2020/03/20

明智光秀10の謎

 【書 名】明智光秀10の謎
 【著 者】本郷和人、細川珠生
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2020/3/18
 【ISBN 】978-4-299-00301-0
 【価 格】800円


■朝倉義景に足利義昭を引き合わせたのは光秀ではない
細川家の記録によれば光秀は細川に仕えていたと記録されています。後世に誇張された書き方になっていますが、大体はあっていそうです。足利義昭の一派は後に義昭から離れる時に細川藤孝の家臣になっており、光秀の家臣にはいませんから、足利義昭との付き合いはそれほどでもなかったようです。


■帰蝶は光秀のイトコ?
史料がないので何とも分かりませんが、イトコであれば信長に近づいて取り入るチャンスが増えますから辻褄がうまくあいます。


■細川藤孝
足利義昭から信長に乗り換える時に細川の名前を捨てて長岡を名乗っています。元の細川に戻るのは関ケ原の合戦後で何らかの葛藤があったようです。

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2020/03/07

戦国名将の本質

 【書 名】戦国名将の本質
 【著 者】小和田哲男
 【発行所】朝日新聞出版
 【発行日】2019/11/15
 【ISBN 】978-4-620-32610-8
 【価 格】1500円


■明智秀満、蒲生賢秀
本能寺の変のあと、安土城にいた蒲生賢秀は明智軍を攻めてくると考えて信長の妻子を避難させますが城中の金銀財宝はそのままにして称賛されます。また安土城の守りについていた明智秀満は山崎の合戦による敗北を聞き、有名な湖水渡りで坂本城に入ります自刃しますが、その前に敵方の堀秀政に坂本城に会った重宝を渡しています。


■長篠の戦
設楽原古戦場で見つかった鉛玉には中国やタイの鉛が使われていました。信長は堺で硝石をおさえていましたが鉛もおさえ武田方の鉄砲の威力を抑え込んでいたようです。


■筑前守(秀吉)
天正3(1575)年に光秀が日向守、秀吉は筑前守の任官されます。天正6(1578)年に筑前守を返上して藤吉郎に戻しています。信長を裏切った荒木村重を説得にいった黒田官兵衛が捕らえられた時期で、信長は黒田官兵衛も裏切ったと考えていたので、秀吉は自ら降格を申し出て怒りを鎮めようとしたようです。ほとぼりがさめた頃に筑前守に戻しています。


■中国大返し
黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせ、池田恒興や高山右近らが秀吉陣営に加わります。


■武田信玄の水軍
海がなかった甲斐から駿河を手に入れたことで海に出ることができます。そこで水軍を整備しますが今川の旧臣である岡部忠兵衛を中心に武田水軍を整備し、志摩国小浜を拠点とし北畠の水軍だった志摩水軍の小浜景隆も取り込んで水軍大将にします。武田勝頼の時、駿河湾海戦で北条水軍と互角の戦いをします。


■北条早雲の出自
伊勢の素浪人説はすっかりなくなり備中国荏原荘(井原市)の高越山城主の子として生まれ、名門伊勢氏の一族です。

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2020/02/22

日本中世への招待

 【書 名】日本中世への招待
 【著 者】呉座勇一
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2020/02/28
 【ISBN 】978-4-02-295057-4
 【価 格】850円

■義経の結婚
義経が後白河法皇から勝手に検非違使の任官を受けたため頼朝と反目したと思っていましたが、だが任官の1ケ月後に義経は河越重頼の娘と結婚して鎌倉から京都へ向かっており結婚の世話をしたのが頼朝でした。新婦の母方の祖母は比企尼で頼朝の乳母でした。この頃はなんとか義経を取り込もうと考えていたようです。

■譲状
財産相続で争わないように書かれるのが譲状で、これを見るとほとんど平仮名です。自筆なのは偽造防止のためで鎌倉幕府の法廷では筆跡鑑定もやっていました。

■興禅の方便
中国に留学した禅僧が最新の宋学を持ち込んだため禅僧に学ぶしかありません。禅宗では宋学を足掛かりに禅宗を広めようと考えました。これが興禅の方便です。禅宗は生活のすべてが禅の修行という考えがあり学問担当の西班衆(せいばんしゅう)と実務担当の東班衆(とうばんしゅう)には基本的に差はありませんでした。東班衆も講義に出ていたため禅宗では実学を教えることになります。

■老人は60歳から
大宝令 3歳以下-黄、4~16歳-小、17~20歳-中、21~60歳-丁、61~65歳-老、66歳以上-耆(き)

■外科
中世、内科医のことを本道医と呼んでいました。外科はできることが限られていたため本道ではない意味で外科と言われました。

■アルコールハラスメントは中世から
フロイスが日本人は酒を非常にしつこくすすめ合い、酔っぱらうことが恥辱ではないと書いており、当時からアルハラがありました。

■伊勢の御師
御師と檀家との師檀関係は代々続き、檀家から御師を変更できませんでした。檀家の権利を他の御師に得ることができ、これが檀那売券(伊勢御師の場合は道者売券)

■島津家久の旅行
島津氏が薩摩、大隅、日向を統一できた御礼に伊勢神宮や愛宕山へお礼に向かいます。船の中では乗り合わせた庶民と酒を飲んだりするフランクな旅行でした。京都では石山本願寺からの戦いから帰ってきた織田信長の行列を見学しています。永楽通宝の旗印の中、信長自身は馬の上で寝ていたようです。明智光秀に招かれ坂本城も見学しています。

■高師直
バサラ武将のイメージがありますが、建武の新政では雑訴決断所の職員をしており、尊氏の時代になっても、この時の経験をいかして模倣していました。高一族は基本的に行政官僚で武人の方が珍しく、一説では楠木正成に兵法を学んだという説もあります。

■明智光秀の地位
連署状には丹羽長秀、木下秀吉、中川重政、明智光秀の順に記載され、織田政権に入った当時は地位はそれほどでもなかったようです。

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2019/08/30

中世奇人列伝

 【書 名】中世奇人列伝
 【著 者】今谷明
 【発行所】草思社文庫
 【発行日】2019/08/08
 【ISBN 】978-4-7942-2411-8
 【価 格】980円

承久の乱の黒幕で壮絶な最期を遂げた法印尊長、中国に渡り刑死になる寸前に歌で助かった雪村友梅、二度、将軍になった足利義稙(義材)、政治に深入りした歌人・京極為兼、中世で救民を実践した願阿弥、幕府にわたりあって混乱をおさめた広義門院のあまり知られていない6名にフォーカスした一冊です。

■葉室光親(はむろみつちか)
討幕を訴える後鳥羽上皇に対して無謀だと反対していましたが、決心が変わらないことから討幕の院宣を書きました。承久の乱が終了してから院宣を書いた咎を責められましたが一言も弁明せずに斬られました。のちに上皇を諫めていた諫状数十通が見つかり冤罪であることが判明します。北条泰時は処刑してしまったことを悔やんだ話が吾妻鏡に出てきます。

■広義門院(西園寺寧子)
光巌天皇、光明天皇の母親ですが討幕、建武の新政、南北朝時代に巻き込まれていきます。南北朝時代、南朝は北朝の上皇、天皇などを吉野へ拉致する事件を起こし、朝廷では何も決められない空位時代となります。ここで幕府に担ぎ出されたのが広義門院。61歳になっていましたが、頼むのは広義門院しかいませんでした。ただ広義門院は子供や孫まで吉野に連れ去られたことに怒り心頭。「皇位など幕府で勝手にしろ」と取り付く島がありません。バサラ大名の佐々木道誉などがひたすら請願したこともあって、広義門院はついに折れます。ここで行われたのが、昔にタイムスリップ(前年十月以前)させるという超法規処置。南朝の北畠親房は北朝の上皇、天皇などを手に入れたら北朝は何もできないと思っていたところに奇手が打たれました。

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2019/03/15

戦国大名と国衆

 【書 名】戦国大名と国衆
 【著 者】平山優
 【発行所】角川選書
 【発行日】2018/12/21
 【ISBN 】978-4-04-703670-3
 【価 格】1700円

大河ドラマ「真田丸」の最初の方では佐久・小県郡での国衆通しの争いが描かれ真田氏と対立する室賀氏などが描かれていますが武田氏の領国を舞台にした国衆にスポットをあてた一冊です。領国のなかには小領主と呼ばれる国衆がいて、いかに自軍に取り込むかが重要でした。国衆にとってもどの陣営につくかで家が栄える没落する滅亡するに分かれてしまうため大変な判断をしないといけない世界でした。

放状-被官が主人を離れるには主人に暇乞いをして、放状を発行してもらうのが基本でした。今でいう離職状みたいなものですね。当時も勝手に辞めることは行われていました。この被官の逃亡では裁判になる時もあったようです。

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2019/02/24

覇王 信長の海 琵琶湖

 【書 名】覇王 信長の海 琵琶湖
 【著 者】中井均、太田浩司、松下浩、東幸代
 【発行所】洋泉社歴史新書
 【発行日】2019/01/25
 【ISBN 】978-4-8003-1553-3
 【価 格】950円

敦賀と塩津の間を運河で結ぶ計画は平清盛の時代からあるそうで、昭和になっても2回計画されて断念しました。運河ができると日本海と太平洋が水路で結ばれることになります。北陸方面からの物資は塩津、海津、今津から坂本、大津へと運ばれ尾張や美濃からの荷物は米原にある朝妻湊が使われました。

安土城の築城では常楽寺湊が近くに会ったことが要因の一つでした。津田宗及が坂本城での茶会の後に安土に向かいますが、この常楽寺湊を使ったようです。安土は東山道からは少し離れていたので下街道(朝鮮人街道)を整備し、安土にくる商人は下街道を使うように定めました。

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2019/02/23

戦国武将に学ぶ究極のマネジメント

 【書 名】戦国武将に学ぶ究極のマネジメント
 【著 者】二木謙一
 【発行所】中公新書ラクレ
 【発行日】2019/02/10
 【ISBN 】978-4-12-150645-0
 【価 格】880円

滅んだ戦国武将というとボンクラのイメージですが、そんなことはなく家臣のため領民のためにいろいろと苦労して国をマネジメントしていました。論語などをしっかり読んで指針にしていました。「合戦というものは、ただ戦って勝ち、戦って負けるものではない。戦う前に勝敗の道理を知るのが良将というものである」という家康の言葉が残っています。

関ケ原の合戦で有名な吉川広家に親父の吉川元春が送った手紙が残っています。手紙によれば月代(さかやき)をしっかり剃って侍らしい恰好をしよという内容です。若い広家は当世風にしていたのでしょうね。毛利と秀吉との講和条件として広家は大坂に人質として送られ大坂で教育を受けることになります。

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2019/02/04

武士の人事

 【書 名】武士の人事
 【著 者】山本博文
 【発行所】角川新書
 【発行日】2018/11/10
 【ISBN 】978-4-04-082275-4
 【価 格】840円

田沼意次が失脚した後、老中首座についたのが松平定信。倹約を奨励したためバブル経済からデフレ経済に陥ってしまいました。この松平定信がまとめさせたのが「よしの冊子」という書物で、幕府役人や旗本、町人などに流布している話をまとめたものです。デフレ社会といい、なんか現代の監視社会とよく似ています。有名な火付盗賊改の長谷川平蔵も登場しますが町奉行など、あまり聞いたことがない人が登場し、出世したのかダメだったのか風評と共に人事が書かれていて、なかなか楽しめます。

きちんと仕事をするけれども上司とあわず出世できない、反対に仕事はできないが上司の覚えがよくって出世できるなど、現在と変わらない話もあります。武士の社会なんで事が起きても内々ですませる方が上司の覚えがよい面もあります。なかには優柔不断で町方から馬鹿にされる町奉行も出てきます。

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2019/01/19

歴史の勝者にはウラがある

 【書 名】歴史の勝者にはウラがある
 【著 者】河合 敦
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2018/12/17
 【ISBN 】978-4-569-76867-0
 【価 格】740円

副題が「日本人が誤解している戦国史」になっています。けっこうメジャーではない人物も取り上げられており、一人は臼井城を上杉謙信の猛攻から守った白井入道浄三で、寡兵でよく天下の名将である謙信の攻撃を防ぎました。もう一人は志賀親次という人物で大友側でしたが島津の猛攻で島津になびくものが多い中、荒城の月で有名な岡城にこもり、付近の城と連携しながら秀吉の島津征伐まで守り抜きました。


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2019/01/05

歴史家と噺家の城歩き

 【書 名】歴史家と噺家の城歩き
 【著 者】中井均、春風亭昇太、齋藤慎一
 【発行所】高心在書院
 【発行日】2018/12/10
 【ISBN 】978-4-86215-187-2
 【価 格】1800円

武田の城である躑躅ケ崎城、要害山城、白山城、新府城を巡る旅。

武田の城といいながら後世の改変も多いため、実際の縄張りを見ながらいろいろと考察しています。例えば武田の本城である躑躅ケ崎城はもともとは本郭だけのいわゆる守護館が基本でした。武田信玄の息子の義信のために新しい郭を作ったとあり、これが当時の大手が西側にあったようなので本郭の横に付けられた西郭のようです。これで聚楽第や広島城とよく似た縄張りとなります。君子南面すという言葉があるように南側に出入口を造らないのが当時の基本だったようで、造るとしたら勅使門になります。

御隠居郭はもともと家臣の郭だったのが、いろいろな郭を付け加える段階で躑躅ケ崎城に取り込まれていったようです。

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