2022/09/14

日本の古代豪族100

 【書 名】日本の古代豪族100
 【著 者】水谷千秋
 【発行所】講談社現代新書
 【発行日】2022/7/20
 【ISBN 】978-4-06-528622-7
 【価 格】1500円


■古墳の被葬者
男女比が6:4で古代社会では男女両系を重んずる社会。古墳時代中期になると次第に父系化が進む。


■葛城氏
襲津彦(そつひこ)が初代とみられ御所市の室宮山古墳に比定する説がある。


■継体天皇
豪族の多くは天皇の後裔としているところが多いが神武~応神までで仁徳天皇を祖とする豪族はなく継体天皇以降まで途切れることになる。仁徳~武烈までなくなるのは、王権から規制されたからで継体天皇の正統性を補完するため。継体天皇は息長君出身とみられ息長の本貫は近江坂田郡息長(米原)。


■三輪君
疫病が流行った時に大物主が天皇の夢にあらわれたので、河内の美努(みの)村にいた意富多々泥古を探し出し三輪で祀ったのが三輪神社のはじまり。美努村は須恵器の発祥の地で三輪君は須恵器生産に関わっていた模様


■大日下王
仁徳天皇と髪長媛(日向諸見君)の子供で地盤が河内の日下。母方に日向出身者をもつので日下王族、日下宮王家とも呼ばれている。


■額田部連
平群郡額田、河内郡額田が本貫の模様。推古天皇の幼名は額田部皇女で額田部氏が養育していたと思われる。


■弓削連
道鏡に対して「先祖の大臣として仕え奉りし位名を継がんとおもいてある人」と言われており物部氏の復活を考えていました。


■秦氏
平安京の内裏のあったところは秦河勝の邸宅があったところで紫宸殿の左近の桜、右近の橘も邸宅にあったという伝承がある。


■田辺史
百済系渡来系豪族で、藤原不比等は壬申の乱の時に少年期で避けるために山科の田辺史大隅のもとで養育された模様。不比等の名前は史(ふびと)からとった。黒作懸佩刀という刀があり草壁王子→不比等→文武天皇→不比等→聖武天皇と伝来し皇位を象徴する刀になっていた。本来は父から子だが早世したために不比等が中継ぎをした。

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2022/07/15

新版 大化改新

 【書 名】新版 大化改新
 【著 者】遠山 美都男
 【発行所】中公新書
 【発行日】2022/5/25
 【ISBN 】978-4-12-102699-6
 【価 格】960円


■藤原不比等
蘇我連子(むらじこ)の娘である蘇我娼子(しょうし)と不比等が結婚し、武智麻呂が生まれます。これで蘇我氏につながる血脈となり天皇家の外戚をつとめる一族となります。葛城氏→蘇我氏→藤原氏とつながります。


760(天平宝子4)年に不比等は太公望にならって近江国12郡を追贈され淡海公と称されます。武智麻呂、仲麻呂が近江国司として活躍したことが評価されたようです。


■平岡連
河内国讃良郡枚岡郷で津速魂命の14世孫、鯛身臣の後裔


■難波吉士(きし)
本拠地は日下郷で大彦命を祖にします


■蘇我倉山田石川麻呂
蝦夷の異母兄弟で入鹿の叔父にあたる人物だったようです。本拠地は河内国石川地域にあった山田で、飛鳥の山田寺は石川の山田に由来しています。


■大化の改新の真相とは?
中大兄皇子の諱は葛城で、葛城の手で養育された模様


皇極天皇
・舒明天皇の皇子だった古人大兄を即位させるため山背大兄の殺害を入鹿に命じる
・背には用明天皇の血統を滅ぼすため
・蝦夷から大臣を受け継いだばかりの入鹿としては実行せざるをえない
・入鹿が斑鳩寺を焼かなかったため山背大兄が生駒に逃れていた時に、大兄につくか皇極につくか、どっちつかずの状態となり蝦夷がこの焼かなかった行動を怒る
・軽皇子、中大兄王子の嘆願を聞き入れ蘇我を裏切ることを決意


軽王子
・皇極天皇と同じ世代なので古人大兄が即位すると自分が即位する目がない
・古人大兄が即位すると、その子孫に皇統がつがれるかもと中大兄を説得して味方に


船恵尺
・厩戸皇子と蘇我馬子が編纂していた「天皇記」、「国記」の前に「帝皇日継」、「先代旧辞」が編纂されており、実は「天皇記」などの編纂は舒明天皇以降で蘇我蝦夷が行っていたため、乙巳の変では編纂に関わっていた船恵史が「国記」を持ち出して中大兄皇子に献じたのでは


中心になっていたのは軽王子と蘇我倉山田石川麻呂で古人大兄が報告した「韓人、鞍作臣を殺しつ」の韓人とは蘇我倉山田石川麻呂をさす
中大兄は入鹿暗殺の実行部隊で軍事拠点となる入鹿の斑鳩寺の失敗からいちはやく飛鳥寺をおさえ、蘇我と古人大兄との連絡を絶つ。
古人大兄は蘇我入鹿が殺された翌日に飛鳥寺で出家し、甘樫丘で見ていた蝦夷が抵抗をあきらめ自滅へ


■評へ
部、屯倉を廃止ー豪族の世襲職が廃止へ 位階を明らかにして官僚制へ
評ー50戸制で統合し律令国家の「国-郡ー里」の元ととなる

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2022/06/23

空白の日本古代史

 【書 名】空白の日本古代史
 【著 者】水谷千秋
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2022/6/24
 【ISBN 】978-4-299-03027-6
 【価 格】1100円


■米
弥生時代の当初は米をあまり食べなかったようで穀物食でできる虫歯の発生が縄文とあまり変わりませんでした。弥生中期頃からコメを食べ始めたようです。


■纏向遺跡
明治維新で薩長土肥が相乗りして連合新政府を作りましたが、初代の大和朝廷も同様だったようです。


■雄略天皇(ワカタケル)
埼玉ー稲荷山古墳鉄剣、熊本ー江田船山古墳鉄剣の銘文が出たため、統治機能が登場していたようです。
記紀に一言主伝説が出てくるため葛城氏を服従させた逸話だったようです。


■倭の五王
高句麗の南下によって朝鮮南部の権益を巡り衝突する中、宋に遣いを送り軍事的優先権の承認を得ようとしましたが、結局はうまくいかず、朝鮮から多くの渡来人が逃げてくることになります。


■継体天皇
ひいおじいさんのおじいさんが同じぐらいの親戚です。継体天皇の出自については上宮記に書かれていたようで、この上宮記が釈日本紀に引用されていて、古代から知られたことだったようです。


■国造(くにのみやつこ)
自分の領地を献上して、あらためて大王から与えらる形となり、まさに国譲りの形でした。


■和爾氏
大和国の和爾を本拠とし春日氏、大宅氏、粟田氏、小野氏、柿本氏などが同族です。このなかで春日郷の春日氏が本宗を継いだようです。


■帰葬
婚姻した女性は里に帰って埋葬されました。

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2022/06/11

ここまで解けた縄文・弥生という時代

 【書 名】ここまで解けた縄文・弥生という時代
 【著 者】山岸良二
 【発行所】KAWADE夢新書
 【発行日】2022/05/20
 【ISBN 】978-4-309-50436-0
 【価 格】890円


■縄文土器
モース博士が大森貝塚を発掘し、発掘調査報告書を英文で書きますが土器群を「コードマークドポタリー」(縄・ひもつき土器)と名づけ、これが縄文土器という名前で定着しました。


■埋蔵文化財センター
バブル経済崩壊の後、埋蔵文化財センターの80%がなくなり、2000年代になると民間の発掘会社ができ発掘を請け負うようになります。2005年には業界団体である日本文化保護協会ができます。その代わり自治体の発掘力が弱まり補助金不正事件なども発生するようになります。


■安満(あま)遺跡
弥生前期の水田跡が9000平方メートル以上が発見されています。大洪水があり水田がパックされて残り2018年に発見されました。日本で初めて集落&水田&方形周溝墓がセットで見つかりました。


■10進法
福岡で弥生時代の権(けん 重さをはかる分銅)が出土し、朝鮮半島で見つかった権の3倍、6倍、20倍で10進法が用いられていたことが判明しました。


■観光考古学
吉野ケ里遺跡、三内丸山遺跡など遺跡が集客できるようになりました。吉野ケ里遺跡には260万人もの見学者で一人が千円のお土産を買うと、それだけで26億円の経済効果になります。

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2021/11/13

古代豪速の興亡に秘められたヤマト王権の謎

 【書 名】古代豪速の興亡に秘められたヤマト王権の謎
 【著 者】古川順弘
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2021/10/22
 【ISBN 】978-4-299-02161-8
 【価 格】982円


■語部
古伝承を語り伝え、公的な儀礼でそれを奉することを職業にした部


■先代旧事本紀
天磐船に乗ったニギハヤヒが32柱の神々を連れて河内の河上に天下ってから次に降りたのが大和も鳥見の白庭山。日本書紀などが編纂された時に既に世に知れ渡っていたようで否定できなかったのではと考えられている。物部氏の根拠地である渋川から渋川廃寺が見つかりましたが創建は7世紀前半と推定されており物部守屋が滅んでから菩提をとむらうために作られたのではという説が出ています。


■神武天皇陵
日本書紀の壬申の乱の記載に大伴吹負が大海人皇子側として戦うが、この時の神武天皇陵に馬と武器を奉納して勝利した記事があり、畝傍山近くに神武天皇陵があったことになります。藤原京造営でも壊されなかった塚山古墳と考えられています。


■国造
出雲だけでなく阿蘇国造、紀伊国造が宮司職を世襲する形で現代にまで続いています。


■新撰姓氏録
1,182氏が掲載され326氏が諸蕃に分類。渡来系氏族が該当します。


■秦氏
畑、羽田、秦野、畠山、服部、惟任、赤染、辛嶋などが子孫。長曾我部、島津も秦氏の子孫にあたる。

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2021/10/23

倭国 古代国家への道

 【書 名】倭国 古代国家への道
 【著 者】古市 晃
 【発行所】講談社現代新書
 【発行日】2021/09/20
 【ISBN 】978-4-06-525791-3
 【価 格】1100円


■日下
仁徳天皇の子供が大日下王、若日下女王で王族が住む居地が河内の日下にあったようです。


■吉備
白猪(しらいの)屯倉-蘇我稲目が吉備に赴き差配を行っている。


■播磨
天日槍命(あまのひぼこのみこと)と伊和大神が揖保川流域で争い勝利を収めた模様

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2021/06/03

風土記から見る日本列島の古代史

 【書 名】風土記から見る日本列島の古代史
 【著 者】瀧音能之
 【発行所】平凡社新書
 【発行日】2018/06/15
 【ISBN 】978-4-582-85883-9
 【価 格】820円


■風土記が作られた理由
正史の一部門として地理的要素が必要で、日本書紀、古事記以外に地理書として成立したもので正史の「志」にあたる部分。漢書地理志で有名である。風土記を編纂することで天皇の支配がすみずみまで及んでいることを確認し公表するためのものである。


ただし「風土記」という言葉がつけられたのは平安時代の頃で菅原道真のライバルだった三善清行が風土記という言葉を使っており、これが最古の例で、この頃から使われだしたようです。作られた当時は下級官庁から上級官庁に提出する解(ゲ)【解文】として出されました。


■2月30日
全国で60ほど作られたという風土記ですが、ほぼ完本として残っているのは出雲国風土記です。誰がいつ作ったかも書かれていて書いたのは秋鹿郡の人である神宅臣金太理という人物。


書かれたのが天平5年(733年)2月30日です。実はこの日付が問題となって偽書説まで出ましたが、正倉院から2月30日付の文章が発見され、奈良時代に2月30日があることが分かりました。


■浦嶋子
浦島太郎のモデルです。丹後国風土記では舞台が与謝郡で在地豪族である日下部首の先祖になっています。舞台はいろいろで住吉や余呉湖などがいろいろです。

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2021/04/30

古代日本の官僚

 【書 名】古代日本の官僚
 【著 者】虎尾達哉
 【発行所】中公新書
 【発行日】2021/03/25
 【ISBN 】978-4-12-102636-1
 【価 格】840円


日本人は勤勉と言われていますが、遅刻、欠席、代返、職務放棄は当たり前。元日、朝賀儀という需要儀式にも官人がたくさん無断欠席していました。


■正倉院文書
淡海金弓という写経生は5日間の休暇をとり、休暇後も出仕せず、突如病気になったと欠勤届を出しています。この当時から詐病や不正休暇が多かったようです。また郡司に任用されても、すぐに辞退してしまいます。一度、郡司に任命されると辞任後を官人身分を保証されるため中央官人への抜け道になっていました。


古代からそうだったようで舒明天皇の時に出勤時間を守らないものが多いので鐘で時刻を知らせるように労務管理を始めようとした時、反対したのが蘇我蝦夷。問題するには及ばないと判断したようです。さぼったとしても多めにみることが多く、罰則が厳しくなかった世界でした。儒教などが入ってくるまでは、ゆるい考え方でした。


818年の嵯峨天皇時代には少しはましになったようですが、朝賀に出てきた官人が儀式を知らないため、バラバラの所作に。嵯峨天皇は、まず予行演習せよと命じます。元明天皇も律令を学んでいない官人が多いので勉強せよと命じています。


■天皇に対する畏怖が少なかった
桓武天皇が少納言からあがってくる奏上の紙が悪臭を放つものが多いので何とかせいと少納言を叱責しています。部下から奏上があがってきますが、とりあえず奏文さえ出せばよいと官人は考えており、天皇への畏怖などはなかったようです。


■宴席にもぐりこむ
遅れてきて宴席にもぐりこむものがいて、天皇主催だと最後に恩賜の品が出たので、これが目当てでした。そこで門に近衛府の官人が動員され不届きものを排除していました。また宴席前の儀式はさぼって宴席から出席するものもたくさんいました。守らせるためにいろいろと規制はしますが、刑罰もあまく、厳しくしても、すぐにきつすぎるという声があがってなしくずしになります。


■勤務評定(考選法)
768年(天武7年)に考選法が布告されます。官人の勤務評定と昇進を定めた法です。ただし対象は下級官人でしたが、どんなに頑張っても「大山上」を超えることはできませんでした。これが勤務評定の始まりになります。


 

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2021/04/17

決定版 古代史の謎は海路で解ける

 【書 名】決定版 古代史の謎は海路で解ける
 【著 者】長野 正孝
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2021/02/16
 【ISBN 】978-4-569-90009-4
 【価 格】880円

「古代史の謎は海路で解ける」を加筆・再編集したものです。

■古代船は平底
赤間、水間、船越という地名がついているところは狭水道、分水嶺などで船をひいて進んでいました。宗像大社近くに赤間があり、邪馬台国の時代は海が内陸に入り込んでおり、赤間には船曳道がありました。

■曹操の運河
天津港から洛陽に向けて黄河(暴れ川)と離れた地域に運河を作っていました。洛陽までは約600kmで邪馬台国からの使者もこの運河を使って都へ行ったようです。曹操は軍船を投入し兵や食料を運んだ兵站に優れていました。

■郭務?
白村江の戦いで破れたあと、郭務?が百済の難民2000人をひきいて来日したと記録されていますが、47隻の艦隊を率いて筑紫や大宰府を占領します。これが671年11月。港が占領されたのか唐津、唐戸、唐泊という地名となった可能性があります。12月に天智天皇が亡くなり、672年5月に退去します。翌月6月に壬申の乱が発生しますが、何らかの関係があったのでしょう。

■対馬海峡
神功皇后が東松浦半島から対馬に渡っていますが潮にのれば対馬に行きやすかったからです。秀吉の朝鮮侵攻でも名護屋城は東松浦半島に造られました。対馬には一番狭いところで140mしかない小船越という地峡があり、船が島を回らなくても東と西を結ぶ船曳道がありました。対馬では幕末にポサドニック号事件が起き、ロシアに一時占領され群港が造られはじめましたが、イギリス公使オールコックが仲介に入り立ち退かせました。

■琵琶湖の水運
古代は水運が重要なため近江を抑えるのが一番でした。敦賀-長浜の峠越えの陸送が問題なため、清盛も秀吉も運河を作ることを計画していました。江戸時代は小浜藩に命じて疋田舟川を建設させました。大津から京都へは急流の瀬田川は使えず逢坂山を超えることになります。欽明天皇の時代、越国に高句麗の大船が漂着し、狭狭波山(ささなみやま・逢坂山)に引き上げさせたとあります。

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2021/01/01

地形で読み解く古代史の謎

 【書 名】地形で読み解く古代史の謎
 【著 者】関裕二
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2020/12/15
 【ISBN 】978-4-569-90091-9
 【価 格】970円

■縄文時代 東日本の人口が多かった
縄文時代は東日本の人口が多かったのですが西日本では鬼界カルデラの爆発があり、火山灰が東北まで飛んでいたので、この影響があったようです。全国では10万5千人ほどですが東北19,200人、関東42,800人と60%を占めていました。

■和邇氏
氏族に春日氏や小野氏がおり、奈良市付近を拠点にしていましたが平城京遷都のあとに春日氏の聖地だった春日神社は藤原氏のものになってしまいました。

■仁徳天皇の治水工事
茨田の堤、浪速の堀江、丸邇池(大和)、依網池(河内)、小椅江(入江の整備)、墨江津の整備

■関東
栃木県-下毛野氏
群馬県-上毛野氏、車持氏
長野県-語源は河内の長野邑

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