2024/08/26

室町ワンダーランド

 【書 名】室町ワンダーランド
 【著 者】清水克行
 【発行所】文藝春秋
 【発行日】2024/05/30
 【ISBN 】978-4-16-391850-1
 【価 格】1600円

■百王説
足利義満のころに天皇家が100代で滅びるという終末思想が流行っていました。一説には後小松天皇が99代とされていました。

■吉田神道
吉田兼倶が広めるための古文書などを捏造しブランディングしていきます。徒然草の兼好法師ですが兼の字があるというところから吉田氏の先祖に組み込んだようで吉田兼好というのはフェークのようです。

吉田神社では起請文のクーリングオフを引き受けていました。禁酒を誓っていましたが、よんどころない事情で飲んでしまい、起請返しをお願いできませんか、といった願いに対応していました。ただし祈祷料は1貫200文(約12万円)と高額でした。

■使いをつける
興福寺が新たな課税をかして備前荘という荘園の百姓とトラブルになった時、使者を送り込むとおどしました。職員が現地に居座って饗応を要求するいやがらせになります。

■拝観料
金閣寺や銀閣寺は拝観料ではなくお守り札になっています。京都市が導入した古都保存協力税への反対の名残です。

■ワリカン
蒸し風呂をまるまる借り切る「留め湯」が5百万(5万円)ほど。
皆で出し合って借りるワリカンを合沐(ごうもく)と言いました。

■偏諱
将軍から一字をもらいますが相場は「義」で5千~1万疋(500万円~1000万円)でした。

■片目
近衛信ただという公家の日記によると伊達政宗とともに毛利輝元、秀吉も片目と記載されています。

→ 室町ワンダーランド

 

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2024/08/24

蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人

 【書 名】蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人
 【著 者】車浮代
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2024/08/15
 【ISBN 】978-4-569-90429-0
 【価 格】900円

■貸本屋
江戸では800軒の貸本屋が10万人の読者をもっていた

■冷やかし
吉原近くの紙すき職人が紙の原料を煮てさます3時間ほどの間に吉原に見物していたことが語源

■平賀源内」
「根南志具佐(ねなしぐさ)」というBL小説や「江戸男色細見」という陰間茶屋のガイドブックを出すぐらいで源内もゲイでした。それが吉原のガイドブックである「吉原細見」の序文を描いたことで話題になります。

■東海道中膝栗毛
5作目が出たとこで版元の村田屋が大坂や京都の版元を巻き込んで全国販売をします。日本で初めて全国的な販売ネットワークを作りあげました。

→ 蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人

 

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2024/08/15

蔦屋重三郎と田沼時代の謎

 【書 名】蔦屋重三郎と田沼時代の謎
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2024/07/26
 【ISBN 】978-4-569-85740-4
 【価 格】1050円

■貸本屋
江戸藩邸では勤番者(単身赴任ででてきた藩士)に対しては屋敷の外に出るのはトラブル防止もあり制限されていました。そこで楽しみになったのが囲碁、将棋、貸本でした。娯楽本以外に春画も扱っていたようで、屋敷にもってきてもらえるので、人の目を気にせず、なかなかうまい商売です。蔦屋重三郎もこの貸本屋からスタートします。

吉原で書店を開業し、やがて日本橋で新しい書店を開きます。曲亭馬琴によると「世の中に吉原で遊んで財産を失う者は多いが、吉原から出てきた者で大商人として成功を収める者はなかなかいない」と評価していました。

■質屋の金利
金2両までなら年利28%、十両までなら年利24%、百両までは年利20%
日済貸(ひなしがし)85.7%
百一文(ひゃくいちもん)360%

→ 蔦屋重三郎と田沼時代の謎

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2024/08/10

戦国史の新論点

 【書 名】戦国史の新論点
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】星海社新書
 【発行日】2024/07/22
 【ISBN  】978-4-06-536027-9
 【価 格】1500円
 
■松永久秀
足利義輝暗殺の黒幕とも言われていますが、松永久通と三好義継らが独断で襲ったようです。義輝周辺を討てば、すべて解決できるという若者の発想では無理と思っていたようで、素早く義昭を保護し、いざとなれば傀儡として擁立することも考えていたようです。
 
信貴山城で自害しますが信長自身は謀反の首謀者は久秀ではなく久通と認識していました。
 
■明智光秀
田中城に明智光秀が籠城していて光秀から口伝を受けた古文書がみつかり話題になりましたが、永禄9年(1566)年当時に田中城にいたという説は、浅井長政の勢力圏であり無理で、おそらく元亀3年(1572)年に浅井方の田中城を落城させた功績で信長が光秀に田中城を与えたのを混同した可能性があります。
 
■上杉謙信の遺骸
上杉景勝が越後から会津に移った時、上杉謙信の遺骸はそのままだったようで、後で問題になって会津に移したようです。

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2024/08/02

戦国武将を推理する

 【書 名】戦国武将を推理する
 【著 者】今村翔吾
 【発行所】NHK出版新書
 【発行日】2024/03/10
 【ISBN  】978-4-14-088717-2
 【価 格】1080円
 
■秀吉
1月1日生まれとされていますが、天文6年(1537)2月6日生まれと考えられています。
武辺をば今日せず明日と思ひなば、人におくれて恥の鼻あき
(明日こそ功名をたてる、そうした考えでは人に後れをとり、人の鼻を明かすどころか恥の上塗りになってしまう。好機は今ここで掴みとれ)
金ケ崎の退き口が秀吉の大きな賭けでした。実際に殿を指揮していたのは池田勝正ですが、退き口の2ケ月後に家臣の裏切りで追放されたため歴史から埋もれてしまいました。
 
■関ケ原の合戦
偶然にも信康が切腹した同じ9月15日で「年老て骨の折るることかな。倅がいたらば是程にはあるまじ」と独り言をもらした逸話があります。
 
■信玄
およそ戦というものは、5分をもって上とし、7分を中とし、十分を下とす。5分は励みを生じ、7分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。たとえ戦に十分の勝ちを得るともおごりを生ずれば、次には必ず敗れるものなり
百人のうち九十九人に誉めらるるは、善きものにあらず
為せば成る成さねば成らぬ 成る業を 為さぬ捨つる 人のはかなさ
 
信玄が西に向かう時、天台座主沙門信玄の肩書で進軍します。信長は比叡山を焼き討ちしており大義名分になりました。
 
■松永久秀
出自については西岡、阿波説がありますが、有力なのが摂津五百住(よすみ)説です。
 
■石田三成
江戸時代初期の「一柳家記」で賤ヶ岳の戦いで一番槍の功名をあげたのは一柳直盛。大谷吉継、石田三成と書かれています。武の才能もありましたが、それ以上に文の能力が大きかったです。加藤清正は武のイメージが強いですが、小牧長久手の合戦では150名の兵しか率いておらず、後方支援をしていました。
秀吉の朝鮮出兵で撤退を進言した武将としてフロイスの「日本史」に小西行長、大谷吉継、石田三成の名前があがっています。
 

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2024/07/06

戦国大名の家中抗争

 【書 名】戦国大名の家中抗争
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】星海社新書
 【発行日】2024/06/17
 【ISBN 】978-4-06-536180-1
 【価 格】1400円

■島津
庄内の乱が発生した時に在京していた義久(67歳)は伏見にいた家康に依頼して、逼塞していた忠恒の帰国を許してもらい、乱を起こした忠真討伐の許可も出しました。国内における私戦の鎮圧が豊臣政権の役割の一つであり五大老筆頭の家康にしかできないと自負していた面と島津に恩がうれると考えていたようです。

■武田義信
信玄の後継者でしたが信玄は勝頼と信長の養女との結婚を発表。今川氏を見限って織田への連携を考えました。こうなると勝頼が当主になる可能性が出てきたため路線対立もあり謀反の計画をすすめた背景があります。

→ 戦国大名の家中抗争

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2024/03/23

新説 徳川家康

 【書 名】新説 徳川家康
 【著 者】野村 玄
 【発行所】光文社新書
 【発行日】2023/11/30
 【ISBN 】978-4-334-10131-2
 【価 格】1240円

■上杉攻め
島津義弘を伏見城城番にすることを考えていましたが、島津義弘は公儀の命令と受け取っていました。
家康は朝廷の承認を得て会津攻めをしており頼朝の奥州合戦をなぞったものと考えられています。頼朝は前九年の役の追体験を鎌倉武士にさせ権威を高めるところにありました。家康は鶴岡八幡宮を参拝し源氏の頭領として振舞おうとしていました。

■秀吉の失敗
豊臣英次に関白職とともに豊臣氏長者も渡してしまい失敗したのをみていた家康は秀忠に将軍職は譲りましたが源氏長者は保留しました。
片桐且元に伝えられていたのは秀頼が15~20歳になるまでの間、秀頼に天下を治める器量があれば秀頼に天下を渡してほしいというものでした。家康が書いた起請文は秀吉の御棺におさめられました。大坂の陣が終わってから豊国社を封鎖しますが、廟所を破却することはできないが存続するのも困るので破却にちかい形にしたようでう。

■秀吉の遺言
秀頼を伏見城から大坂城へ移し、15歳になっていたら大坂城を出るように遺言していました。

■関ケ原の合戦
秀忠への当初の命令は上田攻めで途中で方針が変わりましたが命令を伝える使者が適切な時期に到着しませんでした。
三成と大谷吉継が決起した時、淀と三奉行は家康に上洛するように求めています。
大垣城には兵糧がなく小早川秀秋の野心が伝わり、籠城戦は無理ということで関ケ原へ移動することになります。吉川広家が評定に参加すると三成らは佐和山までひくとのことで吉川広家は関ケ原の戦い以前に家康に降伏することになります。
小早川秀秋隊は山中で大谷吉継隊と戦い撃破した後に関ケ原の戦線に加わります。

■伏見城
焼けた伏見城を再建し家康が入ります。将軍任官を目指し新政権樹立のためですが、これで秀頼の居城と領地が確定されます。淀が羽柴家の女主人としていろいろな問題に対処せざるをえず、結果的に秀頼親子を追い詰めることになります。

■伊達政宗の提言
秀頼を大坂城から出して江戸か伏見におき、2、3ケ国を与えるのがよいと提言しています。でないと秀頼を担ぎだものがでて切腹させるようなことになれば秀吉に顔向けできないという内容で、政宗が予言したとおりになりました。

→ 新説 徳川家康

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2024/02/17

室町は今日もハードボイルド

 【書 名】室町は今日もハードボイルド
 【著 者】清水克行
 【発行所】新潮文庫
 【発行日】2023/01/01
 【ISBN 】978-4-10-104831-4
 【価 格】710円

■鮟鱇(アンコウ)
川にいるアンコウのように口をあけてぽかんとしている人。愚かで鈍いという悪口。もともとはサンショウウオをアンコウと呼んでいたが後の世に深海魚がアンコウと呼ばれているようになる。

■淀川(京都~大阪)の関所
380ケ所で616という説もある。単純計算で100mごとに関所がある計算。どこかの関所にまとめて通行料を払えば系列の関所はフリーパスになっていたと思われます。

■金が森の戦い
延暦寺と戦い,史上最初の一向一揆。

■松平益親(ちかます)
大浦と菅浦の紛争で日野家が派遣したのが松平益親という代官。ところが大浦側は代官の暗殺をはかります。この松平が家康の先祖の一人になります。

■枡
田んぼ1枚1枚で年貢の枡が異なっており、売買が成立すると年貢枡も購入者に渡していました。枡には領主との契約の意味もあり、不信が極点に達すると百姓はまず枡を破壊します。
八升で一斗になる八升枡など、いろいろな枡がありました。

■ゆ年改元
昭和64年 1月8日に平成に 改元された年は前の年号を1年使ってから翌年を元二年にするのが「ゆ年改元」、明、清で使われており令和改元でも検討されました。

■朝鮮への使節団
管領畠山義勝などの名前で使節団が送られた記録が残っていますが、秀吉の時代に150年ぶりに朝鮮使節が日本にくると交易相手にしていた使節団が、なりすまし詐欺と判明します。

■厭離穢土欣求浄土
三河一向一揆の時に家康に味方した大樹寺の和尚「みんなで戦って死んで極楽浄土へ行こう」というキャッチフレーズとして書いたものだそうです

■切腹
江戸時代 恨みを残して切腹したものが切腹した刀を遺族が仇の家に届けると、届けられた側は問答無用で切腹する「指し腹」という復讐法がありました

■徳政令
モノには魂がやどっているという考えがあり、神社などの市場は聖なる場所なので売買できるという意識があったようです。質入れとは本来あるべき場所からひきはがす行為でもあり、徳政令は異常な場所に移ったものを元に戻す考えでもありました。

→ 室町は今日もハードボイルド

 

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2024/01/27

新知見の戦国史

 【書 名】新知見の戦国史
 【著 者】本郷和人
 【発行所】産経NF文庫
 【発行日】2024/01/22
 【ISBN 】978-4-7968-706-8
 【価 格】990円

産経新聞に連載されている「本郷和人の日本史ナナメ読み」をまとめた一冊です。

■加納城
長篠城を守ったのが奥平氏で奥平伸昌に家康の娘である亀姫が嫁ぎます。婿にはやさしい家康だったので奥平信昌を小幡藩(3万石 上野国)を与えたあと、京都所司代に任じます。慶長6年(1601)に岐阜10万石を与え、加納城を築きます。亀姫は「加納どの」と呼ばれることになります。御三階櫓は廃城となった岐阜城の天守を移築したと言われています。岐阜城天守を建設する時に御三階櫓の図面が参考にされました。

■本田忠勝
侍は首をとらずとも手柄せずとも、ことの難しきに至りて、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍と申すなり

■かんかんのう
落語「らくだ」に出てくる「かんかんのう」。看々踊が流行っており、元は清の九連環という俗謡で長崎を通じて入ってきたようです。

→ 新知見の戦国史

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2024/01/06

長篠合戦

 【書 名】長篠合戦
 【著 者】金子拓
 【発行所】中公新書
 【発行日】2023/12/25
 【ISBN 】978-4-12-102785-6
 【価 格】900円

信長が本願寺に味方する河内を攻めるために出陣したことにあわせ後方支援のために武田勝頼が三河に進軍します。岡崎奉行だった大岡弥四郎が武田勝頼に内通しており岡崎に向けて出陣しますが途中で謀反が発覚し、岡崎攻めを中止にします。方向転換した後、野田城、吉田城を攻めて、ついでに長篠城を攻めますが、思いのほか抵抗されます。家康からの要請に援軍に応じなければ同盟関係が瓦解するところまで追い込まれた信長はしぶしぶ出陣します。

ただ本願寺攻めのために兵力を温存したいため馬防柵を構築し陣城を築きます。また柵から出て戦うなという指令を出します。布陣をみた武田勝頼は勝てると判断しましたが、実際に攻めると湿地で進む道が限られていたため一軍ごとに波状攻撃をかけざるをえず城攻めの形となります。この時に柵から撃つ鉄砲が威力を発揮しました。

■本願寺攻め
天正3年(1575)に本願寺攻めをしますが、その前に千町鼻と呼ばれる淀川の堤を破壊し、田地を水没させました。若江城を拠点に本願寺側の萱振城などを攻撃し三好康長の高屋城を佐久間信盛、柴田勝家が攻めています。信長本体は住吉、天王寺から遠里小野に陣を移します。東にある新堀城(長居公園近くにあった模様)を攻撃して陥落させます。

■奥平家
長篠城を守り抜き開運となりました。225年たった1799年などに長篠開運として祝宴が行われています。

■本田重次
長篠合戦の時に47歳で陣中から妻に送ったのが「一筆申す、火の用心、お仙?さすな、馬肥やせ、かしく」を送ったと言われています。

→ 長篠合戦

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