2024/01/06

古代日本の超技術

 【書 名】古代日本の超技術 新装改訂版
 【著 者】志村史夫
 【発行所】講談社ブルーバックス
 【発行日】2023/12/20
 【ISBN 】978-4-06-534289-3
 【価 格】1100円

■縄文時代にカキの養殖をしていた
東京都北区の中里貝塚で並んだ杭と大量のカキの貝殻が発見されます。現在はカキの養殖がおこなわれたと考えられています。

■翡翠の語源
カワセミの羽毛の色に似ており、雄を翡、雌を翠と呼んだところから

■檜
檜に比べ欅の強度が強いですが曲げ強さは500年後に逆転し圧縮強さも1000年後には逆転します。法隆寺も1300年たっても檜が生きています。

■西岡棟梁
飛鳥時代ー木の性質を見極めて板を作っていきます。やがて鋸や製材機で板を作りだすとダメになり、室町時代から腐りやすくなり修理が必要になります。
法隆寺でも釘を使っていますが釘は木を組んでいく時に仮のささえにすぎません。

→ 古代日本の超技術(新装改訂版)

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2023/11/04

検証 平城京の政変と内乱

 【書 名】検証 平城京の政変と内乱
 【著 者】遠山美都男
 【発行所】学研新書
 【発行日】2010/02/01
 【ISBN 】978-4-05-404440-1
 【価 格】790円


■長屋王の変
聖武天皇が後継者を亡くして悲しんでいるところに長屋王が呪詛したという情報がもたらされ、十分に詮議せずに怒りにまかせて死を命じてしまった。いさめる立場にあった藤原氏も止めなかったのが実態の模様。冤罪ということは当時から分かっていたが公になったのは聖武天皇の後継者だった称徳天皇が亡くなってからで誣告した中臣宮処東人殺害事件が発生し、続日本記に事件について記載されることになります。


■聖武天皇 東国行幸
藤原広嗣の乱が鎮圧されたことを確認してから平城京を出立。最終的に恭仁京に移ります。壬申の乱を想起させるだけでなく天智天皇の後継でもあることをアピールしたのが東国行幸にようです。唐で西の都「長安」に対して東の都「洛陽」があったものにならったもので洛陽近くに龍門があり、廬舎那仏を安置した奉先寺がったことを参考に甲賀寺の造営し、廬舎那仏を作ることを考えます。留学帰りの玄昉や吉備真備から得た知識でしょう。


■桜井頓宮
聖武天皇が難波京に出立した時に息子である安積皇子(あさかのみこ 17歳)も同行していましたが桜井頓宮(東大阪市六万寺の梶無神社?)で脚気で具合が悪くなり恭仁京に帰ります。2日後に亡くなります。

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2023/10/14

古代日本の宮都を歩く

 【書 名】古代日本の宮都を歩く
 【著 者】村井康彦
 【発行所】ちくま新書
 【発行日】2023/10/10
 【ISBN 】978-4-480-07564-2
 【価 格】1200円


■田身嶺(たむのみね)
多武峰ではなく酒船石がおかれた嶺ではないかという説があります。両槻宮もこちらにありました。


■難波長柄豊碕宮
孝徳天皇が遷都した難波宮ですが上町台地ではなく梅田の北にある豊崎神社があるあたりではないかという説があります。


■御薪(みかまき)の宴
初位以上の官人が薪を持ち寄って催した酒宴で壬申の乱の後、飛鳥浄御原宮で初めて行われました。


■出身(みやこつかえ)の法
天武2年(673)畿内豪族を対象に実施。豪族の子弟を大舎人に任じて出身(出仕)させ、その中から才覚のある者を選抜して当職(かなわむつかさ)【才能に応じた役所】に配属します。豪族が官人として出仕する道が開けます。


■羅城
ラジョウは呉音で古くはラセイと漢音で呼んでいました。また羅城門があったのは平城京と平安京の2つだけです。


■交野
桓武天皇がしばしば訪れた場所で母にゆかりがある百済王氏の本拠地でした。革命思想を重視しており即位した天応元年(781)は物事があらたまる辛酉(しんゆう)の年だったのがきっかけになった模様。長岡遷都が甲子の年、平安遷都は辛酉の日を選んでいます。


■桓武天皇の遷都
廃止 造営省、勅旨省、造法華寺司、鋳銭司
ただし鋳銭司は8年後に再設置


■伊勢斎王の禊
葛野川から賀茂川に変更されたのは賀茂斎王の制が始まったことが影響した模様。薬子の変に対して嵯峨天皇が賀茂社に事件の終息を願い、賀茂社に奉仕する斎王を決めたのが最初。これ以降、賀茂斎王、伊勢斎王とも賀茂川で禊をすることになりました。


■女御と更衣
女御から皇后にすすむ道があったが更衣の息子には天皇になるチャンスはありませんでした。光源氏の母親は桐壺更衣だったので光源氏は帝になるチャンスはありませんでした。


■鴨川唐橋
九条坊門通りの唐橋は守る人を2人手配するほど重要視されています。橋を渡った道を南下すると平城旧京へ行け、当時は大和大路の起点だった模様。


■和気広世
和気清麻呂の息子。唐から帰った空海を高雄山寺で世話していたようです。嵯峨天皇から東寺をまかされるまで高雄山寺にいました。


■遣唐使
菅原道真が廃止したことになっていますが実際は唐が混乱しているので長安までたどりつくのが困難と判断して今回の派遣を中止しただけで、遣唐使自体の廃止はしていません。実際、10年後に唐は滅びます。その代わりに唐商船がきており、遣唐使も唐商船で帰ってきたりしています。竹取物語でも火鼠の皮衣を求められ唐商船での交易が前提とした物語になっています。

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2023/09/23

巨大古墳の古代史

 【書 名】巨大古墳の古代史
 【著 者】瀧音能之
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2023/09/22
 【ISBN 】978-4-299-04720-5
 【価 格】1100円


■帥升
後漢書東夷伝に登場する王の名前で西暦107年に後漢に朝貢。岡山にある楯築墳丘墓が、その墓ではないかという説があります。


■ニサンザイ古墳の木橋
濠に水をいれた後に柱穴をあけて後円部から木橋をかけ、墳丘に並べられていた埴輪などが崩落する以前には柱穴は埋まっていました。木橋を使って葬送儀礼が行われたと考えられますが、今までそんなものがあると考えて発掘していなかったため他の古墳で見つかる可能性もあります。

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2023/04/26

正倉院のしごと

 【書 名】正倉院のしごと
 【著 者】西川明彦
 【発行所】中公新書
 【発行日】2023/3/25
 【ISBN 】978-4-12-102744-3
 【価 格】900円


■正倉院
正倉-役所や寺院の重要なものをおさめる蔵
正倉院-正倉が集まった区域
いくつもの正倉がありました平安時代頃に燃えたり倒壊したりで一棟だけになりましたが、固有名詞として定着しました。


正倉院展-1度展示すると10年間は選ばないという不文律があります


■収蔵品
舶来品は全体の5%ほどで、ほとんどが国産品 胡人の伎楽面もペルシャ風の国産品


藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で400点あまりの武器、武具が持ち出されましたが、ほとんど戻ってきませんでした。他にも持ちだされて却ってきませんでした。


■校倉
湿度が高いと木が膨張し、乾燥すると木に隙間ができて温度調整していると習いましたが、誤りで木材そのものの吸放湿能と宝物をいれる杉製の唐櫃の二重構造により温度が一定になりました。

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2023/03/26

小説で読みとく古代史

 【書 名】小説で読みとく古代史
 【著 者】周防柳
 【発行所】NHK出版新書
 【発行日】2023/3/10
 【ISBN 】978-4-14-088697-7
 【価 格】930円


九州、大和の2つの邪馬台国、神武天皇の東遷、応神天皇、大王アメタリシヒコ、天智と天武は兄弟か、持統天皇の狙いはなど6つのテーマにした小説などが紹介されています。


例えば、大海人皇子の出自などが不明で、本当は天智天皇と兄弟ではなかったという説もあります。ひょっとすると漢皇子(皇極天皇と高向王との間の子供)ではないかと言う説もあります。持統天皇は官僚制を作り上げ天皇がいなくても政治がまわる仕組みを作りました。30歳以上でないと天皇になれない不文律がありましたが、低年齢化します。

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2023/02/11

古代史のテクノロジー

 【書 名】古代史のテクノロジー
 【著 者】長野正孝
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2023/2/9
 【ISBN 】978-4-569-85381-9
 【価 格】1100円


■河内・大和大運河
古市大溝-橿原考古学研究所の秋山氏が航空写真から発見。
丹比大溝-飛鳥時代の幅10m、深さ3mの溝が発掘で見つかる。
河内から大和まで40kmの運河があった模様で堀田のは百舌鳥、古市、馬見古墳群を作った主たちで物流のため
石津川河口ー乳岡古墳ー覆中天皇陵ーいたすけ古墳ー西除川ー東除川ー応神天皇陵-亀の瀬ー奈良湖
6世紀-大和川では帆船が走っていた 橿原市高井戸の横穴遺跡から線刻画が見つかる


亀の瀬の標高40mに堰があり奈良湖が形成されていた。古代の河床は10mほど戦った模様。
古墳ー浚渫土が塚となっていく
6世紀になって半島での戦争が終わって古墳で行われていた鉄取引がなくなり、運河の必要性が薄れ、古墳が造られなくなる
灌漑のやり方を変え推古天皇時代に西除川をせき止めて狭山池という巨大溜池を構築


■対馬
浅茅湾の船曳道 小船越(140m)、大船越(126m)

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2023/01/14

ゼロから学ぶ日本史講義 古代篇

 【書 名】ゼロから学ぶ日本史講義 古代篇
 【著 者】出口治明
 【発行所】文春文庫
 【発行日】2023/1/10
 【ISBN 】978-4-16-791991-7
 【価 格】730円


■ルカ 最終共通祖先
地球上の生命はDNAを遺伝情報でもっている。化学物質からエネルギーを取りだすことができる好熱菌が深海で誕生し、この祖先から進化


■郭務そう
白村江の戦で敗北した後、唐から戦後処理で送り込まれたのが郭務そう。大陸側の記録には出てきませんので地位はそれほど高い人物ではありませんが、日本にとってはマッカーサーのようなものでした。唐が大和を占領したため大津京に遷都したという説もあります。


■武烈王(金春秋)
654年~661年在位。日本、高句麗、長安を実際に目で見てから王位についた人物。


■二聖政治
持統天皇がロールモデルにしたのが則天武后。皇后でしたが権力がなかったため道教好きの皇帝・高宗に、道教における最高神である「天皇上帝」から天皇・天后という新しい称号をつくり、天皇と天后が対等に政治を行う二聖政治にしました。


国分寺、国分尼寺を全国に造ったのは聖武天皇&光明皇后の二聖政治を体現したもののようです。作ったのは郡司という地方の役人でしたが、国分寺を作ったら郡司の世襲を認めるというインセンティブがありました。


■平城京
藤原不比等が北魏の都の名前「平城」(大同市)から名づけています。


■受領
実際に現地へ行って中央政府に納入責任がある役職が受領ー引継ぎ資料を受領することから名づけられる


■寛平御遺誡
寛平9年(897年)に宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた申し送り状。唐人に会ったけど直接じゃなく御簾越しの方がよかったと書かれていたことから明治まで天皇は外国人に会ってはダメとなりました。


■中央集権の中国
アメリカ本土には4つの標準時がありますが中国には北京標準時しかない


■乙巳の変
唐の力が衰えたことから高句麗ではクーデターが起きて親唐派を弾圧。百済、新羅でも親唐派とアンチ唐派の争いであり日本でも親唐派の蘇我氏を倒せるかと考えた面がありありそうです。

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2022/12/24

戸籍が語る古代の家族

 【書 名】戸籍が語る古代の家族
 【著 者】今津勝紀
 【発行所】吉川弘文館
 【発行日】2019/10/1
 【ISBN 】978-4-642-05888-9
 【価 格】1,700円


■造東大寺司
政所、木工所、造瓦所、鋳所、写経所、造物所、造仏所、山作所、木屋所といった「所(組織)」が設置される。


■庚午年籍 天智9(670)年
氏姓の基準とする根本台帳に、永年保存され平安時代になっても氏姓を改める訴訟などで利用


■古代の人口
享保6(1721)年 吉宗の時代 第一回の人口調査 3120万人
天正年間頃 1200~1800万人ほど
8世紀前半 450万人
9世紀前半 出挙稲数 4385万400束で540万~590万人ほど


■年齢(古代)
婚姻可能 男性15歳、女性13歳
婚姻可能な年齢になった女性「オトメ」、婚姻して結髪した段階で「オミナ」、老いると「オウナ」
8歳以上の男性は「ワラワ」となり、その後は「オトコ」で老いると「オキナ」


■双系
オジ・オバといった親族呼称に古代は父方、母方の区別がない
古代は夫婦別姓で妻は出自氏姓を変更しない
ツマ 一対の男女として安定した関係にある言葉なので夫にも使われた


■少子部連(ちいさこべのむらじ)
雄略6(462)年、国内の蚕(コ)を集めることを命じられたスガルが若子を集めてしまい。集めた若子を養うことが命じられ少子部連の姓をたまわる。


日置(へき)、子部、車持、笠取、鴨の5つの氏族は主殿寮に殿部として奉仕(清掃、灯火の管理など)


■感染症
人間が畜群を管理することで麻疹(犬)、天然痘(牛)、インフルエンザ(水禽)、百日咳(豚や犬)が人間に


■律令制の崩壊
戸籍の不実記載が増え実態と乖離。10世紀の延喜年間になると班田の実施を放棄し戸籍に基づく人身別課税から課税対象を土地に転換。
帳簿による管理システムが解体し国司が大きな権限を手に入れることになる。

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2022/12/07

古代の三都を歩く 難波京の風景

 【書 名】古代の三都を歩く 難波京の風景
 【著 者】小笠原好彦
 【発行所】文英堂 
 【発行日】1995/3/10
 【ISBN 】978-4-578-00458-9
 【価 格】2000円


■摂津
難波津の管理から 677年、天武天皇の時代に摂津識が設置される


■大津道
竹内街道の北1.9kmの位置を平行し、現在の長尾街道と推定されている。
羽曳野市高鷲にある津、船、葛井氏の三氏族の氏神である大津神社に関連している模様


■東大寺の荘園
750年以前に所有 新羅江荘4町-南が堀江(大川)、東が安曇江(淀川旧本流)
752(天平勝宝4)年に難波荘3町6段を購入 新羅江荘のほぼ斜め対岸
もともと安宿王(長屋王の息子)がもっていた土地を購入したもので8年後に一部を残して新薬師寺に売却。金額は購入額とあまり変わらず。


■長岡京
朝堂ー平城京、藤原京が12堂に対して長岡京は8堂。後期難波京(8堂)をそのまま移したため
勤務ー寅の刻(朝4時)に南門の前に左右に並び日が出ると広場に進んで政務に、帰宅は正午の鐘が鳴ってから
   朝集殿が朱雀門のすぐ北に建てられていて、ここで私服から朝服に替えていました


財政再建をはかるため桓武天皇は副都制にしていた難波京を廃止
762年遣唐使船が難波も江口で座礁-難波津の浅瀬が増えて機能性が減少-和気清麻呂が難波京遷都後に三国川(神崎川)に淀川を通じるようにする


■686年の火災
朱雀門跡が発掘され焼けていました。この時に前期難波京のほとんどの建物が消失したようです。

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