2021/06/19

幕末武家の回想録

 【書 名】幕末武家の回想録
 【著 者】柴田宵曲
 【発行所】角川ソフィア文庫
 【発行日】2020/10/25
 【ISBN 】978-4-04-400600-6
 【価 格】1,320円


■将軍への謁見
5人1組ぐらいでお辞儀をするだけですが畳の縁に手がついたり、障子に脇差が触ったりすると御目付が駆けてきて下城差留になります。譴責をうけるだけで、それ以上の処分はありません。


御能見物の登城の日に限って町奉行の批判や悪口をしてもいいそうで、将軍家が下情を知る意味があったようです。


■藩主の日常生活
厳格で東の門から出て西の門から帰るということができず、事前に 西の門の門番に伝えておかなければなりません。実際に浅野長勲が身をもって体験したそうで東の門から戻り、門番を賞したそうです。


御小納戸役に新規に任じられると古参メンバーに気を使わなければならず、これで坊ちゃん殿様を鍛えてから御前詰にします。


■参勤交代
京都を通らずに伏見を通るのが慣例でしたが幕末になり、豊後の殿様が国元へ戻る時に伏見に来た時、浪士がやってきて京都へ寄って天機を伺えということになり、すったもんだで勅使まできたため、それ以降は京都へ寄ることが慣例になってしまいました。


■黒船来航
甲冑具足を揃えようとしても、陣羽織が虫食いだらけというありさまで、具足師が大儲け。「武具馬具卸 亜米利加様と そっと云ひ」という川柳が出ました。ペリーは嘉永6年に来航して、来年に返事を受け取りに来ると言ってましたが来年を待たずに暮れに来たため幕府は驚きましたが、太陽暦があることを知らなかったからです。


■安藤信正
日本の施設がサンフランシスコに着いた時に祝砲を撃ち、相手も答礼しました。これを聞いたアメリカ公使ハリスが安藤信正に「今までわが軍艦が貴国へきて祝砲をうつと、とやかく言うのにサンフランシスコではなぜOKなのか」と聞くと、「祝砲は我が国では慣例がないが貴国では慣例なので、それに従ったまで、貴国も我が国に来たら慣例に従って打たぬのが礼ではないか」と言ったら、ハリスは返す言葉がありませんでした。


■遠島
舟を御用船にしたてないといけませんが誰もやりたがりません。仕方なくクジ引きとなります。


■御徒士町
維新後、幕府の官職名をつけるのはどうかということで岡地町になりましたが、すぐに戻ってしまいました。


■官軍
官軍が函館から脱走人を送らせるのに送る人に船が動かせなかったので捕らえた脱走降参人に頼んで船を動かしてもらうような事態でした。官軍が江戸へ進軍する時に逃げるために輸送料が高騰。下総の市川までカゴ1丁が金十両となりました。


■連戦連勝
「もしほ草」(岸田吟香)、「江湖新聞」(福地桜痴)などが会津や脱走が勝ったと書かないと新聞が売れないので奥羽軍が連戦連勝の記事ばかり。日清戦争の時には日本軍が勝っているのに清の新聞が清側が勝っている記事ばかり書いているのにあきれていたが、塚原渋柿(幕臣から新聞記者へ)は我が国も同じだったと苦笑したそうです。


■ジャナ号
ロシアの使節プーチャーチンが乗ったジャナ号が大坂に入りましたが下田で応接するということで下田に入った時に大津波で破損してしまいます。船の大砲が幕府に寄贈され幕府海軍操練所で使われていました。明治になって築地の海軍兵学校の稽古用砲台に使われていましたが、明治8年にロシアの軍艦が入り兵学校を見学に来た時に、このことを知り艦長は大砲の形状や番号を写し取って帰っていきました。

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2021/04/17

殿様は「明治」をどう生きたのか

 【書 名】殿様は「明治」をどう生きたのか
 【著 者】河合敦
 【発行所】扶桑社文庫
 【発行日】2021/03/01
 【ISBN 】978-4-594-08696-1
 【価 格】800円


■請西藩主 林忠祟
信濃国林郷に足利義教に迫害された世良田有親、親氏という親子がやってきて林光政が貧しいながらウサギの吸い物を出して歓待。やがて親氏が三河の土豪になった時に家来となり、親氏から9代目が家康になります。幕末、林忠祟は新政府軍に反し、藩主自らが脱藩届を出して戦います。徳川家存続が決まったため降伏。唐津藩の小笠原家にお預けとなり、自由な身となった明治5年には請西へ戻って農民になります。窮状をみかねた家臣が御家再興となります。林忠祟が亡くなったのは昭和16年、最後の大名となりました。夜寝る時は心臓を突かれないように左を下にして横臥していました。


■尾張藩 徳川慶勝
高須藩松平家から養子に入り、松平容保、松平定敬は兄弟でしたが歳が離れていました。尾張藩は新政府側となり東海道、中山道に40名近くの家臣を派遣して新政府に味方するように説得。新政府軍は江戸まで無事に到達できました。


■篤姫
徳川慶喜の後の徳川宗家を継いだのが徳川家達。篤姫の薫陶をうけていたため徳川慶喜をきらっていたようです。篤姫は徳川家の存続を朝廷に嘆願しますが徳川慶喜についてはどうなってもいいと思っていたようです。そのため家達は「慶喜は徳川を潰した人、私は建てた人」と語っていたそうです。明治20年、家達が25歳の時に家達の千駄ヶ谷の屋敷に天皇が行幸します。261年ぶりのことでした。


家達は能力が高い人物だったようで大正3年には内閣を組織するようにと大命降下がありましたが、辞退しました。実現していれば徳川内閣が誕生していました。

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2018/10/19

新史料からわかった新選組の真実

 【書 名】新史料からわかった新選組の真実
 【著 者】菊池 明
 【発行所】洋泉社歴史新書
 【発行日】2018/10/19
 【ISBN 】978-4-8003-1572-4
 【価 格】950円

最新史料をもとに新選組の実態に迫っています。江戸で近藤勇が開いていた道場は試衛館という名前でしたが本当は試衛場でした。他の剣道道場で館という名前が多かったので小説などを書く時に試衛館となり世間に流布したようです。

新見錦 「にいみ」ではなく「しんみ」
山南敬助 「やまなみ」ではなく「さんなん」

他にも伊藤甲子太郎の江戸の道場はどこにあったのか、池田屋の本当の場所はどこか、西本願寺に屯所が移ったのはいつかなどが新史料をもとに明らかにされています。

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2018/04/26

素顔の西郷隆盛

 【書 名】素顔の西郷隆盛
 【著 者】磯田 道史
 【発行所】新潮新書
 【発行日】2018/03/30
 【ISBN 】978-4-10-610760-3
 【価 格】820円

大河ドラマ「西郷どん」で描かれている西郷隆盛ですが、薩摩は戦国の気風を残している国でした。我慢しなさいと子どもを叱る時には「雪駄の革をかじれ」と言います。島津義弘が関ケ原での撤退戦で兵糧がつき、「腹が減ったら、履いている雪駄の革をかじれ」と言いあったことに由来しています。また子供が「寒い」と言うと、「朝鮮の陣では島津の武士が寒さに手がかじかんで刀が抜けず、不覚を取った」と叱られたそうです。

そんな戦国の気風が残っていたため、蛤御門の変で長州と幕府がにらみあっているだけで発砲しないなか、横からあらわれた薩摩はすぐに発砲します。薩摩だけは戦国フリーズドライで太平の世が終わった瞬間に戦国に戻りました。最終的にはこれが西南戦争につながってしまいます。

西郷隆盛といえば敬天愛人ですが、月照との心中で助かり、奄美大島に隠れた時に現地でヒザ(奴隷制度)などを知り改善運動をしています。月照は死に自分は生き残ったことから、ひたすら公のためにつくすことを考えたようです。また犬好きでよく飼い犬にウナギを食べさせていたようです。

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2017/12/22

新撰組顛末記

 【書 名】新撰組顛末記
 【著 者】永倉 新八
 【発行所】角川新書
 【発行日】2017/11/10
 【ISBN 】978-4-04-082185-6
 【価 格】800円

新人物往来社から出ていた新撰組顛末記に解説を加え、再編集した本です。新撰組二番隊隊長で明治にも生き残った永倉新八が最後に残した回想録です。小樽に住んでいた永倉新八に小樽新聞社の記者が取材し「永倉新八ー昔は近藤勇の友達 今や小樽に楽隠居」に連載となり、これをまとめた本になります。

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2017/11/18

お姫様は幕末明治をどう生きたのか

 【書 名】お姫様は幕末明治をどう生きたのか
 【著 者】河合 敦
 【発行所】洋泉社歴史新書
 【発行日】2016/01/23
 【ISBN 】978-4-8003-0801-6
 【価 格】930円

幕末の動乱を大名の姫たち15人がどう生き抜いたのかを追っています。家定の正室となった篤姫や家茂の正室となった和宮も登場しますが、あまり知られていない姫についても書かれています。慶喜の側室だったのが新村信。家は下級旗本の松平家。側室になる時に一橋家の用心だった新村猛雄の養女となります。また新村猛雄は明治20年代にも養子をもらい、これが後に広辞苑を生み出す新村出でした。

伊達家の娘だったのが伊達保子。亘理(わたり)伊達家へ嫁ぎます。戊辰戦争が終わると分家の亘理領が大いに減らされ生きる道は蝦夷開拓しかありませんでした。新政府からの支援もなく苦労続きでしたが私財を投じるなど、ようやく成功させます。伊達保子は「伊達開拓の母」と呼ばれるようになります。


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2017/11/15

なぜ地形と地理がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか

 【書 名】なぜ地形と地理がわかると幕末史がこんなに面白くなるのか
 【著 者】大石 学
 【発行所】洋泉社
 【発行日】2017/10/19
 【ISBN 】978-4-8003-1336-2
 【価 格】900円

ペリーが開国を求めて来航しましたが江戸まで入りませんでした。これは当時の国際法に基づくものです。公海、領海、内水(ないすい)に分かれており浦賀から先の江戸湾は内水でした。ペリーが江戸湾に測量船を送り込んだ時、浦賀奉行与力の中島三郎助が内海に乗り入れることは認められないと抗議したことから江戸湾を退去しました。

江戸を守る台場は品川沖に作られましたが、江戸湾には江戸川や多摩川で運ばれた土砂が堆積していて大型船が入れるのは品川沖だけでした。ですので、ここに台場を築けば江戸湾の防衛ができました。

岩倉使節団はアメリカだけでなくヨーロッパもまわり、特にベルギーやスイスをまわり大国に囲まれながら、どうやって独立を維持しているのか学びたかったようです。

淡路島は兵庫県ですが、もともとは徳島藩の筆頭家老だった稲田氏に原因があります。幕末の徳島藩は佐幕でしたが、稲田氏は尊王攘夷派。維新後に淡路は徳島県から分離され兵庫県に所属することになります。


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幕末武士の京都グルメ日記

 【書 名】幕末武士の京都グルメ日記
 【著 者】山村竜也
 【発行所】幻冬舎新書
 【発行日】2017/07/30
 【ISBN 】978-4-344-98465-3
 【価 格】780円

副題は「伊庭八郎征西日記を読む」となっています。21歳の幕臣である伊庭八郎が将軍・徳川家茂の警備のために上洛することになり、その日記です。幕末の京都というと騒然としたイメージがありますが、日記を見るといろいろと観光に行き、ウナギやらいろいろな名物を食べたりけっこう平穏無事に過ごしていることがよくわかります。勤務は夜勤もありますが4日に1日程度の出仕でのんびりとした勤務だったんですね。

家茂が船で江戸へ戻るために大坂へ行った時は暗峠を超えて奈良まで一泊旅行もしています。伊庭八郎は陸路で江戸にもどることになりますが大津、草津を超えて石部宿で川留に会った時に新選組による池田屋事件が発生し、急遽、京都へ戻る以外はのんびりしたものです。途中、弟の具合が悪くなった時は亀山宿で藩主から医者を世話してもらうなどしていました。伊庭八郎は心形刀流の跡取りで剣士だったことから一目おかれていたようです。無事に帰った伊庭八郎ですが、そのあとは幕末の動乱に巻き込まれます。

家茂の2回目の上洛にも付き従います。徳川慶喜の軍制改革では遊撃隊入りし戊辰戦争を戦います。恭順を決めた遊撃隊から離れ、函館まで転戦。幕臣としての矜持をつらぬき五稜郭で亡くなりました。26歳でした。

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2017/07/09

司馬遼太郎で学ぶ日本史

 【書 名】司馬遼太郎で学ぶ日本史
 【著 者】磯田道史
 【発行所】NHK出版新書
 【発行日】2017/05/10
 【ISBN 】978-4-14-088517-8
 【価 格】780円

徴兵され満州で戦車兵として過ごし、理不尽な軍隊生活を経験した司馬遼太郎にとって、日本はどこで間違ったかが大いなるテーマでした。幕末を舞台にした「花神」では大村益次郎(村田蔵六)が主人公で、時代は火縄銃からライフル銃、アームストロング砲にとって変わられる時代です。村田蔵六は合理主義で暑ければ浴衣に百姓笠で長州防衛戦いの指揮をとります。司令官がこれですから、軍服をきちっと着ないと殴られる日本陸軍とは雲泥の差。

明治維新を迎え、「坂の上の雲」で描かれたように、ロシアに攻め込まれる恐怖のなか日露戦争を戦い抜き植民地化を逃れました。おかしくなりはじめたのは、この頃からでナショナリズムの暴走が始まります。これが愛国心だったらよかったのですが、ナショナリズムというのは「自分の家がかわいい」が肥大化し「自分の国がかわいい」であり、愛国心(パトリオティズム)になると「自分はたまたま名家に生まれついたのだから、一層きっちりして周りから尊敬される家にしよう」を国レベルで考えることになります。ノブレス・オブリージュという言葉があり、貴族やエリートは受けたものが大きければ大きいほど、社会に還元する義務が大きいという考え方にもちかいです。

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2017/05/13

千駄木の漱石

 【書 名】千駄木の漱石
 【著 者】森まゆみ
 【発行所】ちくま文庫
 【発行日】2016/06/10
 【ISBN 】978-4-480-43358-9
 【価 格】800円

東京市本郷区千駄木町57番地に1903(明治36)年に夏目漱石が引越してきます。同じ家に一時期、森鴎外も住んでいました。現在、明治村に移築されて公開されています。この家でこ漱石は「吾輩は猫である」を発表し、文壇にその名を高めます。作品の中に猫のためのくぐり戸など家の様子が描写されています。

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