2024/11/05

伽耶/任那

 

 【書 名】伽耶/任那
 【著 者】仁藤敦史
 【発行所】中公新書
 【発行日】2024/10/25
 【ISBN 】978-4-12-102828-0
 【価 格】900円

副題が「古代朝鮮に倭の拠点はあったか」です。日本史で任那日本府と倭の拠点があったと習いましたが、どうも違うようです。

■馬韓、辰韓
313年に楽浪郡が高句麗によって滅ぼされ翌年には帯方郡が滅亡します。朝鮮南部では自発的な国家設立となり馬韓からは百済が辰韓からは新羅が生まれます。伽耶諸国の台頭もこの頃で中心となる金官の前身は狗邪韓国である。

■神功皇后
魏志倭人伝に卑弥呼や台与と記載されているため神功皇后の在位期間を120年さかのぼってあわせたようです。

■任那日本府
倭系の人々の総称のようで吉備氏らが伽耶諸国に居住していました。百済は地方官僚に倭系百済官僚を任命していたようで、未服属地域には倭系豪族の軍事力に期待して任命していました。韓国にある前方後円墳はこの豪族の墓のようです。日羅は九州の豪族の子で百済官僚でもありました。

■任那四県の割譲
大伴金村が責任をとらされますが、実態は百済が南韓へ侵攻し、日本としては進出する前から割譲した形で辻褄をあわせたようです。

■任那の調
任那はなくなりましたが百済・新羅が任那から任那の名前で調をおさめさせます。これも建前です。

→ 伽耶/任那

 

 

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2024/09/17

ビジュアル再現 平安京

 【書 名】ビジュアル再現 平安京
 【著 者】梶川敏夫
 【発行所】吉川弘文館
 【発行日】2024/09/01
 【ISBN 】978-4-642-08457-4
 【価 格】3,000円

■羅城
九条大路の発掘調査によると羅城門から西寺を超えたあたりまで高さは不明ですが羅城が存在した可能性があります。また羅城門から朱雀門が見通せたようです。

■市
毎月15日までは東市、16日以降は西市が開かれました。

■大極殿
平安神宮の大鳥居から拝殿までの距離が440mほどで平安京の大手門から大極殿までの距離と同じになります。

■熊野三所跡(如意寺宝巌院跡ちかく)
東・西端に土塁が築かれ戦国期に城塞化されていました。

→ ビジュアル再現 平安京

 

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2024/07/27

日本の古代とは何か

 【書 名】日本の古代とは何か
 【著 者】有富純也 編
 【発行所】光文社新書
 【発行日】2024/07/30
 【ISBN  】978-4-334-10377-4
 【価 格】1000円
 
副題が「最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像」です。
 
■藤原道長
道長の御堂関白記、藤原行成の権記(ごんき)、藤原実資の小右記、源経頼の左経記という記録が残っていて、偶然詳しく知ることができるため摂関期で道長の時期が政治的に充実しているようにみえる側面がある。
 
■国司
国司 守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)
郡司 大領、少領、主政、主帳 
郡司は現地採用で、割とよく交代した模様。一定の勢力があり、持ち回りで就任
 
■新しい勢力
富豪層-任期後も都に帰らず居ついた前司、都から下ってきた王臣家子弟、地方で富を蓄えた層
院宮王臣家ー日本各地から税物が都に集まらなくなってきた時、自ら地方進出した院宮王家や中央諸司
 
国司の苛政を弾劾する訴状(例えば尾張国郡司百姓等解」を出していたのは、受領と対立していた反対勢力が多い
延任、重任を要求する運動も行われていました。
 
■行政
庁申文(口頭による行政)、南所申文(文書による行政)のセットで政務を行っていましたが10世紀半ばに陣申文(じんのもうしぶみ)という文章行政のみになりました。
江戸時代の裁判で使われたのが「法曹至要抄」という中世初期の法律書(律令格式が引用)が使われています。明治になってもプロシア人との裁判で使われています。

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2024/04/27

道鏡

 【書 名】道鏡 悪僧と呼ばれた男の真実
 【著 者】寺西貞弘
 【発行所】ちくま新書
 【発行日】2024/04/10
 【ISBN 】978-4-480-07616-8
 【価 格】880円

■淳仁天皇
聖武上皇が娘の孝謙天皇を次期天皇に指名した時に道祖王(ふなどおう)を立太子します。藤原氏にとっては縁がないため藤原仲麻呂は大炊王に亡くなった息子の奥さんを再婚させます。嫁舅の関係から仲麻呂邸で大炊王を1年間、教育した後に道祖王を廃して大炊王を立太子します。ですが、結局はうまくいきませんでした。

淳仁天皇は藤原仲麻呂の変に関係していたと淡路に流されますが、淳仁天皇は蚊帳の外だった模様です。ただ孝謙天皇が道鏡を大臣禅師にすることに反対したため、ついでに廃帝されたようです。天平神護元年に重祚した称徳天皇が和歌浦行幸しますが大和、河内、和泉に行宮をつくり、固守三関を行わせ軍事的緊張をともなうものでした。聖武天皇が広嗣の乱に備えた騎兵と同じような陣容でした。称徳天皇が岬町に来た時に淳仁天皇が対岸の淡路で亡くなった知らせが届きます。「続日本記」に天皇の犯罪は書けないため暗示する形で記載したようです。

藤原仲麻呂の乱が発覚した日に称徳天皇は乱の平定を祈願して西大寺建立を発願します。藤原四家のうち謀反に三家が関係しており称徳天皇としては北家の藤原永手だけしかなく左大臣に任命し、吉備真備を右大臣に任命します。

■弓削連浄人
道鏡の弟で従八位下から従二位まであがりますが、道鏡の失脚によって土佐に配流されます。道鏡自身は朝廷政治での昇進は考えておらず仏教的に称徳天皇を導ければよいと考えていましたが称徳天皇が大臣級などと扱いを上げていったようです。天皇の犯罪を書くわけにはいかず、道鏡に仮託することになりますが道鏡が失脚しても流罪にする理由がなかったので左遷となりました。

道鏡は聖武天皇の看病禅師で崩御に立ち会っていた可能性があります。称徳天皇としては父帝の思い出を語ることができる唯一の存在だったようです。

→ 道鏡

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2024/03/23

記紀の考古学

 【書 名】記紀の考古学
 【著 者】森浩一
 【発行所】角川新書
 【発行日】2024/03/10
 【ISBN 】978-4-04-082505-2
 【価 格】1300円

■かぐや姫
ミマキイリ彦の子、イクメイリ彦(垂仁)の妃の一人が大筒木垂根王の娘、カグヤ姫で京田辺市近辺の娘であった模様。竹取物語も南山背で成立した可能性もあります。南山背には古代隼人の居住地があり、市町村合併前の大住村は正倉院文章の「隼人計帳」に出てきます。

南山背に反ヤマト勢力があったようで平城山、祝園から樟葉にかけてが戦場となりました。ヲホド王(継体)が樟葉を最初の宮にしたのは水陸交通の要地以外に先にあった王権にとって記念すべき土地という意味もあった模様。

■箸墓古墳
壬申の乱で、いちはやく始祖王の墓(箸墓)、イワレ彦(神武)の陵をおさえ戦勝の祈願を行うことは皇位の正統性のアピールになりました。大海人皇子らにとって、そう認識されていたようです。
食事用の箸は8世紀頃から使われだすため土師氏が関わった土師墓が箸墓になったのではという説があります。

■葛城
当麻村にはナガスネヒコの墓と伝えられる小古墳があります。

■伊吹山
ヤマトタケルが伊吹山で山の神に苦しめられる話は昔から伝わっていたようで藤原不比等の子である藤原武智麻呂が近江国主の時に伊吹山に登りたいというと地元の人がヤマトタケルの話を出して反対。武智麻呂は鬼神の恐ろしさを知っているから害は加えないだろうと言って登ったそうです。

■安康天皇陵
字名が古城で戦国期の城郭を天皇陵に比定してしまった模様。奈良市の宝来山古墳の可能性が高いそうです。

→ 記紀の考古学

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2024/01/06

古代日本の超技術

 【書 名】古代日本の超技術 新装改訂版
 【著 者】志村史夫
 【発行所】講談社ブルーバックス
 【発行日】2023/12/20
 【ISBN 】978-4-06-534289-3
 【価 格】1100円

■縄文時代にカキの養殖をしていた
東京都北区の中里貝塚で並んだ杭と大量のカキの貝殻が発見されます。現在はカキの養殖がおこなわれたと考えられています。

■翡翠の語源
カワセミの羽毛の色に似ており、雄を翡、雌を翠と呼んだところから

■檜
檜に比べ欅の強度が強いですが曲げ強さは500年後に逆転し圧縮強さも1000年後には逆転します。法隆寺も1300年たっても檜が生きています。

■西岡棟梁
飛鳥時代ー木の性質を見極めて板を作っていきます。やがて鋸や製材機で板を作りだすとダメになり、室町時代から腐りやすくなり修理が必要になります。
法隆寺でも釘を使っていますが釘は木を組んでいく時に仮のささえにすぎません。

→ 古代日本の超技術(新装改訂版)

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2023/11/04

検証 平城京の政変と内乱

 【書 名】検証 平城京の政変と内乱
 【著 者】遠山美都男
 【発行所】学研新書
 【発行日】2010/02/01
 【ISBN 】978-4-05-404440-1
 【価 格】790円


■長屋王の変
聖武天皇が後継者を亡くして悲しんでいるところに長屋王が呪詛したという情報がもたらされ、十分に詮議せずに怒りにまかせて死を命じてしまった。いさめる立場にあった藤原氏も止めなかったのが実態の模様。冤罪ということは当時から分かっていたが公になったのは聖武天皇の後継者だった称徳天皇が亡くなってからで誣告した中臣宮処東人殺害事件が発生し、続日本記に事件について記載されることになります。


■聖武天皇 東国行幸
藤原広嗣の乱が鎮圧されたことを確認してから平城京を出立。最終的に恭仁京に移ります。壬申の乱を想起させるだけでなく天智天皇の後継でもあることをアピールしたのが東国行幸にようです。唐で西の都「長安」に対して東の都「洛陽」があったものにならったもので洛陽近くに龍門があり、廬舎那仏を安置した奉先寺がったことを参考に甲賀寺の造営し、廬舎那仏を作ることを考えます。留学帰りの玄昉や吉備真備から得た知識でしょう。


■桜井頓宮
聖武天皇が難波京に出立した時に息子である安積皇子(あさかのみこ 17歳)も同行していましたが桜井頓宮(東大阪市六万寺の梶無神社?)で脚気で具合が悪くなり恭仁京に帰ります。2日後に亡くなります。

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2023/10/14

古代日本の宮都を歩く

 【書 名】古代日本の宮都を歩く
 【著 者】村井康彦
 【発行所】ちくま新書
 【発行日】2023/10/10
 【ISBN 】978-4-480-07564-2
 【価 格】1200円


■田身嶺(たむのみね)
多武峰ではなく酒船石がおかれた嶺ではないかという説があります。両槻宮もこちらにありました。


■難波長柄豊碕宮
孝徳天皇が遷都した難波宮ですが上町台地ではなく梅田の北にある豊崎神社があるあたりではないかという説があります。


■御薪(みかまき)の宴
初位以上の官人が薪を持ち寄って催した酒宴で壬申の乱の後、飛鳥浄御原宮で初めて行われました。


■出身(みやこつかえ)の法
天武2年(673)畿内豪族を対象に実施。豪族の子弟を大舎人に任じて出身(出仕)させ、その中から才覚のある者を選抜して当職(かなわむつかさ)【才能に応じた役所】に配属します。豪族が官人として出仕する道が開けます。


■羅城
ラジョウは呉音で古くはラセイと漢音で呼んでいました。また羅城門があったのは平城京と平安京の2つだけです。


■交野
桓武天皇がしばしば訪れた場所で母にゆかりがある百済王氏の本拠地でした。革命思想を重視しており即位した天応元年(781)は物事があらたまる辛酉(しんゆう)の年だったのがきっかけになった模様。長岡遷都が甲子の年、平安遷都は辛酉の日を選んでいます。


■桓武天皇の遷都
廃止 造営省、勅旨省、造法華寺司、鋳銭司
ただし鋳銭司は8年後に再設置


■伊勢斎王の禊
葛野川から賀茂川に変更されたのは賀茂斎王の制が始まったことが影響した模様。薬子の変に対して嵯峨天皇が賀茂社に事件の終息を願い、賀茂社に奉仕する斎王を決めたのが最初。これ以降、賀茂斎王、伊勢斎王とも賀茂川で禊をすることになりました。


■女御と更衣
女御から皇后にすすむ道があったが更衣の息子には天皇になるチャンスはありませんでした。光源氏の母親は桐壺更衣だったので光源氏は帝になるチャンスはありませんでした。


■鴨川唐橋
九条坊門通りの唐橋は守る人を2人手配するほど重要視されています。橋を渡った道を南下すると平城旧京へ行け、当時は大和大路の起点だった模様。


■和気広世
和気清麻呂の息子。唐から帰った空海を高雄山寺で世話していたようです。嵯峨天皇から東寺をまかされるまで高雄山寺にいました。


■遣唐使
菅原道真が廃止したことになっていますが実際は唐が混乱しているので長安までたどりつくのが困難と判断して今回の派遣を中止しただけで、遣唐使自体の廃止はしていません。実際、10年後に唐は滅びます。その代わりに唐商船がきており、遣唐使も唐商船で帰ってきたりしています。竹取物語でも火鼠の皮衣を求められ唐商船での交易が前提とした物語になっています。

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2023/09/23

巨大古墳の古代史

 【書 名】巨大古墳の古代史
 【著 者】瀧音能之
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2023/09/22
 【ISBN 】978-4-299-04720-5
 【価 格】1100円


■帥升
後漢書東夷伝に登場する王の名前で西暦107年に後漢に朝貢。岡山にある楯築墳丘墓が、その墓ではないかという説があります。


■ニサンザイ古墳の木橋
濠に水をいれた後に柱穴をあけて後円部から木橋をかけ、墳丘に並べられていた埴輪などが崩落する以前には柱穴は埋まっていました。木橋を使って葬送儀礼が行われたと考えられますが、今までそんなものがあると考えて発掘していなかったため他の古墳で見つかる可能性もあります。

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2023/04/26

正倉院のしごと

 【書 名】正倉院のしごと
 【著 者】西川明彦
 【発行所】中公新書
 【発行日】2023/3/25
 【ISBN 】978-4-12-102744-3
 【価 格】900円


■正倉院
正倉-役所や寺院の重要なものをおさめる蔵
正倉院-正倉が集まった区域
いくつもの正倉がありました平安時代頃に燃えたり倒壊したりで一棟だけになりましたが、固有名詞として定着しました。


正倉院展-1度展示すると10年間は選ばないという不文律があります


■収蔵品
舶来品は全体の5%ほどで、ほとんどが国産品 胡人の伎楽面もペルシャ風の国産品


藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱で400点あまりの武器、武具が持ち出されましたが、ほとんど戻ってきませんでした。他にも持ちだされて却ってきませんでした。


■校倉
湿度が高いと木が膨張し、乾燥すると木に隙間ができて温度調整していると習いましたが、誤りで木材そのものの吸放湿能と宝物をいれる杉製の唐櫃の二重構造により温度が一定になりました。

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