の門から出て西の門から帰るということができず、事前に 西の門の門番に伝えておかなければなりません。実際に浅野長勲が身をもって体験したそうで東の門から戻り、門番を賞したそうです。


御小納戸役に新規に任じられると古参メンバーに気を使わなければならず、これで坊ちゃん殿様を鍛えてから御前詰にします。


■参勤交代
京都を通らずに伏見を通るのが慣例でしたが幕末になり、豊後の殿様が国元へ戻る時に伏見に来た時、浪士がやってきて京都へ寄って天機を伺えということになり、すったもんだで勅使まできたため、それ以降は京都へ寄ることが慣例になってしまいました。


■黒船来航
甲冑具足を揃えようとしても、陣羽織が虫食いだらけというありさまで、具足師が大儲け。「武具馬具卸 亜米利加様と そっと云ひ」という川柳が出ました。ペリーは嘉永6年に来航して、来年に返事を受け取りに来ると言ってましたが来年を待たずに暮れに来たため幕府は驚きましたが、太陽暦があることを知らなかったからです。


■安藤信正
日本の施設がサンフランシスコに着いた時に祝砲を撃ち、相手も答礼しました。これを聞いたアメリカ公使ハリスが安藤信正に「今までわが軍艦が貴国へきて祝砲をうつと、とやかく言うのにサンフランシスコではなぜOKなのか」と聞くと、「祝砲は我が国では慣例がないが貴国では慣例なので、それに従ったまで、貴国も我が国に来たら慣例に従って打たぬのが礼ではないか」と言ったら、ハリスは返す言葉がありませんでした。


■遠島
舟を御用船にしたてないといけませんが誰もやりたがりません。仕方なくクジ引きとなります。


■御徒士町
維新後、幕府の官職名をつけるのはどうかということで岡地町になりましたが、すぐに戻ってしまいました。


■官軍
官軍が函館から脱走人を送らせるのに送る人に船が動かせなかったので捕らえた脱走降参人に頼んで船を動かしてもらうような事態でした。官軍が江戸へ進軍する時に逃げるために輸送料が高騰。下総の市川までカゴ1丁が金十両となりました。


■連戦連勝
「もしほ草」(岸田吟香)、「江湖新聞」(福地桜痴)などが会津や脱走が勝ったと書かないと新聞が売れないので奥羽軍が連戦連勝の記事ばかり。日清戦争の時には日本軍が勝っているのに清の新聞が清側が勝っている記事ばかり書いているのにあきれていたが、塚原渋柿(幕臣から新聞記者へ)は我が国も同じだったと苦笑したそうです。


■ジャナ号
ロシアの使節プーチャーチンが乗ったジャナ号が大坂に入りましたが下田で応接するということで下田に入った時に大津波で破損してしまいます。船の大砲が幕府に寄贈され幕府海軍操練所で使われていました。明治になって築地の海軍兵学校の稽古用砲台に使われていましたが、明治8年にロシアの軍艦が入り兵学校を見学に来た時に、このことを知り艦長は大砲の形状や番号を写し取って帰っていきました。

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2021/04/17

殿様は「明治」をどう生きたのか

 【書 名】殿様は「明治」をどう生きたのか
 【著 者】河合敦
 【発行所】扶桑社文庫
 【発行日】2021/03/01
 【ISBN 】978-4-594-08696-1
 【価 格】800円


■請西藩主 林忠祟
信濃国林郷に足利義教に迫害された世良田有親、親氏という親子がやってきて林光政が貧しいながらウサギの吸い物を出して歓待。やがて親氏が三河の土豪になった時に家来となり、親氏から9代目が家康になります。幕末、林忠祟は新政府軍に反し、藩主自らが脱藩届を出して戦います。徳川家存続が決まったため降伏。唐津藩の小笠原家にお預けとなり、自由な身となった明治5年には請西へ戻って農民になります。窮状をみかねた家臣が御家再興となります。林忠祟が亡くなったのは昭和16年、最後の大名となりました。夜寝る時は心臓を突かれないように左を下にして横臥していました。


■尾張藩 徳川慶勝
高須藩松平家から養子に入り、松平容保、松平定敬は兄弟でしたが歳が離れていました。尾張藩は新政府側となり東海道、中山道に40名近くの家臣を派遣して新政府に味方するように説得。新政府軍は江戸まで無事に到達できました。


■篤姫
徳川慶喜の後の徳川宗家を継いだのが徳川家達。篤姫の薫陶をうけていたため徳川慶喜をきらっていたようです。篤姫は徳川家の存続を朝廷に嘆願しますが徳川慶喜についてはどうなってもいいと思っていたようです。そのため家達は「慶喜は徳川を潰した人、私は建てた人」と語っていたそうです。明治20年、家達が25歳の時に家達の千駄ヶ谷の屋敷に天皇が行幸します。261年ぶりのことでした。


家達は能力が高い人物だったようで大正3年には内閣を組織するようにと大命降下がありましたが、辞退しました。実現していれば徳川内閣が誕生していました。

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