2009.09.09

幕末バトル・ロワイヤル

 【書 名】幕末バトル・ロワイヤル
 【著 者】野口 武彦
 【発行所】新潮新書
 【発行日】2007/3/20
 【ISBN 】978-4-10-610206-6
 【価 格】720円

大阪の阿倍野にある「天海堂書店」で買ってきました。ここのブックカバーって「ますむらひろし」風のネコのイラストでした。

幕末の天保の改革を中心に古文書などを駆使して当時の状況を描いた作品です。歴史で学んだ事実が、実際はどんな風だったのか生き生きと描き出しています。例えば黒船来航で影響をこうむったのが品川と神奈川県の金沢などを結んだ船の事業者。黒船のおかげで商売あがったりです。

そこで考えたのが黒船見学ツアー。群衆が見学に来ていたので、黒船の近くまで漕ぎ寄せるツアーは大当たり。町奉行からは辞めなさいという触書が出ますが、国家の危機も商売にしてしまう庶民のたのもしさがありました。

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2009.06.29

幕臣たちの誤算

 【書 名】幕臣たちの誤算
 【著 者】星 亮一
 【発行所】青春出版社
 【発行日】2003/5/15
 【ISBN 】4-413-04059-7
 【価 格】700円

人材が揃っていた幕府は、ひょっとしたら幕府&雄藩連合の新体制で明治時代を迎えたかもしれません。なぜ、そうならなかったのかを述べています。副題は「彼らはなぜ維新を実現できなかった」になっています。

最後は函館戦争で終わりますが、榎本武揚の助命嘆願を熱心に行ったのが福沢諭吉でした。榎本とはすれ違う時にお辞儀をするぐらいの間柄でしたが、実は妻どうしが縁戚だったんですね。福沢諭吉の妻は若い時に榎本の家に行ったことがあるそうで、それを聞いて福沢諭吉が動きました。

母親に助命の嘆願書の文章を考え、書かせました。効果があったようで面会できました。薩摩の黒田清隆が「海律全書」を訳してほしいと福沢に持ち込んだ時に最初の4,5枚だけ訳して、「これは榎本でないと訳せない」と返答し、黒田清隆が榎本の助命運動をするように仕向けました。

もっとも出牢した後、大臣を歴任した榎本に対して福沢諭吉は「痩せ我慢の説」を出して批判していますから面白いものです。

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2009.06.10

女たちの幕末京都

 【書 名】女たちの幕末京都
 【著 者】辻 ミチ子
 【発行所】中公新書
 【発行日】2003/4/15
 【ISBN 】4-12-101693-9
 【価 格】760円

幕末に活躍した女性史です。

安政の大獄で牢につながれた梅田雲浜ですが、妻の千代など家族4名は町内預けになってしまいました。門弟だった北村屋太助が4人の飯代を引き受け、ついでに梅田家の借金も支払おうとしましたが、貸し手はみな棒引きにしてくれました。この千代ですが、京都にできた女子教育施設・女紅場の権舎長に就任していたんですね。

鳥羽・伏見の戦いや大政奉還など歴史で習いますが、庶民もしっかり巻き込まれていました。江戸から将軍と一緒に大勢の武士がついてきますが、宿場だけでは当然足りませんので、村に宿泊の割り当てがあり右往左往。しかも戦乱で焼け出されるなど大変でした。

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2009.02.14

幕末下級武士のリストラ戦記

 【書 名】幕末下級武士のリストラ戦記
 【著 書】安藤 優一郎
 【発行所】文春新書
 【発行日】2009/1/20
 【ISBN 】978-4-16-660679-5
 【価 格】730円

徳川幕府の御徒組の家に生まれ、幕末の動乱から明治を生き抜いた山本政恒の一代記です。すさまじく筆まめだった人ですね。明治というとんでもないパラダイム変化の時代を迎えた武士がいかに生き抜いたかが敗者側から書かれています。イラストも全部本人が書いています。

働いていた徳川幕府がなくなり、官吏として出仕していた先から雇い止めにあったりと散々ですが、子供や家族のためにひたむきに頑張っていますね。こんな金融不況の時代にふさわしい一冊です。

徳川幕府がなくなった時に徳川家についていって静岡藩士になっていますが、篤姫の警護も担当していました。

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2008.11.11

東京今昔散歩

 【書 名】東京今昔散歩
 【著 者】原島広至
 【発行所】中経文庫
 【発行日】2008/9/3
 【ISBN 】978-4-8061-3124-3
 【価 格】657円

明治時代の彩色絵葉書と現代の写真を同一視点から紹介しています。すっかり変わってしまった場所が多いのですが、中にはほとんどそのままの場所もあります。

■アキバの由来
明治2年に神田で火事があり、防火祈願として作られた鎮火社が火除けの秋葉大権現の神社と勘違いされたことから、本当に秋葉神社になったそうです。また火除けの空地を秋葉っ原と呼んだのがアキバの地名の由来だったそうです。

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2008.05.20

幕臣たちの明治維新

 【書 名】幕臣たちの明治維新
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】講談社現代新書
 【発行日】2008/03/20
 【ISBN 】978-4-06-287931-6
 【価 格】700円

我々は明治維新の歴史が分かっているため、どう道を選んだら最適だったかが分かっていますが、実際にその現場にいた幕臣にとってはすさまじく難しい進路の選択でした。

徳川家を離れて新政府に出仕するか、農業や商売を始めるか、給与は出ないが殿様について静岡に行くか難しい選択です。新政府への出仕はいさぎよくとせず、実際に出仕した人も肩身の狭い思いだったようです。町人が徳川びいきでしたので新政府もなかなか難しい運営をせまられたようです。

薩長から見た歴史は習っていますが、敗者となった幕臣がどう明治維新を乗り切ったのかの歴史です。

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2008.02.13

高田屋嘉兵衛

 【書 名】高田屋嘉兵衛
 【著 書】童門冬二
 【発行所】成美文庫
 【発行日】1995/10/15
 【ISBN 】4-415-06428-0
 【価 格】560円

ロシアのゴローニン事件で有名な高田屋嘉兵衛です。物語の節目にスポットというコラム記事があるのですが、ゴローニン事件のその後について書かれていました。

ゴローニンが帰国後に書いた「日本幽囚記」ですが、1816年に刊行されすぐに英・仏・独・オランダなどで翻訳されました。日本へが1821年にオランダ語訳の翻訳が始まり1825年に「遭厄日本紀子事」となって出版されています。けっこう早かったんですね。ペリーは来航前に英訳版を読んでいたそうです。

高田屋は弟が2代目を継ぎましたが、松前藩や既得権益を奪われた商人の暗躍から財産没収、没落してしまうことになります。

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2007.09.10

武士の家計簿

 【書 名】武士の家計簿
 【著 者】磯田 道史
 【発行所】新潮新書
 【発行日】2003/4/10
 【ISBN 】4-10-610005-3
 【価 格】680円

神保町の古書店にかけつけ古文書を手に入れるところからスタートします。これが加賀藩士の猪山家文書でした。加賀藩の御算用者として幕末から明治にかけて克明な資料を残したことで、知られざる武士の生活が分かってきました。

武士がどんな生活をしたか、どんなお金の使い方をしたかほとんど分かっていませんでしたが、借金が多くて大変になった猪山家では一大

決心をして借金整理を始めます。今後は計画的に家計管理しようということで家計簿がつけられ文書が後世に残ることになりました。

猪山家の借金整理では家財を売り払い、不退転の決意を示し、借入先との交渉を行いました。現在の再建計画とやることは同じですね。

■蔵米知行
領地が与えられますが、実際は自分の領地に関係なく年貢が手元に入ってくるシステムになっています。つまり領民は領主の顔を見ることはありません。日本の領主制は領主と土地につながりが希薄な変わった領主制になっていました。

■妻の財産
今、考えている以上に妻の財産権があり、離婚してもさっさと再婚していました。32名の宇和島藩士のうち13人が離婚経験者でしかもバツ2は5人いました。

■猪山成之
幕末から維新にかけて活躍したのが猪山成之です。加賀藩の御算用者でしたが、戊辰戦争時にロジスティックスなどを見事にこなし、人材のいない明治政府に請われて出仕することになります。目をかけてくれたのが大村益次郎で、靖国神社に銅像が建っていますが、この建立に尽力したのが猪山成之でした。

他にも大久保利通が石川県士族・島田一良に暗殺されましたが、処刑された島田の遺骸を引き取りにいきました。なかなか胆力のある人です。、

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2007.08.25

妖怪といわれた男 鳥居耀蔵

 【書 名】妖怪といわれた男 鳥居耀蔵
 【著 者】童門 冬ニ
 【発行所】小学館文庫
 【発行日】2007/3/1
 【ISBN 】978-4-09-408155-8
 【価 格】590円

天保の改革を進めるため先頭にたって徹底的に弾圧したのが鳥居耀蔵です。「蛮社の獄」など有名です。甲斐守でもあったため名前との組み合わせで妖怪と呼ばれていました。

南町奉行をしていた時の北町奉行は遠山の金さん(遠山景元)でこちらは庶民の受けもよく、鳥居耀蔵はすっかり悪役のイメージとして定着してしまいました。

失脚した後は讃岐の丸亀藩に預けられていたんですね。しかも23年も。解放されたのは版籍奉還となった明治2年です。ところが徳川幕府が配流したのだから、徳川幕府からの赦免状が出ない限りは出て行かないと丸亀藩を困られたりしています。

配流された丸亀藩の生活から、どんな考えで天保の改革を進めたのかを語った小説です。

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2007.05.28

松浦武四郎と江戸の百名山

 【書 名】松浦武四郎と江戸の百名山
 【著 者】中村 博男
 【発行所】平凡社新書
 【発行日】2006/10/10
 【ISBN 】4-582-85344-7
 【価 格】700円



北海道の名付け親で有名な松浦武四郎です。松坂出身で今も生家が残っています。蝦夷探検が有名ですが、山好きで日本のいろいろな山に登っていたんですね。これは知りませんでした。70近くなっても大台ケ原や富士山に登っていました。

16歳の時に初めて江戸まで旅をし、次の年に2度目の旅に出ましたが、これが諸国を巡るたびで10年も旅に出ることに、実に長いですね。まずは京都、大阪へむかいますが津で会った大塩平八郎を大阪で訪ねています。平八郎の塾に誘われますが、辞退して旅に出ます。この3年後に大塩平八郎の乱が起きます。

旅の間の資金ですが、篆刻で礼金をもらったり四書や漢詩を講じたり、また伊勢の国の人間ですので遠方まで行くと、大神宮の紙を書いて欲しいと頼まれたりしたようで、これで路銀を稼ぎました。

さて蝦夷探検で有名になった松浦武四郎ですがペリー提督が浦賀に来航した時、吉田松陰が松浦武四郎を北辺の国防について意見を聞くために訪ねています。

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2007.04.15

スコットランドの漱石

 【書 名】スコットランドの漱石
 【著 者】多胡 吉郎
 【発行所】文春新書
 【発行日】2004/9/20
 【ISBN 】4-16-660398-1
 【価 格】690円



夏目漱石が国費留学生としてロンドンに派遣させ、ロンドンで神経をすり減らしていたのはよく知られていますが、帰国の少し前にスコットランドへ2週間ほど旅していました。漱石の文学の原点がこのスコットランドにあったのではという本です。

漱石を招待したのがスコットランドのピトロクリに住むディクソンという人物で、親日家で日本へも2回来訪した人物です。この2週間の生活がロンドンの生活で疲弊させていた漱石を蘇らせました。「草枕」の冒頭に「山路を登りながら、こう考えた。」という有名なせりふが出てきますが、この山路こそキリクランキーへの山路ではないかというのが著者の推理です。

草枕の英訳本は「The Grass Pillow」ではなく「The Three-Cornered World(三角の世界)」になっています。四角から三角にマイナスされた世界で、引き算の美学をあらわしています。カナダのピアニストであるグレン・グードルが座右の書にしていたのが草枕で、死去する枕元にも聖書と並んで置かれていたそうです。

■漱石と自転車
ロンドンの生活で神経衰弱となり、始めたのが自転車療法。遠乗りが可能なほど腕を上げたそうですが、日本に帰ってきてからはさっぱり自転車に乗らなかったとか。

→ 『スコットランドの漱石』

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2006.10.12

坂本龍馬の33年

 【書 名】坂本龍馬の33年
 【著 者】菊池 明
 【発行所】新人物往来社
 【発行日】2006/04/15
 【ISBN 】4-404-03296-X
 【価 格】1800円



坂本龍馬の足跡をたどりながら、いろいろな新事実を織り込んで紹介しています。

文章だけでなく写真も豊富です。全国各地の坂本龍馬像の写真もあり土佐・桂浜の像が有名ですが、他にもけっこういろいろなところに銅像があります。

伏見・寺田屋の古写真が載っていますが、当時は船から階段を昇ったところが寺田屋で、しかも川幅がいまと違ってかなり広くなっています。また池田屋の2階の古写真も載っていますが、階段落ちで有名な階段も写っています。けっこう急で、てすりもついています。

■坂本龍馬の暗殺者
新撰組や薩摩陰謀説などいろいろありますが、幕府見廻組が暗殺者のようです。佐々木只三郎、渡辺篤、渡辺吉太郎、世良敏郎(近江屋の現場に鞘を忘れる)、今井信郎らと現在では名前も分かっています。

戊辰戦争の後、今井信郎が新政府の取調べをうけた時はこれらの名前ではなく鳥羽・伏見の戦いで戦士した見廻隊の名前をあげていました。累が及ばないように配慮したのものですが、明治も終わりになると自らが刺客だったと名乗りでるようになりました。

■近江屋の血染めの掛け軸
現物は京都国立博物館に伝わっていますが、それとは別の写真が残っています。掛け軸の両端が破損し、中央の梅の絵にも血痕がついています。京都国立博物館の物には破損もなく、梅の絵の部分には血痕がついていません。表装をやり直して、血痕を消したのか、あるいはレプリカが作られたのか謎が深まります。

→ 『坂本龍馬の33年』

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2006.05.16

龍馬と新撰組の京都

 【書 名】龍馬と新撰組の京都
 【著 者】武山峯久
 【発行所】創元社
 【発行日】2001/11/15
 【ISBN 】4-422-20142-5
 【価 格】1300円



京都岡崎の「春の古書大即売会」で竹岡書店の棚で見つけ買ってきました。これが著者署名本で、献呈者の名前も入っていました。そんな本を古本屋さんに売るとは。

幕末に焦点を当てて京都の史跡ガイドになっています。知らなかった発見もいくつかありました。

■いよいよ果ての二十日どすなぁ
西陣のお年寄りが暮れの押し迫った時の挨拶の言葉です。語源は六角にあった政治思想犯専門の牢、六角獄舎で、年末12月20日が御用納めの日でした。獄舎浪人にとっても同じで、この日に刑の執行や言い渡しが行われたところから転じました。こんな挨拶言葉があったんですね。

■薩摩藩邸の門
同志社大学・今出川キャンパスの地下鉄近くに薩摩藩邸の門が残り、今も学生が使っています。同じ門を西郷隆盛や坂本龍馬、また薩長同盟におもむく桂小五郎が通ったことは昔から有名で、みんな知っていると思っていたらどうも違うんですね。学生は夢にも知らない、と書かれていました。

■三条大橋の擬宝珠
東海道の起点である三条大橋ですが、擬宝珠(ぎぼし)がのっています。中には建設当時の秀吉の時代のものが残っているんですね。これは知りませんでした。

■大政奉還
二条城の大政奉還というと慶喜が各藩の重役を集めて言い渡したイメージが強いのですが、実際は重役が揃ったところで、書面をまわし意見のあるものは残りなさいということで6名が残りました。この6名が慶喜に拝謁したのみで重役の前には出ていなかったそうです。

■龍馬暗殺計画は分かっていた?
11月13日新撰組を脱退した伊東甲子太郎が訪ねてきて、危ないので土佐藩邸に移るように言われたが龍馬は無視。
11月14日伏見・寺田屋のお登勢が暗殺の噂を伝えます。伏見からわざわざ出てくるのである程度確証があったのでしょう。
結局、11月15日に近江屋で暗殺されてしまいます。

→ 『龍馬と新撰組の京都』

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2006.05.05

龍馬の金策日記

 【書 名】龍馬の金策日記
 【著 者】竹下 倫一
 【発行所】祥伝社新書
 【発行日】2006/05/05
 【ISBN 】4-396-11038-3
 【価 格】760円



京阪中書島で降りて、寺田屋へ行ってきました。2階に龍馬がよく使っていた部屋が残っており柱には弾痕の跡も残っています。

さて、その寺田屋も出てきますが龍馬はいったいどうやって稼いでいたのかという視点からの本です。

土佐藩を脱藩してからも実家から何がしかの援助を受けていたそうです。一番会計的に楽だったのは勝海舟と出会って海軍塾に入っていた頃です。ただこれも解散となってしまいます。

ただし、この頃には坂本龍馬といえばかなりの有名人で、自分の稼ぎの心配いりませんでしたが、ところが龍馬をしたって集まってくる連中をなんとかしなければなりません。

そこで出来たのが海援隊と陸援隊(中岡慎太郎)です。土佐藩では尊皇攘夷運動を行う藩士を保護していなかったので、その脱藩者を支援する目的がそもそもの発端でいた。

また明治の元勲のほとんどが長男でしたが、龍馬だけ次男だったので経済感覚が優れていたというのも面白い視点です。確かに長男ということで家を継げばよいと育った連中と、世に出るのも大変だった次男以降では経済観念がだいぶ違っていたようです。

■龍馬が新撰組に?
清河八郎が幕府に浪士隊を建白しますが、幹部候補生12名の中に龍馬の名前が入っていました。龍馬と清河八郎とは千葉道場つながりでしたが、結局、龍馬は参加せず、やがて浪士隊から新撰組が生まれます。ひょっとしたら浪士隊に参加した可能性もありますが、勝海舟が浪士を集めて海軍を興そうと海軍塾を作り、こっちへ参加することになります。

■藤岡屋日記
亀山社中のまんじゅう屋近藤長次郎の自刃については当時からいろいろと噂になっていたようです。江戸時代の有名な古本屋であった藤岡屋日記によると長州人の英国への密航がからんでいたそうで、どうも高杉晋作が関係していたようです。ちょうど薩長同盟締結など微妙な時で、近藤長次郎が一身に責任を負い、自刃したのが真相のようです。

→ 『龍馬の金策日記』

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2006.04.05

孝明天皇と「一会桑」

 【書 名】孝明天皇と「一会桑」
 【著 者】家近良樹
 【発行所】文春新書
 【発行日】2002/1/20
 【ISBN 】4-16-660221-7
 【価 格】700円



幕末というと薩長が首尾一貫、武力による倒幕を考え、最終的に鳥羽伏見の戦いで幕府に引導を渡したイメージがありますが、実態はどうも違っていたようです。幕末にスポットをあて実際はどうであったかを時系列に書いた本で、副題は『幕末・維新の新視点』です。

題名の「一会桑」は一橋、会津藩、桑名藩で頭文字をとったもので、京都で孝明天皇を中心とする公家社会と応対した幕府側です。一橋は一橋慶喜、会津藩は松平容保、桑名藩は松平定敬です。松平定敬は松平容保の弟で、五稜郭まで戦った殿様として有名です。末期の新撰組に桑名藩士が多いのは、殿様自ら土方歳三らと転戦したのが理由です。

さて「一会桑」は幕府の京都側代表でしたが、どうも江戸とも一体に動いたのとは違い、どうも微妙に立場をかえていました。その一会桑も慶喜が将軍となることでまた立場が変わっていきます。

最終的に徳川慶喜が大政奉還を行うことで幕府側が有利となり、この時点で巻き返しをはかった薩長が王政大復古のクーデターを起こします。ただし幕府と戦うことは想定外で会津藩、桑名藩との交戦を想定していました。ところが徳川慶喜が京都を出て、大阪へ向かうことで、この作戦も功を奏しなくなります。この時点でも幕府側のポイントが高かったのですが、薩摩藩邸の焼き討ちがターニングポイントになりました。

筆者によれば『三点差で負けていたのを九回の裏ツーアウトの後に放たれた一本の逆転サヨナラ満塁弾が試合を引っくり返した』のだそうで倒幕は僥倖だったというのが真相のようです。

また横浜開港以来、油や紙などの日用品が高騰してしまい、下関で排外運動に立ち上がった長州藩に世間に人気が集まっていました。こんなことも影響していたようです。

→ 『孝明天皇と「一会桑」』

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2006.03.18

龍馬の手紙

 【書 名】龍馬の手紙
 【著 者】宮地佐一郎
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】1995/8/15
 【ISBN 】4-569-56794-0
 【価 格】940円



全ページにわたり上に坂本龍馬自筆の手紙の写真、下にその内容と解説というスタイルです。写真の手紙は見ても何が書いてあるか分かりませんよくこんな古文書が読めるものです。

本には現存している136通の手紙が載っています。慶応3年11月14日暗殺される前日までの手紙が残っています。中には龍馬お得意の海戦図などを書いたのもあり、これは写真を見るだけで楽しめます。

お龍への手紙が一番残っていそうですが、龍馬亡き後、お龍が明治初年に一時土佐に身を寄せ、上方に去る際に、焼き捨てたため残っているのはわずかに1通だけです。

坂本龍馬が暗殺されたと聞いた時、西郷は後藤象二郎を捕まえて「オイ、後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れて置いたなら、こんな事にはならないのだ、土佐の奴等は薄情でいかん」と怒鳴りつけ「土佐、薩摩を尋ねても外にあの位の人物は無いわ、ええ惜しいことをした」と流石の西郷も泣きに泣いたと「反魂香」に記録されています。

■神戸加納町
紀州の材木商に加納宗七がいて、同じ紀州藩出身の陸奥宗光と懇意でした。海援隊との間で起こった「いろは丸事件」でうらみに思った紀州藩の藩用人が龍馬暗殺を企てたとみなして海援隊と共に商人ながら切り込んでいます。
維新後、海軍塾ゆかりの神戸で船問屋を営み、神戸港の築港や生田川の改修に私財を投じて骨をおり、今も加納町と名前を残しています。

■龍馬の和歌
いくつかの和歌も残しています。
  湊川にて
   「月と日のむかしを
    しのぶみなと川
    流れて清き菊の下水」

菊の下水は「菊水」つまり楠正成の家紋です。正成の残した志が今も清く流れている。湊川だけでなく、龍馬自身にも流れているという歌です。

  伏見より江戸へ旅立つとき
  「又あふと思う心をしるべにて
   道なき世に出づる旅かな」

お龍に与えた歌で、また会うことができるだろうというその心だけを頼りに、道もない世の中へ出ていくと歌です。

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2006.03.15

幕末単身赴任 下級武士の食日記

 【書 名】幕末単身赴任 下級武士の食日記
 【著 者】青木 直己
 【発行所】生活人新書
 【発行日】2005/12/10
 【ISBN 】4-14-088165-8
 【価 格】700円



桜田門外の変が起きた頃、紀州藩の下級武士であった酒井伴四郎が江戸藩邸へ単身赴任します。この酒井伴四郎ですが実に筆マメな人で、何をいくらで買った、何を食べたかが日記として記録されております。これで幕末・下級武士の食生活が分かります。

まずは和歌山からの出立です。叔父など5名と大阪へ向かいますが、さっそく名物の虎屋饅頭を飛脚で和歌山へ送ったりしています。売っていたのは高麗橋にあった虎屋伊織という店で商品券にあたる饅頭切手を考えたり、店頭で饅頭を蒸し上げるパフォーマンスをして客寄せしたりユニークな店だったようです。残念ながら明治になくなっています。

ずっと中山道を旅して江戸に入りますが、名物の饅頭を食べたり酒を飲んだりとなかなか楽しい旅だったようです。

さて江戸についてからの生活ですが、自炊したり藩邸へおかずを売りにきた商品から買ったり、外食したりと今の単身赴任生活と変わりません。安いイワシをメインに魚が中心ですが、豚や鳥、牛肉なども食べていたんですね。

安い時に食材を多めに買って総菜にする等、生活の知恵ですね。ところが叔父が食べてしまった!とも記録されています。

さて外食ですが色々な店がありましたが、やはり多かったのがそば屋です。幕末には1町に1軒のそば屋がありました。ただし、江戸初期はそばもうどんも菓子屋が作っていたそうで、やがて専業の店が登場します。

■和菓子の日
6月16日は嘉祥の日で将軍が大名に菓子を配ったり、大名が家臣に配る風習がありました。けっこう古く室町時代には広まっていました。明治時代になくなってしまいましたが、現在、「和菓子の日」として復活しています。
 → 幕末単身赴任 下級武士の食日記

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2005.10.18

幕末維新あの人の「その後」

 【書 名】幕末維新あの人の「その後」
 【著 者】日本博学倶楽部
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2003/9/17
 【ISBN 】4-569-66024-X
 【価 格】514円



幕末維新の活躍した人物のその後のエピソードを集めた本です。よく知っているのもあるのですが、中には初めて聞くものもありました。

■ロシア皇太子襲撃事件
いわゆる大津事件です。犯人の津田三蔵ですが、三重県の伊賀上野市の出身だったんですね。そういえば上野の寺町通を歩いていた時に津田三蔵墓とかありましたが、何でこんなところにと思ったのを思い出しました。

西南戦争で功を上げて褒美をもらったのですが、実は西郷が生きていてロシアに逃れたのではという噂から、ロシアから俺の褒美をとりに来ると強迫観念にかられたのが事件の真相だったようです。

■脱藩して戊辰戦争を戦った藩主
戊辰戦争で潔しとせず、函館まで転戦した桑名藩主などは有名ですが、林という上総請西藩(1万石)の藩主は何と脱藩して戦ったそうです。

官軍が迫る中で、戦う軍事力はないため、藩と謹慎中の徳川慶喜に迷惑がかからないように藩主自らが脱藩したんだそうです。59人を連れて脱藩しましたが、出陣する時に村人が皆、見送ったそうです。目的は徳川家の再興でした。

東北で戦っていましたが、そこへ徳川の存続が決まった知らせが届き、官軍に降伏したそうです。

風変わりな殿様だったようで、脱藩して新政府と戦ったので一介の庶民となり、何と農民となってかっての自分の領地に入植したそうです。明治26年にようやく華族となりましたが、歴史の影にはこんな変わった人物もいるんですね!

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2005.09.19

三重幕末維新戦記

 【書 名】三重幕末維新戦記
 【著 者】横山 高治
 【発行所】創元社
 【発行日】1999/1/1
 【ISBN 】4-422-20463-7
 【価 格】1800円



三重県には幕末当時、桑名藩と藤堂藩が10万石以上の藩としてありました。

鳥羽伏見の戦いで、幕府が総崩れとなる転換点となったのが山崎の砲台を守っていた幕府側の藤堂藩が裏切って、新政府側についたことです。

山崎の対岸が両軍の戦いの中心点でしたが、そこへ側面から砲撃を開始し、これで幕府軍は大阪へ敗退することになります。

藤堂藩の藩祖は藤堂高虎で、秀吉子飼いでありながら、家康の腹心のような形で江戸幕府誕生を助けた大名でした。そこで司馬遼太郎氏などは鳥羽伏見の裏切りを、まあ藩祖からそうだったからなとおっしゃっておられました。

■徳川藩

ですが、この本を読むと、けっこう違った視点で書かれています。

幕末の藤堂藩は「天下の文藩」と言われ、頼山陽、大塩平八郎、吉田松陰らが来遊した土地で、大塩平八郎などは藩主と面談までしているような勤王藩だったそうです。

ただ外様でありながら、一回も知行替えもなく、徳川の先鋒の家柄であったので、勤王でありながら基本的に幕府側でした。

大和天誅組事件が起きた時にも、幕府の命令で鎮圧に向かっています。ただ心情的には勤王藩ということもあり天誅組に同情的で、捕虜を幕府大目付に引き渡す時にも温情的な取り扱いを頼み約束させました。

ところが、約束を無視して幕府は斬首にしていまいます。実はこれが山崎での裏切りの発端になったようです。

■鳥羽伏見の戦い

藤堂藩に幕府側で参戦し、山崎の砲台を守ることになりますが、新撰組や会津藩が鳥羽街道から後退し、山崎の地が戦の中心になりました。

そこで勤王藩ということで、新政府側からも協力の使者が来ます。また幕府側からも寝返られたら大変と使者が来ますが、この使者が幕府大目付でした。

「貴殿は、天誅組志士に対して温情的扱いを約束しながら破ったではないか!」と藤堂藩の総帥が激怒、やがて錦の御旗が禁裏を出た話が伝わり、ここで新政府軍についたというのが真相なんだそうです。

幕府側の交渉相手が悪かったようで、長岡藩の河合継之助と同じようなパターンだったようです。こっちは新政府側が悪かったのですが

藤堂藩はこの後、ずっと五稜郭まで新政府側で戦い続けています。特に伊賀の兵が強かったようです。

■もう一方の桑名藩は

桑名藩の藩主は会津藩の松平容保の実弟でした。もちろん鳥羽伏見にも参戦、徳川慶喜の江戸への逃走にもついていきます。

その間に若君のいる桑名藩は新政府軍の進軍路でもあり降伏しましたが、藩主の方は潔しとせず、自ら上野彰義隊、会津戦、越後戦などを戦い、最後は五稜郭で戦っています。血気盛んな殿様です。最後は五稜郭を脱出して上海へ逃れ、やがて日本へ戻り、天寿を全うしています。

五稜郭の頃には土方歳三と一緒に戦っており、これが桑名藩新撰組です。強かったようですね。特に立見という侍は政府軍に名がとどろいていました。

西南戦争が起こった時には、大久保利通などが、そうだ我々を苦しめた桑名藩の立見がいるではないかと思い出し、三重県庁に出仕していたのを陸軍新撰旅団副長として呼び出し、軍功を立てています。後に陸軍大将にまでなっています。

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2005.09.05

幕末・維新おもしろ事典

 【書 名】幕末・維新おもしろ事典
 【著 者】奈良本辰也 監修
 【発行所】三笠書房
 【発行日】1989/10/10
 【ISBN 】4-8379-1403-9
 【価 格】1068円



■幕末の京都
京都の人達は尊皇派の志士に同情的で幕府の探索にあわないように、かくまいました。王城の地だったこともありますが、経済的な理由もあったそうです。

伝統産業であった西陣織が開国による外国との貿易で生糸が輸出され、生糸を原料に使っていた西陣は品不足に泣くことになります。そこで開国反対派である尊皇攘夷派の志士を応援することになります。

■幕末の英会話ガイドブック
世の中にはめざとい人がいるもので万延元年(1860年)には英会話ガイドブックが出版されています。

 まろうど   「ゲスト」
 めりやす   「ストッキング」
 ねだんなんぼ 「ハマチ」

なんてものらしかったです。

■第一国立銀行
我が国最初の銀行は明治6年に出来た第一国立銀行ですが、これって国営という意味ではなく、国法(国立銀行条例)で出来た銀行という意味だったんですね。れっきとした民間銀行だったそうです。まぎらわしい名前ですねえ。

幕末に関しては、昔、Nifty-ServeにあったFchiken(知的生産の技術)フォーラム会員の庄田さんが『幕末千夜一夜』というとんでもないデータベースを作成されていました。今も幕末千夜一夜はあります。幕末のことがすぐ分かり、とっても便利なホームページです。

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