2026/09/10

増訂 秀吉の大仏造立

 【書 名】増訂 秀吉の大仏造立
 【著 者】河内将芳
 【発行所】法蔵館文庫
 【発行日】2026/08/15
 【ISBN 】978-4-8318-2734-0
 【価 格】1,400円

■法性寺口
京都七口のひとつに大仏が造立されることになり、奈良や大坂、近江などへ通じる交通の要衝でした。造立の指揮をしたのが高野山の木食で、秀吉の根来攻めの時に高野山で折衝にあたった人物です。他にも東寺の塔。宇治平等院などの作事に関わっています。

■大仏千僧会
大仏殿を先に造って中に大仏を作りはじめます。一宗ごとに100人ずつの僧が出仕し、20年も毎月開催されました。ところが地震で大仏殿は大丈夫でしたが大仏が崩れてしまいました。秀吉が病気になった時、善光寺如来を移そうとしますが織田信忠が武田勝頼を攻めた時に美濃に移していた前例がありました。また平泉から中尊寺一切経も移します。秀長が病気になった時も多武峰寺から大織冠を郡山へ移しました。病気平癒の効果があると考えられました。秀吉が亡くなる前日に善光寺如来は戻されます。

■豊国社
大仏再建の話が出た時に大仏横に北野天満宮のような神社建立の話が出てきます。秀吉は新八幡になるということで東大寺と手向山八幡宮との関係を考えていたようです。東大寺と同様に七重の塔や回廊の整備もはかられ、回廊はつくられて太閤塀として一部、残っています。大坂城の極楽橋にあった門が移築されましたが1602年に家康が竹生島に移すよう命令します。同じ年に大仏再建中に出た火によって大仏殿もろともに燃えてしまいます。

 

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2026/09/04

乱世の流儀

 【書 名】乱世の流儀
 【著 者】清水克行
 【発行所】文春文庫
 【発行日】2027/07/10
 【ISBN 】978-4-16-792536-9
 【価 格】880円

■百王
足利義満の時代、末法思想で天皇家が百代で滅びる百王説が流れていました。ちょうど後小松天皇が99代とされていました。足利家が天皇家にとってかわるという噂も流れていました。

■吉田兼倶
古文書などを捏造し、兼好法師を吉田一族だと吉田兼好にしてしまいます。

■起請文のクーリングオフ
吉田神社では起請返しというクーリングオフも請け負っていました。「禁酒を起請文に書いて誓いましたが、どうしても飲まざるをえないことになり起請返しをしてもらえまえんか」の祈祷料は1貫200文(12万円)ほどです。

■濃姫
齋藤道三の「美濃のマムシ」は坂口安吾の創作。濃姫は江戸時代の物語にでてきますが「のひめ」で「のうひめ」にしたのが司馬遼太郎のようです。帰蝶も後世のもので、よく分かっていません。

■風呂屋
室町時代の京都にある蒸し風呂は一軒借り切ることができ、これが留め湯で500文(5万円)ほど。複数人によるワリカンでの留め湯も行われていて合沐(ごうよく)と言われていました。盗賊仲間の隠語が使われてもいます。盗賊に入るには上納金が必要で上は7貫文(70万円)、中は5貫文、下は3貫文。盗賊で得た利益を親分が独り占めすると留め湯、均等分配を合沐といいました。

■家康の先祖
松平家の3代目である松下信光は資料にも登場しました、室町幕府伊勢氏の家臣でした。松平氏は伊勢貞親の「親」の字を代々もらっていたようです。家康は新田氏の出とされているので、どうも隠された歴史のようです。

■近衛信伊の日記
伊達政宗だけでなく毛利輝元、秀吉も片目だったという記録があります。

■研究者の冗談 ネズミの糞や埃まみれの古文書を探り出すため
中世文書を閲覧する時は見る前に必ず手を洗いましょう。近世文章を閲覧する時は見た後に必ず手を洗いましょう。

■牢屋
平安京には検非違使がいて牢獄がありましたが、中世の荘園には牢獄がなく、穢れがとどまるので牢獄という発想がありませんでした。

 

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2026/08/29

歴史研究 741号 伊勢湾の中世

 【書 名】歴史研究 741号 伊勢湾の中世
 【発行所】戎光祥出版
 【発行日】2026/05/28
 【ISBN 】978-4-86403-624-5
 【価 格】800円

■羽城(熱田神宮)
船津を守る城で現在は公園跡になっています。

■弘安2年(1279)
熊野神人が熊野神輿をかついで京都へ向かいますが志摩半島、安濃津経由で向かいます。安濃津は京都から東国への海の玄関口になっていました。

■勢州
北方長太 白子 津 松崎 村松 有滝 高羽江 大湊 今一色 江 船江 浦口 田中 八日市場

■泊浦
預所代官として九鬼氏が入部。15世紀には勢力をのばして泊氏を名乗るようになります。
泊浦小里の城-日和山城
大里の城-鳥羽城
小嶋-ミキモト真珠島

■南都六宗
三論宗、成実宗、倶舎宗は消滅
法相宗、華厳宗、律宗

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2026/08/24

千利休と戦国武将

 【書 名】千利休と戦国武将
 【著 者】本郷和人
 【発行所】祥伝社新書
 【発行日】2026/08/10
 【ISBN 】978-4-396-11734-4
 【価 格】940円

■小牧長久手の戦い
中入りは池田恒興の献策といわれていますが、実際の企画立案者は秀吉で、森長可などは遺言状を書いて戦に臨んでいます。

秀吉が関白になった後、正親町天皇の午前で茶会が行われます。下準備を千利休が行いますが無位無官では御所に上がれないので、居士号「利休」が勅賜されます。

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2026/08/14

室町「下克上」サバイバル

 【書 名】室町「下克上」サバイバル
 【著 者】清水克行
 【発行所】文藝春秋
 【発行日】2026/07/10
 【ISBN 】978-4-16-392120-4
 【価 格】1800円

■世阿弥
本名は秦元清で秦河勝の子孫になります。

■斎藤実盛
武蔵国長井荘(熊谷)を本拠として最初に白髪染めした人物として知られています。平家方につきますが、昔、命を助けた源義賢の遺児が成長して木曽義仲になっていました。白髪染めして戦いますが源氏に討ち取られてしまいます。首実検でかっての恩人を見た木曽義仲は号泣することになります。

■蔵回り
午前4時頃に質流れ品を買い取ったり不用品を引き取ったりするリサイクル業者で人目がつきにくい夜にまわりました。また馬買い(博労)や皮買いも動いていました。明け方の暗い時間帯は「ばくろうどき」と呼ばれます。

■元興寺
極楽坊本堂の内陣の柱に寺への土地の寄進状が記載されています。本来は紙に書きますが、僧侶が紙ごと土地を売却したりしないように本堂の柱に刻み付けました。

■前斗かき
枡に米を盛った後にすり切り棒を手前にひくと「前斗かき」、手前から向こうに押すと「おろし」と言いました。前斗かきは、おろしに比べ枡に入る量が減り、年貢では有利です。

■戦国時代の御所
天文法華の乱など騒乱があると庶民は御所に逃げkんでいました。数千人という資料もあります。御所は局外中立なので最も安全な避難場所でした。御所で行われた正月のどんと焼きには2万人もの観衆がつめかけます。関白となった秀吉は天皇の権威を高めるために入れなくします。

■読み方
浅井-あさい、あざいか分かりませんが地名が「あざい」なので、それを根拠に「あざい」になっています。
尼子-あまご、大友ーおおども は宣教師のアルファベット表記から分かっています。
斯波-「しば」と呼ばれていますが「しわ」とも呼ばれていました。岩手の紫波は「しわ」になっています。
長宗我部-「ちょうそうかめ」「ちょうそうがめ」と当時はよばれていたようです。

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2026/07/03

インテリジェンス関ヶ原

 【書 名】インテリジェンス関ヶ原
 【著 者】本郷和人
 【発行所】文春新書
 【発行日】2026/06/20
 【ISBN 】978-4-16-661532-2
 【価 格】1,100円

■五大老
秀吉によって減封された小早川秀秋に対して五大老が領地を復活させる文書を発行していますが、秀吉がもっていた支配権を五人で分け持つのが五大老の役割でした。

■豊臣政権
ベンチャー企業である秀吉政権は高い報酬を出す必要があり高コスト体質でした。家康政権は地方の零細企業から育ったため必然的に低コスト体質になっています。秀吉政権は子飼いの家臣たちを育て石高をあげておけば、家康に対抗できましたが、小田原征伐から秀吉の死まで8年しかありませんでした。結局、関ケ原の合戦時点で石田三成は19万石しかありませんでした。

■家康
鍋島藩は龍造寺氏と戦って勝ったわけではなかったため佐賀藩・本藩の割合は6割になってしまいました。支藩のしめる割合が高い長州藩でも7割はあります。家康は戦争した方が結局はコストがかからないと思っていたようです。

■石田三成の構想
尾張と三河で防衛ラインをひき西日本を面として防衛することで長期戦を考えていました。要の福島正則が東軍についたことで戦線が西側に大きく動きます。さらに岐阜城がおとされ、ますます西側に後退します。

反対に家康は江戸を選び、日本を一つにしようとしたようです。東北も開拓され陸奥国の石高は2倍に、出羽国は5倍になります。浦賀を港としてスペイン船が毎年、訪れるようになり、ガレオン船をウィリアム・アダムスに命じて造らせメキシコまで太平洋を横断しています。

■黒田官兵衛
宣教師に記録では「カンノヒョウエ」と呼んでいたようです。

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2026/07/01

信長包囲網の真相

 【書 名】信長包囲網の真相
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】星海社新書
 【発行日】2026/06/15
 【ISBN 】978-4-06-544065-0
 【価 格】1,450円

副題が「天下人を震え上がらせた武将たち」になっています。最後は信長が勝ちますが薄氷の勝利で信玄の死去が大きかったようです。

■足利義昭
信長は足利義昭から3通の御内書をうけとり、信長の武功を称えたもの、足利家の家紋の使用を許されたものは受入れましたが斯波の名跡の継承の許可は辞退しました。副将軍や管領という秩序に組み込まれるので断ったようです。

信長に敗れた足利義昭が若江城から小早川隆景と吉川元春に御内書を出しますが、毛利としては信長と対立したくなかったので和睦を結ばせるようにします。足利義昭は堺へ移り、安国寺恵瓊、秀吉、朝山日乗が交渉を担当しましたが、信長から人質をとることにこだわったため、うまくいきませんでした。足利義昭は有田市の興国寺に移り、その後、鞆に押しかけます。

■荒木村重
有岡城から尼崎城までは8kmで窮地に陥った尼崎城を救うために600ほどの手勢を率いて移動したのが実態で妻子を見捨てて逃げたというのは後世の記述になります。毛利にとっては宇喜多直家が信長についたので有岡城を支援するのが難しくなっています。

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2026/06/05

戦国日本VSヨーロッパ

 【書 名】戦国日本VSヨーロッパ
 【著 者】NHKスペシャル「戦国」取材班、山崎啓明
 【発行所】集英社新書
 【発行日】2026/05/20
 【ISBN 】978-4-08-721411-6
 【価 格】1,030円

■イエズス会の報告書
確実に届くように封印した署名入りの報告書を3通複写して喜望峰経由や太平洋を横断するルートなどを使って送りました。最初は1549年にフランシスコ・ザビエルからの報告です。

■鉛
長篠の戦で使われた鉄砲玉の成分がタイにあるソントー鉱山と一致し、眼鏡をかけ四ツ目のカブラルで有名なフランシスコ・カブラルが鉛を信長に売るように命令したようです。イエズス会のインド管区にはポルトガル王室から活動費が給付されていましたが、ポルトガル王室が慢性的な財政難になったため、宣教師自身が南蛮貿易に乗り出していきました。

■安土城
7層の城で宣教師などにも案内しましたが、城内の部屋があまりに多いので信長自身も最近、迷ったいう記録が残っています。

■長崎
大村純忠が長崎を寄進してしまいましたがイエズス会の規則では土地の所有を禁止しており、カブラルは反対していましたが、カブラルの解任してマカオを追放したのがヴァリニャーニでした。長崎へやってくるポルトガル船から停泊料をとっていました。

■コエリョ
中国大陸に進出するために軍艦の斡旋を申し出たのがコエリョで実際に大砲をのせた軍艦を作り、博多で秀吉に船内を案内しました。秀吉は長崎の教会領や軍事力の秘密が分かり、バテレン追放令を出すことになります。

■倭寇
1582年ーカガヤンの戦い ルソン志摩のカガヤン沖で倭寇の船団がスペイン艦隊と戦闘になります。タイ:フーサと名乗る日本人が18船と1000名を率いていました。
1586年ー平戸の松浦鎮信がフィリピンのスペイン総統に軍事協力を申し込んでおり、小西行長と組んで6000名の日本人傭兵をフィリピンに派遣する計画です。
秀吉がフィリピン征服計画を総統に送りますが、影にいたのが原田喜右衛門という人物で、その前からキリスト教の巡礼衣で30~40人の日本人がやってきて、いろいろと偵察して帰り、スパイ活動をしていたようです。

■ウイリアム。アダムス
オランダは造船技術がありましたが遠洋航海や戦闘経験が不足していました。イギリス海軍・ドレーク総統の下で輸送艦の艦長をしていたウイリアム・アダムスを雇い入れます。乗っていたリーフデ号が漂着しますが家康は関ヶ原合戦前に20門の大砲などを接収していました。また戦闘員としてオランダ人を採用していたようです。

■オランダ東インド会社
1601年までに15船団65船を送り出しましたが、ブームで競争激化したためアジアでの商品仕入れ価格が上昇し、ヨーロッパの販売価格が下がることになります。そこで国内6つの主要な貿易会社を大同団結させ誕生したのがオランダ東インド会社です。21年の制限がついた独占会社で10年間の固定資本となっており出資者は有限責任でした。

交易に銀が使われましたがスペインが鉱山を握って売ろうとしないため、商取引で銀を得られる日本がオランダにとって特別な場所になりました。

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2026/04/01

新・戦国史

 【書 名】新・戦国史
 【著 者】NHKスペシャル取材班
 【発行所】NHK出版新書
 【発行日】2026/03/10
 【ISBN 】978-4-14-088757-8
 【価 格】980円

■岐阜城
金箔瓦は城下町のすべての人が見える場所にはなく、見せたかった相手は長良川の川湊にあった城下町の一部で伊勢湾につながる商業ネットワークでした。

■見せる城へ
信長は安土城を広告塔にして見せる城を意識していました。戦わずに成果をあげることを考えていたようで、他の戦国武将とは発想が異なっていました。

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2026/03/28

戦国北条氏 関東の覇者、五代100年の軌跡

 【書 名】戦国北条氏 関東の覇者、五代100年の軌跡
 【著 者】山口博
 【発行所】中公新書
 【発行日】2026/02/25
 【ISBN 】978-4-12-102895-2
 【価 格】1,160円

■伊勢宗瑞(早雲)
伊豆の国主と称されるようになりますが早雲自身は氏親を屋形様(おやかたさま)と呼ぶなど氏親の配下と位置付けていました。

■氏康
目安箱
氏康が設置していたのが目安箱。百姓を含む多くの人々の提訴を容易にしていました。また訴訟審議にあたるため複数の重臣を評定衆に任命していました。

知行
他国との取次をしたりする周辺の国衆や城の修復などを行う職人には知行を与え、知行貫高相当分を超えた分には別途、費用を支払っていました。

■氏政
織田政権の傘下に入り、勝頼に対峙することになります。信長の娘を氏直へ輿入れする話もすすんでいました。

氏直、氏政は織田政権あとの豊臣政権に従うことが決定し、年明けでの上洛準備をしていましたが秀吉は11月初旬と思いこんでおり、名胡桃城の一件で北条は上洛の意思なしと判断して小田原攻めになってしまいました。上洛時期の交渉を徹底しなかったことが原因です。

 

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