【書 名】幕末武家の回想録
【著 者】柴田宵曲
【発行所】角川ソフィア文庫
【発行日】2020/10/25
【ISBN 】978-4-04-400600-6
【価 格】1,320円
■将軍への謁見
5人1組ぐらいでお辞儀をするだけですが畳の縁に手がついたり、障子に脇差が触ったりすると御目付が駆けてきて下城差留になります。譴責をうけるだけで、それ以上の処分はありません。
御能見物の登城の日に限って町奉行の批判や悪口をしてもいいそうで、将軍家が下情を知る意味があったようです。
■藩主の日常生活
厳格で東の門から出て西の門から帰るということができず、事前に 西の門の門番に伝えておかなければなりません。実際に浅野長勲が身をもって体験したそうで東の門から戻り、門番を賞したそうです。
御小納戸役に新規に任じられると古参メンバーに気を使わなければならず、これで坊ちゃん殿様を鍛えてから御前詰にします。
■参勤交代
京都を通らずに伏見を通るのが慣例でしたが幕末になり、豊後の殿様が国元へ戻る時に伏見に来た時、浪士がやってきて京都へ寄って天機を伺えということになり、すったもんだで勅使まできたため、それ以降は京都へ寄ることが慣例になってしまいました。
■黒船来航
甲冑具足を揃えようとしても、陣羽織が虫食いだらけというありさまで、具足師が大儲け。「武具馬具卸 亜米利加様と そっと云ひ」という川柳が出ました。ペリーは嘉永6年に来航して、来年に返事を受け取りに来ると言ってましたが来年を待たずに暮れに来たため幕府は驚きましたが、太陽暦があることを知らなかったからです。
■安藤信正
日本の施設がサンフランシスコに着いた時に祝砲を撃ち、相手も答礼しました。これを聞いたアメリカ公使ハリスが安藤信正に「今までわが軍艦が貴国へきて祝砲をうつと、とやかく言うのにサンフランシスコではなぜOKなのか」と聞くと、「祝砲は我が国では慣例がないが貴国では慣例なので、それに従ったまで、貴国も我が国に来たら慣例に従って打たぬのが礼ではないか」と言ったら、ハリスは返す言葉がありませんでした。
■遠島
舟を御用船にしたてないといけませんが誰もやりたがりません。仕方なくクジ引きとなります。
■御徒士町
維新後、幕府の官職名をつけるのはどうかということで岡地町になりましたが、すぐに戻ってしまいました。
■官軍
官軍が函館から脱走人を送らせるのに送る人に船が動かせなかったので捕らえた脱走降参人に頼んで船を動かしてもらうような事態でした。官軍が江戸へ進軍する時に逃げるために輸送料が高騰。下総の市川までカゴ1丁が金十両となりました。
■連戦連勝
「もしほ草」(岸田吟香)、「江湖新聞」(福地桜痴)などが会津や脱走が勝ったと書かないと新聞が売れないので奥羽軍が連戦連勝の記事ばかり。日清戦争の時には日本軍が勝っているのに清の新聞が清側が勝っている記事ばかり書いているのにあきれていたが、塚原渋柿(幕臣から新聞記者へ)は我が国も同じだったと苦笑したそうです。
■ジャナ号
ロシアの使節プーチャーチンが乗ったジャナ号が大坂に入りましたが下田で応接するということで下田に入った時に大津波で破損してしまいます。船の大砲が幕府に寄贈され幕府海軍操練所で使われていました。明治になって築地の海軍兵学校の稽古用砲台に使われていましたが、明治8年にロシアの軍艦が入り兵学校を見学に来た時に、このことを知り艦長は大砲の形状や番号を写し取って帰っていきました。
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