2025/05/14

戦国史のミカタ

 【書 名】戦国史のミカタ
 【著 者】本郷和人
 【発行所】祥伝社新書
 【発行日】2025/05/10
 【ISBN 】978-4-396-11713-9
 【価 格】940円

■足軽
足利義満の親衛軍で3000人程度、応仁の乱になって農村から本百姓を借り出して足軽にしていきます。足軽が出てくると農村勢力を主力とする一揆がなくなっていきます。畠山義就が騎兵350、歩兵2000を率いるようになります。

■在原業平 56歳で没した時の歌
つひにゆく 道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを

■金ヶ崎の退き口
3万の織田軍ですので1万3千の朝倉軍、3千の浅井軍と個別にあたることもできましたが信長は退却しました。一つは浅井を通じた補給路が遮断されるので織田勢は干上がってしまいます。もう一つは挟み撃ちの心理的な怖さでした。戦っている最中は相手の兵力はわかりませんので未知数が多くなります。

■徳川十六神将図
家康-東照大権現で本地仏は東方の仏である薬師如来になります。薬師如来を守るのが十二神将、これに四天王を足して十六神将になります。

■家族墓
元禄時代ぐらいから出現するようになります。

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2025/04/23

戦国大名の外交

 【書 名】戦国大名の外交
 【著 者】丸島和洋
 【発行所】講談社学術文庫
 【発行日】2025/04081
 【ISBN 】978-4-06-539478-6
 【価 格】1,700円

■起請文
神仏に誓いますが双方が信仰している神の名前を記載するのがルールでした。

■手切之一礼
同盟破棄にあたっては手切之一礼を交換しあうのがルールでした。

■書札礼
どのような書式で書状を書くのか決まっていました。対等な相手には末尾に「恐々謹言」と記載しました。

■取次
外聞実儀笑止 取次としての責任を放棄すると非難を受けました

■武田信玄と織田信長
信玄は家康を信長の従属国衆とみなして、なんとかしろと要求しますが家康は独立した大名で同盟国で信長としても強いことはいえません。家康は上杉謙信と同盟するなどしたため信玄の三河侵攻につながっていきます。

■本能寺の変
最後は長宗我部元親が折れて高知一国でよいとの書状を出していますが届く前に、取次の面目をつぶされた斎藤利三が中心になって本能寺の変を起こします。光秀は家臣団充実で他家から家臣を引き抜いたと信長に怒られていました。斎藤利三には自害の命令も出ていた説があるので追い込まれていたのかもしれません。信長は光秀にいろいろ便宜をはかっていたつもりで裏切られるとは考えていませんでした。

■小田原征伐
北条氏と秀吉との取次をしていたのが富田一白と津田盛月ですが、双方に正確な情報を伝えなかったため小田原征伐につながっていきます。徳川氏も取次の一人だったため秀吉としては北条領の戦後処理をさせることで取次として服属交渉に失敗した責任をとらせた面があります。

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2025/04/06

播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史

 【書 名】播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】法律文化社
 【発行日】2024/09/10
 【ISBN 】978-4-589-0435-1
 【価 格】2,700円

■播磨 12郡
明石、賀古、印南、飾磨、揖保、赤穂、佐用、宍粟、神崎、多可、賀茂、美嚢

■但馬 8郡
朝来、養父、出石、気多、城崎、美含、二方、七美

■丹波 11郡
桑田、船井、多紀、氷上、天田、何鹿、加佐、与謝、丹波、竹野、熊野

■摂津 13郡
住吉、百済、東成、西成、嶋上、嶋下、手嶋、河辺、武庫、有馬、莵原、八部、能勢

■淡路 2郡
三原、津名

■山名氏
清和源氏の末裔で本貫は上野国多胡郡山名郷(群馬県高崎市)

■細川氏
兄兆家-細川頼之の系譜 右京大夫の唐名「京兆尹」から
典厩家-細川持賢の系譜 右馬頭・右馬助の唐名から
野州家-細川満国の系譜 下野守だったことから

■文正の政変
足利義政に対して足利義見が陰謀をだいていると伊勢貞親が報告。ところがこれが讒言で伊勢貞親が足利義尚の乳父だったたので足利義見の失脚を狙ったものです。日野富子がわが子を将軍につけようと応仁の乱が起きたというのは誤りです。

■森河内の砦
天正6(1578)年11月に本願寺を包囲する森河内の砦に鉄砲などを送るように明智光秀が命じています。光秀自体も出向いたようです。

■姫路城
秀吉が姫路城を作った時に城内にあった刑部神社を総社に遷したため祟りがあるといわれ、池田輝政が中風にかかった時、城内に八天塔を建てて護摩をたいて祈祷した記録が残っています。

■西宮神社
広田神社は格式が高く民衆に開放されていなかったので、海上交通の交易者向けに南宮の一小社が解放され、これが戎神をまつる西宮神社になります。

■杉原紙
多可町杉原で作られる和紙で正倉院文書にも播磨経紙の名前で登場し播磨国正税帳にも使われています。

■淡河市場
天正7(1579)年、秀吉は淡河市場に5ケ状の楽市令を発します。淡河城主・淡河定範は三木城の別所長治に見方したため淡河城は攻められ落城し、そのあとに楽市令を出しました。

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2025/03/24

戦国合戦 意外・驚きエピソード

 【書 名】戦国合戦 意外・驚きエピソード
 【著 者】加賀康之
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2008/01/24
 【ISBN 】978-4-569-66966-3
 【価 格】648円

■森可成
前田利家が織田信長の勘気にふれて浪人していた時に美濃の砦攻めに参加。皆が焦って山城を攻めようとするのを森可成が「焦らず体力を温存し近づいてから全力で戦うべきだ」と前田利家に忠告します。また森可成とともに攻めますが利家が一番に攻撃し、「利家に先を越された」と話し、織田家に戻れるように気を配りました。

■神子田長門
美濃攻めで斎藤龍興軍が敗れて逃げる時、池田恒興が唐の頭の兜をかぶった武者が逃げるを見つけ追いかけますが戦いもせずに逃げていきます。信長が今の武者は神子田長門だろうと推測します。撤退線で臆病者は逃げ遅れて首をとられるが、強い武者はうまく逃げることができるというのが信長の評です。

■淡河定範
別所長治とともに戦っていた淡河定範主従が逃げているところに追手が迫ってきます。そこで刺し違えて死んだふりをしていたところに首をとりにきた追手を薙ぎ払います。どっと笑ったあとに切腹したそうです。

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2025/03/21

関ヶ原合戦と大坂の陣

 【書 名】新視点で読み解く!関ヶ原合戦と大坂の陣
 【著 者】歴史街道編集部
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2025/03/28
 【ISBN 】978-4-569-85891-3
 【価 格】1,100円

■秀吉
慶長3(1598)年に秀吉が63歳で亡くなります。寧々は50歳、茶々は30歳、秀頼は6歳でした。

■石田三成襲撃事件
伏見城の治部少輔曲輪にこもり、攻撃側の七将もなんともできす、手詰まりになります。安国寺恵瓊が動いて毛利輝元経由で家康に和解の仲介を依頼し、三成は佐和山城で引退することになります。家康と輝元はこれで同盟関係になりますが、関ケ原の合戦前に輝元が三成側についたという知らせが届いた時、最初は信じなかったようです。

家康の屋敷は向島にありましたが、伏見城の西の丸に入城します。この時に世間は家康が天下殿になったと認識していました。

■三中老
生駒親正、中村一氏、堀尾吉晴が存在する1次資料が見つかっています。

■二重引き
吉川広家は1段目は関ヶ原まで引き、二段目は佐和山城へ引くと考えていたようです。佐和山で徳川を迎え撃つとみていましたが関ヶ原に東軍が迫っているという情報が入って関ヶ原で迎え撃つことになります。

■戦後処理
大名の転封、移封が行われますが農民は連れていきなという命令が出され結果として兵農分離がすすみます。

■慶長13(1608)年
家康は敵対モードに入ります。八上城主だった前田茂勝を改易して譜代の松平康重をいれます。翌年には篠山に松平康重を移します。亀岡(当時は亀山)には譜代の岡部長盛をいれて亀山城を修築しました。これで篠山、亀山、伏見という大坂包囲網ができます。

■片桐且元
大坂城の城門7つのうち5つを管轄し羽柴家の財政も管轄していました。弟の貞隆も1つの門を管轄し最後の1門は織田有楽が管轄していました。台頭してきた秀頼近習は不満をもっていたようです。

■大坂夏の陣
道明寺合戦などで敗れた大坂方に対して徳川側は和議を働きかけていましが、豊臣方はまとまりません、しびれをきらした前線部隊が戦闘をはじめてしまい、毛利勝永隊が奮闘し、家康本陣まで後退することになり面目のために豊臣家を滅ぼすしかなくなりました。

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2025/02/08

室町アンダーワールド

 【書 名】室町アンダーワールド
 【著 者】垣根涼介、呉座勇一、早島大祐、家永遵嗣
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2025/02/11
 【ISBN 】978-4-299-06310-6
 【価 格】900円

■寛政の土一揆
蓮田兵衛-西岡にある向日神社でおそらく陣をかまえ、当時の京都には相国寺の大塔(109m)と東寺の五重塔が見えます。地理を知らない農民に大塔を目指して京都に入れと命令し大塔に隣接する糺の森に集結します。戦って逃げる先は東寺になります。

■日本の政務債務
取りあえず、その場を取り繕い、問題を先送りしているうちに雪だるま式に問題が膨れ上がっていきます。個人はそれほど悪気はなく目先の問題に取り組んでいるうちに破局してしまいます。

■物事のファジーな部分の判断
〇か×は生成AIが得意な分野。曖昧模糊とした状況の判断は人間の仕事で残ります。

■怨霊→妖怪
室町時代までは怨霊を恐れましたが、だんだんと妖怪に変わっていきます。

■本能寺の変
明智光秀に近畿をまかせているので武田攻めにも参加しろと命じられ、行くのに十日、現地滞在も十日、また帰るのに十日で、やってられないと思ったでしょう。

■茶
南北朝時代にお茶が流行しますが室町時代になると減り信長時代から流行ります。室町時代は飲んで吐く当座会のような飲み会がはじまりますが信長は酒を飲まず秀吉もそれほど飲まないのでお茶が流行ったようです。

■信長の扶持雇い
明智光秀は1年のうちに60日を軍役動員しましたが、百姓にとっては迷惑な話で恨みをかっていたようで明智光秀が殺された小栗栖は光秀の支配地界隈でした。

■足利義政
義政は兄弟である政知を関東に義視を京都に配置して義政は院政をひくようなプランを考えていましたが、周りには理解しにくく応仁の乱へとなっていきます。

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2025/01/25

摂津・河内・和泉の戦国史

 【書 名】摂津・河内・和泉の戦国史
 【著 者】天野忠幸
 【発行所】法律文化社
 【発行日】2024/06/05
 【ISBN 】978-4-589-04326-9
 【価 格】2,800円

■誉田城
畠山義就が本拠地とし誉田屋形と称され誉田城となります。

■三好元長
堺に一向一揆が攻め込み顕本寺で切腹することになりますが、堺公方である足利義維は見捨てずに駆け付け細川晴元の兵によって軟禁されます。

■毛利輝元
足利義昭が槙島城で挙兵して信長に敗れますが、仲介をとりもったのが毛利輝元です。ところが義昭が人質を要求するなど交渉は決裂。面目をつぶされた輝元は怒り、義昭は紀伊の由良に遁走します。

■大坂幕府
元和5(1619)年に徳川秀忠が藤堂高虎に縄張りを戸田氏鉄に普請奉行を命じて、大坂城の再築をはじめます。大坂城は秀忠か家光の居城になるという大坂幕府構想がありました。

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2025/01/12

激闘!賤ヶ岳

 【書 名】激闘!賤ヶ岳
 【著 者】楠戸 義昭
 【発行所】洋泉社歴史新書
 【発行日】2018/07/19
 【ISBN 】978-4-8003-1528-1
 【価 格】950円

柴田勝家をくだし秀吉の天下取りを確定づけた戦いです。先手をとったのが柴田勝家側で玄蕃尾城を本陣にして行市山砦、別所山砦、中谷山砦、大池山砦などを築いていきます。出遅れた秀吉は神明山砦、堂木山砦などを築き、持久戦にあたらせますが第二陣となる大木山砦などは城造りの途中でした。

柴田郡の総指揮をとっていたのは佐久間盛政で、もともとは御器所西城の出身。佐久間氏は源氏の家人である三浦一族で安房国佐久間庄を本貫としました。余呉湖の西側を迂回し手薄だった大岩山砦を急襲。守っていた中川清秀が討死します。ところが岐阜攻めの途中、大垣で川の足止めをくらっていた秀吉に情報が入り、一夜で戻ってきます。佐久間盛政は見事な退き口で撤退しますが、この時に前田利家が裏切り戦線を離脱します。ここから勝家軍が崩れることになります。

勝家の撤退時間を稼ぐために馬印を借りたのが毛受(めんじゅう)勝助。林谷山砦で2時間、秀吉軍を釘付けさせることで勝家を北庄城に落ち延びさせました。勝家が前田利家の城によって何も言わず茶漬けを食べたシーンが出てきますが、前田利家は迂回して城へ向かっていたので物理的に勝家の前に城には入っていなかったそうです。

■玄蕃尾城
佐久間盛政の通称が玄蕃で、ここからとられました。

■柴田勝豊
柴田勝家の甥っ子ですが佐久間盛政に比べ一段下の扱いになっており、いろいろと確執があり長浜城を与えられますが秀吉に見方することになります。勝豊の部下だった山路将監が堂木山砦に入れられましたが、柴田側に寝返ります。大岩山砦などが工事途中などの情報を得て佐久間盛政は中入りを考えます。

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2025/01/06

家康はなぜ乱世の覇者になれたのか

 【書 名】家康はなぜ乱世の覇者になれたのか
 【著 者】安部龍太郎
 【発行所】幻冬舎文庫
 【発行日】2023/12/05
 【ISBN 】978-4-344-43435-6
 【価 格】670円

■ポルトガルの対日戦略
スペイン-ボリビア南部のポトシ銀山を明に持ちこんで大儲け
ポルトガル-石見銀山を狙って、まずは鉄砲を売り込みます。鉄砲が普及すれば硝石、鉛が売れることになり鉄砲や硝石代などで銀を得られます。

■松平親氏
親氏の3代目である松平信光の記録に親氏が新田氏の出である得川義季(新田義重の子供)の血をひいていることを意識していた記録が出てきます。親氏は南朝方だったようで幕府軍に追われて松平郷に流れつき松平家に入り婿として迎え入れられたようです。

■桶狭間の戦い
信長が大高城の周りに鷲津砦などを作っていた頃、服部友貞、斯波義銀、吉良義昭らが今川義元と連携して信長と対抗しようとしていました。服部友貞が尾張から一千の船を用意して大高から清州へ今川勢を運ぶ計画でした。この計画をしった信長が反対に大高城へ義元を誘い込んだのではと類推しています。

■長篠の合戦
長篠城から寒狭川を超えて設楽原へ出るかが勝負でした。家康は信長本陣を西に隠し、信長に援軍を要請したがわずか5千の兵しかよこさなかったと演出しています。また北に孤立している丸山に佐久間信盛を置き、佐久間から敵中に孤立しているので武田に寝返ると書状を送ります。馬防柵と鉄砲で戦ったいるところに信長軍が前線に出てきたため、罠にはまったことを知った武田勝頼は戦場を離脱します。

■フランシスコ・カブラル
イエズス会日本布教区責任者が貿易のサプライチェーンを握っておりタイのソントー鉱山の鉛を信長に提供していました。

■バテレン追放令
秀吉が天正14年にガスパール・コエリョと会談した時にイエズス会が求めていた明への出兵を承知し、軍艦2隻を貸すように要求しますが、イエズス会は渋ったようです。バテレン追放令は駆け引きで使われたかもしれません。

■家康
関東に移封された時、疲弊していた関東を各地に家臣を配置し農本主義、地方分権で復興させました。重商主義だった信長、秀吉から変更し乱世を終わらせました。

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2024/12/21

小牧・長久手合戦

 【書 名】小牧・長久手合戦
 【著 者】平山優
 【発行所】角川新書
 【発行日】2024/12/10
 【ISBN 】978-4-04-082494-9
 【価 格】1,100円

■堀秀政
信長の命令で備中高松城の秀吉のところに使者として派遣されており本能寺の変に巻き込まれずにすみました。賤ヶ岳の戦いのあと、秀吉は三法師のもり役で佐和山城主だった堀秀政にはじめて羽柴姓を授与しています。

■滝川一益
清須会議に遅れたと通説でしたが、織田家中としては東国に確保した領地の維持で、一益の要請があれば家康を援軍として派遣することにしており、そもそも会議への参加予定ではありませんでした。しかし上野などを失って伊勢長島に戻ることになります。知行配分を望みましたが清須会議で領地配分は既に決まっており配分はなく不満をつのらせることになります。

■外交戦略
秀吉は佐竹、里見と連携し北条を脅かして家康と連携がとれないようにします。家康は長宗我部氏、雑賀・根来と連携します。甲賀・伊賀は秀吉、家康側の二派にわかれていました。

■岸和田城
雑賀衆・根来衆-高井城、畠中城、沢城、積善寺城、千石堀城、鳥羽城、中村城を

■北伊勢
秀吉-亀山城
織田信雄ー峯城、神戸城、楠城、千草城、浜田城、国府城、沢城は秀吉側におちます
松ヶ島城ー滝川勝利、服部半蔵が守っていましたが開城し、滝川勝利は四日市西城に移ります

■南伊勢
織田信雄-戸木城、木造城、口佐田城、奥佐田城、牧城、川方城
戸木城攻略のために4つの付城を構築。その一つが城山城といわれています。

→ 小牧・長久手合戦

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