2017/03/25

ビジネスエリアの新論語

 【書 名】ビジネスエリアの新論語
 【著 者】福田定一(司馬遼太郎)
 【発行所】文春新書
 【発行日】2016/12/10
 【ISBN 】978-4-16-661110-2
 【価 格】860円

昭和30年、司馬遼太郎がサラリーマン時代に本名である福田定一で出版した本です。第二部が面白いですね。新聞記者時代に会った二人の老記者ですが、部長や局長になるといったことを目指さず新聞記者としての生き抜いている二人と会った話が出てきます。世間的には負け組と思われようが本人は満足した生き方をしています。一人に対しては会社がまずいと思ったのか、お情けとして「校閲部長にならないか」と言った時に「晩節を汚す」と断られた話は面白いですね。

司馬遼太郎という名前は司馬遷からきているとは類推できますが、決めたのは奥さんのお母さんだったんですね。司馬遼と司馬遼太郎の2つの候補から選ばれたそうです。昔、梅棹忠夫先生が司馬遼太郎との思い出で、新聞記者として優秀だったのは奥さんの”みどり”さんの方だったとおしゃっていたのを思い出しました。

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2013/07/09

新聞記者 司馬遼太郎

 【書 名】新聞記者 司馬遼太郎
 【著 者】産経新聞社
 【発行所】文春文庫
 【発行日】2013/06/1-
 【ISBN 】978-4-16-783865-2
 【価 格】620円

新聞記者時代の司馬遼太郎像に焦点をあてていて、小説家の原点は新聞記者の経験にあったことがよく分かります。

■志明院
若い時に京都支局にまわされ担当は宗教と大学。金閣寺炎上では動機まで明らかにしたスクープをものにしました。山伏にも興味をもって志明院へもよく足を踏み入れていました。志明院は、一応京都市内になっていますが、上賀茂神社から10kmも賀茂川をわけいった所にある陸の孤島。現在も行くだけで大変な所です。

京都新聞だったと思いますが、志明院に泊まった司馬遼太郎の経験が書かれていました。夜中に物の怪の気配を感じたという内容で、志明院では昔から魑魅魍魎が出るようなところで、夜中になるとうるさかったそうです。ところが電灯が通るとピタッとおさまったという不思議な話でした。何十年も前の記事なんですが、不思議と覚えています。

■創作家でもあった
いろいろと創作した逸話が本に出てきますが、「坂の上の雲」で関ヶ原の戦いの布陣を見た日本陸軍の育ての親であるメッケルが即座に西軍の勝ちといった話、いかにも言いそうな逸話なんですが、どうも司馬遼太郎の創作だったようです。


梅棹忠夫先生が目が見えなくなった時に司馬遼太郎から見舞いの手紙が届いて、開いてもらったら大きな文字で書いてあったそうです。どうも弱視がなにかと間違えていたようだが、うれしかったと、これは梅棹先生からじかに聞いたことがあります。

復員し空襲で焼けた大阪の街で、電柱に「新聞記者の募集」と書かれたビラを見つけたところから司馬遼太郎の新聞記者生活が始まります。


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2010/11/10

街道をゆく6 沖縄・先島への道

 【書 名】街道をゆく6 沖縄・先島への道
 【著 者】司馬 遼太郎
 【発行所】朝日文庫
 【発行日】2008/9/30
 【ISBN 】978-4-02-264445-9
 【価 格】540円

10月に仕事で宮古島、石垣島へ行きましたが石垣島は大型台風13号の影響が出て雨続き。奄美大島が大雨に見舞われた時です。

雨でしたが、せっかくなので石垣島の港から竹富島へ。小雨でしたからレンターサイクルで回っていましたが、途中で大雨に。島の民俗資料などを集めた蒐集館に退避。管理している人に東大阪から来たと言うと、司馬遼太郎さんが来られた時も雨続きで本に出ていますと言われ買ってきました。蒐集館の中にあった日本で一番西にある真宗のお寺も掲載されていました。

司馬遼太郎氏はさらに与那国島へも渡っていて、そこの万屋に神棚があり店主にたずねると、三重の造船所からもらったという返事。店主が船を注文した時にもらったもののようですが、そうなると造船所というのは津の日本鋼管でしょうねえ。

焼酎は泡盛が伝わってできたようですね。蒸留酒の歴史はけっこう古く、鹿児島の神社に施主がケチで焼酎をあまり飲ませないと大工が書いた落書が残っていました。書かれたのは1559年。桶狭間の1年前で戦国時代からあったんですね。

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2006/04/10

街道をゆく12 十津川街道

 【書 名】街道をゆく12 十津川街道
 【著 者】司馬遼太郎
 【発行所】朝日文庫
 【発行日】1983/3/20
 【ISBN 】4-02-260182-5
 【価 格】420円



■大塔村へ
先日、奈良の大塔村にある「星のくに」へ行ってまいりました。五条から十津川街道に入り、山深い道を越えていきます。大塔村の名前は後醍醐天皇の第一皇子大塔宮護良親王から名付けられています。

後醍醐天皇が籠もる笠置山が陥落した後、護良親王は鎌倉幕府の追撃をふりきり、大塔村を中心に活動しました。鎌倉幕府追討の「令旨」を発し、ついに討幕を成し遂げました。いわゆる南北朝時代の始まりです。

さて、大塔村で夜空を見上げると満天の星です。久しぶりに天の川を見ました。

■谷瀬へ
せっかく、大塔村まで来たのでさらに奥の十津川を目指しました。

道はさらに細くなり、十津川にそった山の斜面にはいつくばるようについています。蜀の桟道がありますが、本当にあんな感じですね。今は観光地となり、整備されてきましたが、まだまだ山深い所です。

十津川は昔からたびたび歴史に登場します。幕末には十津川郷士の活躍で有名です。そういえば坂本龍馬が近江屋で暗殺された時に暗殺者が龍馬を油断させるために渡した名刺が十津川郷士の名刺でした。

田が出来るような耕地も無いため、古代からずっと免税地でした。それを実現するために色々と人的な奉仕をしていました。家康の大阪攻めには1000名が出兵しています。

幕末には御所の門の警備も行っていました。薩長が御所内で暗躍していた頃、孝明天皇が「今日の門番は十津川の者だから安心して眠れる」という言葉が残っています。公家も派閥に分かれた中で、山村の純朴な兵は孝明天皇にとって貴重だったようです。

さて、『街道をゆく12 十津川街道』ですが五条から十津川をめざす道々で、天誅組事件や様々な歴史的事件が語られます。新撰組に追われた田中光顕は十津川のさらに奥まで逃げてきたそうです。

司馬氏も赤紙が来て、戦地に行く前に友人と十津川を目指して歩いたそうで、そのエピソードも語られています。

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2005/09/25

城塞

 【書 名】城塞 上・中・下
 【著 者】司馬遼太郎
 【発行所】新潮文庫
 【発行日】1976/12/15
 【ISBN 】4-10-115220-9(上)
 【価 格】520円 上・中・下とも



古本屋さんで揃いを買ってきました。

よく大阪の地下鉄中央線に乗り、谷町四丁目で谷町線に乗り換えます。ここは大阪城の三ノ丸のあった所で、この中央線の走っている南側に真田幸村が作った真田丸がありました。大阪城に寄せる徳川軍を翻弄したところです。冬の陣が終わったあとに和睦の条件として堀が埋め立てられましたが、その場所でもあります。

次に谷町線を一駅、天満橋まで行くと、ちょうど大阪城の二ノ丸に沿って北に移動することになります。天満橋で京阪に乗ると堀上の橋を渡り、地上に出ます。朝ですと朝日を浴びる大阪城の天守閣が帰りにはライトアップされた天守閣を見ることができます。

さて司馬遼太郎氏の城塞ですが、この経路で読むには最適な本ですね。

大阪城の冬の陣、夏の陣を大阪城に諜報として入った小幡勘兵衛の目で見た物語です。谷町線に乗りながら真田幸村の話を読めば、ちょうど地上がその舞台だったところです。

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2005/09/06

ひとびとのあし音(上)

 【書 名】ひとびとのあし音(上)
 【著 者】司馬遼太郎
 【発行所】中公文庫
 【発行日1983/8/25
 【価 格】450円(上下で 古書値)



京都の「春の古書市」で見つけてきた本です。

パラパラと見たら、正岡子規や秋山兄弟の名前が出てくるので「坂の上の雲」の資料本か何かと思って買ったのですが、読んだら現代に続く「坂の上の雲」のような作品で、とっても面白い内容でした。

司馬遼太郎氏にこんな作品があったとは知らなかったですね。

タクシーに乗った司馬遼太郎氏が阪急本社を探すところから物語はスタートします。かって阪急に勤めていた忠太郎という人物を調べるためで、この人物は正岡子規の養子です。

そこから、正岡子規を看病した妹の律のその後や、秋山家の話等、皆、司馬遼太郎が知り合った人々の物語です。皆さん、この本が出る少し前まで存命だったんですね。

■秋山好古
秋山真之の四男が小学生の低学年の時に、秋山好古に「伯父さんは戦争の時に負けてばかりいたんだってね」と言ったことがあるそうです。

四男はどこかでおじさんは負けてばかりいたということを聞いて、子供ごころに異様な衝撃を受けたようです。

そこで、勇を鼓して聞いたそうで、伯父さんに否定ほしかったそうですが、好古は読んでいた新聞を横にやって「そうだ、伯父さんは負けてばかりいた」と言ったそうです。また「負けてばかりいたが、伯父さんは逃げなかったぞ」と言ったそうです。

当時の日本騎兵がロシアのコサック騎兵にかなうわけがないので、穴の中から優勢な火力でふせぐという戦いをしていました。

日本に勝機があるとすると逃げないことだけで、弱い左翼を受け持った好古が破られると日本軍の後方にまわられ、戦いの全てを失ってしまいます。そこで、そういう返事をしたようです。子供心に「逃げなかったぞと言われても」という逸話が出てきます。

■西沢島
正岡子規の養子であった忠太郎の友人が出てきて、その親父が西沢吉治という人物で実に豪快な人物だったそうです。

明治5年に福井県の鯖江で生まれ、明治40年の時に香港沖の無人島に上陸して西沢島と名付け、色々と設備を持ち込んでリン鉱石を採掘して売っていました。

西沢島憲章を作り、300名ほどが島にいましたが、紙幣も発行していましたから独立国ですね。

ところが清国が翌年やってきて、ここは清の領土だから返せという話になり政府間交渉に

日本からは3隻の軍艦がやってきます。軍艦「明石」の艦長が鈴木貫太郎、「音羽」艦長が秋山真之で、秋山家との親交はこの頃から始まるようです。

西沢吉治は、これで大損してしまいますが、めげない人で、今度は南方の開発に行ったり、そこが駄目ならと大正10年にはウラジオストックにシベリア開発会社を作ります。

この時、樺太の北半分に西沢領と書き込んでいましたので、もう一度独立国家を作るつもりだったようです。

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2005/09/03

風塵抄

 【書 名】風塵抄、風塵抄2
 【著 者】司馬遼太郎
 【発行所】中央公論社
 【発行日】1991/10/20
 【ISBN 】4-12-002059-2
 【価 格】1165円



1986年5月から1996年2月まで産経新聞に連載されたものをまとめた本です。

■厄年
源氏物語の紫上が厄年で発病とあるので当時から厄年がありました。もっとも男の厄は25歳の厄で終わりで、42歳は厄ではなくお祝いをしました。

■パニックの語源
ギリシャ神話の牧神パンが語源だそうです。葦笛を吹き、美少女とみれば追いかけ、気まぐれで、突如怒りだし、羊や牛馬を走らせる。ここからパニックの語源になっています。

■政界腐敗
作家の石川好氏の意見を取り上げています。
「政界の大物が、運送会社の社長から5億円をもらった。この不祥事は、主人である国民の責任である。国民が10円ずつ出して、国民の名で5億円を運送会社へ返そう。」
国民の責任と主人という立場を的確に表現しています。

■山片蟠桃
大阪府の賞で山片蟠桃賞がありますが、この賞の名前をつけたのは司馬遼太郎氏であったことは色々なところで語られています。
この山片蟠桃ですが、播州の田舎から大阪の大名貸しの升屋に丁稚奉公し主人が死ぬと、幼主を育て、主家を日本一の大名貸しにしたてあげたそうです。晩年、若い当主の店を継がせ、みずからは退いたそうです。そして番頭だったので蟠桃と名乗ったそうです。なかなかユーモアのあった方のようで

江戸の独創家 富永仲基、三浦梅園、山片蟠桃の一人です。

■お陰さまで
元々は近江で使われていた言葉だそうです。お陰とは阿弥陀如来のことで近江には近江門徒と呼ばれるほど真宗の信心が深かったそうです。やがて近江商人は大阪へ出て商売を始めます。高島郡の人が大阪へ出て呉服屋となり、今の高島屋となったように船場あたりで使われていた言葉がやがて全国に広まっていったそうです。

■古人の心
老モンゴル人が亜細亜大学のモンゴル語学をやっている先生の所へ訪ねてきた時の話ですが、一度、富士山に連れていったそうです。
富士の見える丘に来たときに、老人はひざまずいて、動かなくなったそうです。小さな香炉を取り出し、芝の上に置いて、はるか富士のために香を炊き始めたそうで、それを見ていたモンゴル語学の先生はあやうく、涙がこぼれそうになったそうです。
日本人も何百年か前は、こういう心で山を眺めていたんでしょうね。

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2005/09/01

韃靼疾風録(上・下)

 【書 名】韃靼疾風録(上・下)
 【著 者】司馬遼太郎
 【発行所】中公文庫
 【発行日】1991/1/10
 【価 格】各660円



明代末期の平戸にある日、漂流した女真族のお姫さんが流れ着き、それを送るついでに、明がこれからどうなるか探る旅に出たところ、清の誕生に巻き込まれるお話です。

以前、中国東北部にある瀋陽に行った時に、故宮を見てきました。北京に比べると規模は格段に小さいのですが、額などには漢字の横に満州文字を書かれているのが印象的でした。

女真族が使っていた満州語ですが、すっかり滅んでしまったと思っていたところが、現代でも話す部族が残っていたそうです。先日の梅棹先生の講演でもお話が出てきました。1570年代に中国の西域で反乱が起きた時に、故郷の満州人の部隊を派遣したそうです。

到着までに半年以上かかるような遠隔地で、実は到着する前に反乱は静まっていました。ところが派遣した乾隆帝は遠征軍を呼び返すのを忘れてしまい、そのまま残ったのが現在のシボ族だそうで、今でも満州語を使っているそうです。これがこの本の後書きにも出てきますので、梅棹先生は司馬遼太郎氏からこのお話をお聞きになったようですね。

■満州
女真族ですが、マンジュという菩薩(文殊菩薩)を信仰しており、自分の種族をマンジュと呼び、明人がその音に満州という字をあてたそうです。ですので満州というのは部族名で地名では無かったのですが、後に地名としても使われているようです。

■旅順
山東を発し、遼東にいたる船にとって旅程の順路にあるがために旅順と言うそうです。

■亡命
漢民族の明から異民族の清に変わる時、中国からたくさんの亡命者が渡ってきました。例えば江夏という姓は中国湖北省の江夏(ごうか)という地から来た人が日本名として使いだした姓なんだそうです。

■鎖国
ちょうどこの時代、江戸幕府が鎖国に入る時期です。日本人の海外渡航を禁止し、海外へは奉書船(官許の船)以外は出してはならない。異国からの帰国は死罪とする。ただし経過措置として異国滞留が5年未満は日本に帰ってもよいというお達しです。東南アジアから帰れなくなった日本人もかなりの人数になるそうです。

人口にして100万人以下と言われる女真族が人口の桁が違う漢民族をどうやって支配できたのかよくわかる一冊です。

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2005/08/31

歴史と風土

 【書 名】歴史と風土
 【著 者】司馬遼太郎
 【発行所】文春文庫
 【発行日】1998/10/10
 【価 格】457円



東大阪市の分室の図書館で借りてきました。さすがに郷土の偉人ということで司馬遼太郎と安岡正隆はよく揃っています。

■関ヶ原
関ヶ原まで出向きましたが、薩摩の島津家は家康に夜討ちをかえようという意見を三成が取り上げなかったことから傍観を決め込みました。戦術としては正しく、家康を討ち取ることも可能でしたが、戦略的には日本を二分した戦いなのに堂々と東軍を破ることにならないということで三成は却下しました。

島津は結局戦場に取り残され、最後は家康本陣に突撃しながら撤退するという世に名高い撤退劇を繰り広げます。千人以上いた島津勢はわずか60騎あまりが生き残るという壮絶な撤退戦だったそうです。堺からは商人の今井宗薫が船を出してくれたそうで、これがために島津家は航海中に今井家からもらった食料二石をずっと太平洋戦争が終わるまで毎年、堺の今井家に送っていたそうです。

■物の怪
ずっと前に新聞(京都新聞かなあ?)で読んだことがあったのですが、この本に出てました。まだ司馬遼太郎氏が新聞記者として京都に詰めていた頃の話です。

京都の北、上賀茂からずっと奥に入ったところに志明院があります。私も学生時代にバイクで一度行ったことがありますが、賀茂川の源流に向かってずっと川沿いの道を登り、途中から狭い道を行くと最後に志明院があります。上賀茂からバイクで30分ばかり入った奥の方です。

司馬遼太郎氏は昭和23年の夏に志明院に泊まりました。住職の話によると志明院では皆が寝静まると夜中に天狗の雅楽が聞こえたり、障子がカタガタいったりすることが800年続いていました。司馬遼太郎氏が泊まった時も実際に、うるさいぐらい障子が鳴ります。それも1枚、2枚というような感じではなく、全部の障子を外からつかんで動かす感じです。

昔の人が怨霊や物の怪を恐れる気持ちはすごくまっとうな感覚だと感じ入ったそうで、ただ志明院もこの後、電気が引かれるようになるとパタッーと怪現象が止まりました。文明が物の怪を滅ぼしていっているようですね。

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