【書 名】三重幕末維新戦記
【著 者】横山 高治
【発行所】創元社
【発行日】1999/1/1
【ISBN 】4-422-20463-7
【価 格】1800円
三重県には幕末当時、桑名藩と藤堂藩が10万石以上の藩としてありました。
鳥羽伏見の戦いで、幕府が総崩れとなる転換点となったのが山崎の砲台を守っていた幕府側の藤堂藩が裏切って、新政府側についたことです。
山崎の対岸が両軍の戦いの中心点でしたが、そこへ側面から砲撃を開始し、これで幕府軍は大阪へ敗退することになります。
藤堂藩の藩祖は藤堂高虎で、秀吉子飼いでありながら、家康の腹心のような形で江戸幕府誕生を助けた大名でした。そこで司馬遼太郎氏などは鳥羽伏見の裏切りを、まあ藩祖からそうだったからなとおっしゃっておられました。
■徳川藩
ですが、この本を読むと、けっこう違った視点で書かれています。
幕末の藤堂藩は「天下の文藩」と言われ、頼山陽、大塩平八郎、吉田松陰らが来遊した土地で、大塩平八郎などは藩主と面談までしているような勤王藩だったそうです。
ただ外様でありながら、一回も知行替えもなく、徳川の先鋒の家柄であったので、勤王でありながら基本的に幕府側でした。
大和天誅組事件が起きた時にも、幕府の命令で鎮圧に向かっています。ただ心情的には勤王藩ということもあり天誅組に同情的で、捕虜を幕府大目付に引き渡す時にも温情的な取り扱いを頼み約束させました。
ところが、約束を無視して幕府は斬首にしていまいます。実はこれが山崎での裏切りの発端になったようです。
■鳥羽伏見の戦い
藤堂藩に幕府側で参戦し、山崎の砲台を守ることになりますが、新撰組や会津藩が鳥羽街道から後退し、山崎の地が戦の中心になりました。
そこで勤王藩ということで、新政府側からも協力の使者が来ます。また幕府側からも寝返られたら大変と使者が来ますが、この使者が幕府大目付でした。
「貴殿は、天誅組志士に対して温情的扱いを約束しながら破ったではないか!」と藤堂藩の総帥が激怒、やがて錦の御旗が禁裏を出た話が伝わり、ここで新政府軍についたというのが真相なんだそうです。
幕府側の交渉相手が悪かったようで、長岡藩の河合継之助と同じようなパターンだったようです。こっちは新政府側が悪かったのですが
藤堂藩はこの後、ずっと五稜郭まで新政府側で戦い続けています。特に伊賀の兵が強かったようです。
■もう一方の桑名藩は
桑名藩の藩主は会津藩の松平容保の実弟でした。もちろん鳥羽伏見にも参戦、徳川慶喜の江戸への逃走にもついていきます。
その間に若君のいる桑名藩は新政府軍の進軍路でもあり降伏しましたが、藩主の方は潔しとせず、自ら上野彰義隊、会津戦、越後戦などを戦い、最後は五稜郭で戦っています。血気盛んな殿様です。最後は五稜郭を脱出して上海へ逃れ、やがて日本へ戻り、天寿を全うしています。
五稜郭の頃には土方歳三と一緒に戦っており、これが桑名藩新撰組です。強かったようですね。特に立見という侍は政府軍に名がとどろいていました。
西南戦争が起こった時には、大久保利通などが、そうだ我々を苦しめた桑名藩の立見がいるではないかと思い出し、三重県庁に出仕していたのを陸軍新撰旅団副長として呼び出し、軍功を立てています。後に陸軍大将にまでなっています。
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