2021/10/23

江戸の旅行の裏事情

 【書 名】江戸の旅行の裏事情
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2021/10/30
 【ISBN 】978-4-02-295142-7
 【価 格】810円


■宿泊料
かけ蕎麦16文(400円ほど)


旅籠1泊2食 上宿172~300文、中宿148~164文、下宿107~140文
      2,700円~7,500円ほど
木賃宿(食事なし) 50~60文(1,500円ほど)


浪花組ー客引きがひどいので良質な旅籠屋を登録


■ガイド料
江戸の町案内 250文(6000円) 1グループ単位


■徳川吉宗
桜シーズンは上野への集客が多く、将軍の墓所がある寛永寺でも騒ぎとなっていた。そこで飛鳥山、隅田川堤に植樹して分散


■吉原
享保6年(1721)-8171人中、遊女は2105人で飲食業を中心とする商人も多かった


■参勤交代
コストカットするために一日の歩行距離を稼ごうと朝早くに出立 
佐賀藩と薩摩藩の強行軍が悪評
「人のわるいは、鍋島、さつま 暮れ六ツ(午後6時)泊りの七ツ(午前4時)立ち」


■シュリーマン
トロイヤ遺跡発掘の前に世界旅行をしており幕末の横浜にも滞在。ちょうど徳川家茂の上洛の話があり幕府が指定した見学地から見ている記録が残っています。

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2021/10/16

戦国合戦のリアル

 【書 名】戦国合戦のリアル
 【著 者】鈴木眞哉
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2021/10/19
 【ISBN 】978-4-569-90165-7
 【価 格】940円


■兵種
正確なところは分かりませんが永禄5年(1562年)~天正6年(1578年)頃の武田家


槍 46.3%、騎馬 12.1%、持槍 11.7%、弓 10.3%、鉄砲 10.3%
で騎馬の割合でいうと上杉家の方が多く、武田の騎馬軍団というのは本当かどうか分からない


書状に書かれた死傷者などはいいかげんなもので信長自身も本願寺との戦いで雑賀孫一などを討ち取ったなどと、あちこちに偽情報を流しています。


■飛び道具
鉄砲兵の比率が高くなるのは関ケ原の合戦の頃からで、朝鮮出兵によって集団密集で戦う明軍を相手にし、薩摩の島津義弘は槍なんか役に立たないので鉄砲を送れと言っています。戦国時代を通じて一番効果的だったのが弓だったようです。


鉄砲ー沖縄では火矢という鉄製の管を束ねた鉄砲の原型のようなものを使っていました。応仁文明の乱の頃には京都でも鉄砲らしきものが使われていたようです。戦闘で華美な衣装をつけるのは鉄砲の硝煙のなかで同士討ちを避けることと武功を認めてもらうことにありました。


■青侍
平安時代後期以降、摂関家などに仕えた下級職員が侍身分だと六位であることが多く、六位は青い色の上着を着ていたことから未熟な者や身分の引く者という意味をさすようになります。


■指物
どこの軍か識別するための旗ですが東の方から始まったようです。秀吉の九州攻めで鍋島直茂が出陣した時に指物を指す受筒を知らなかったので縄で結んで背中に背負ったりしていたりしていました。


■行進
出陣する時などに行列を組むことはなく、信長軍では几帳面な明智光秀が改めるようにしました。


■安濃津城の戦い
関ケ原の戦いの前哨戦。記録からみると鉄砲疵54.8%、槍疵31.1%、矢疵13.7%で刀疵はわずか0.4%。白兵戦などはなく、富田信虎の妻が夫を助けるために出陣した話などはマユツバのようです。

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2021/10/02

江戸のお勘定

 【書 名】江戸のお勘定
 【著 者】大石学
 【発行所】MdN新書
 【発行日】2021/8/11
 【ISBN 】978-4-295-20195-3
 【価 格】891円


■塩原屋太助
本所相生町の炭屋 俵単位で量り売りだったのを金額に応じて量り売る商売を始める
それでも炭を買えない人向けに炭の粉などを丸めた炭団を発明して販売


■チリンチリンの町飛脚(風鈴をつけて走った)
四つ時(午前十時頃)に日本橋人形町で書状を回収し浅草御蔵前まで24文(720円)、品川新宿まで50文(1500円)
牛込から九段坂まで32文(960円)


■鰻丼
歌舞伎の興行主だった大久保今助の発明
故郷に帰る途中、船で食べるために冷めないよう暖かいご飯の上に蒲焼を乗せる


■居酒屋
神田鎌倉河岸にあった豊島屋が発祥。角打ちのようなスタイルで田楽(1本2文 60円ぐらい)を酒と一緒に出す。


■商品券(料理切手)
大坂の高麗橋3丁目にあった虎谷伊織という菓子屋。プレゼント需要が生まれたのが料理切手で、持っていくと饅頭が受け取れる仕組み。


■半畳をいれる
芝居の升席に7人まで入ることができる。敷物は半畳に切ったもので、役者がうまくないと「ひっこめ!」と敷物が舞うことになり、野次ることを「半畳をいれる」となります。


■万年青(おもと)バブル
文化・文政年間には1鉢百両(1200万円)、なかには千両を超えるものもありバブルに


■強請(ゆすり)
人足が担いだ籠を揺する行為が語源に


■二束三文
下駄をすげかえる商売があり、なかには鼻緒だけをすげかえることがあり2足で3文(90円)で、値段が安い意味の二束三文の語源となる。

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2021/08/07

戦国乱世を生きる力

 【書 名】戦国乱世を生きる力
 【著 者】神田千里
 【発行所】ちくま学芸文庫
 【発行日】2021/06/10
 【ISBN 】978-4-480-51030-3
 【価 格】1300円


■徳政令
地方から上京した旅人の所持品を宿の主人がわざわざ賃借し徳政令を使って巻き上げようとしたところ反対に旅人に貸した宿をとられてしまう笑い話が「塵塚物語」に記載されています。土一揆に対し幕府は細川、山名、一色の軍勢を出しましたがまた落書も書かれ敗退し落書にも記載されます。「冬の夜を目覚めて聞けば御徳政、払いもあへず逃ぐる大名」


飢饉が起きると京都では粥の施行が行われました。そのため河内の農民が村を捨てて京都へ出てきたりしています。施行の原資は勧進(僧侶のよる募金)で足利義政自身も100貫文を寄付しています。


■山城国一揆
南山城で畠山義就と畠山政長が紛争。1482年(文明14年)末から翌年にかけて畠山政長方の草路城、水主城が畠山義就軍に奪われます。ところが1485年に畠山義就が水主城にいれた斎藤彦次郎が寝返ったため、奈島、多賀、富野、寺田などで両軍が対峙。南山城の国人や土民が集まって協議し両軍に撤退勧告を行い、両軍とも引き上げます。中心となったのが国人36人衆でもともとは細川政元の被官でした。


■惣村の自治
惣有財産-山などの入会地、農業用水などの村の資産
地下請ー近世の村請と同じで年貢納入 
※近世の村請では領主と約束した石高と村が定めた宛米(あてまい)は異なっており宛米の方が一般的に石高より多くなっています。実際にどれぐらい村の収穫があるか領主も把握できなかったようです。
村法ー村の法律
自検断-警察権


■僧侶の救済活動
重罪人でも僧侶が助命嘆願ができました。認められないため死刑囚を得度して僧侶にしてしまい、ともに出奔してしまった僧侶がいます。また匿っていた罪人を大名の配下が殺してしまったため出奔した僧侶がいて、大名自身が迎えにきました。


■京都の町衆
足利将軍は動員権をもっており足利義昭が二条城に入って信長に叛旗を翻した時、市民が武器をとって門などを守ったとフロイスが記載しています。


信長は義昭を追放しましたが、足利体制は残そうと考えていたようです。義昭の息子で人質になっていた義尋を次の将軍にと考えていたようですが自身が征夷大将軍などに任命される頃になると考え方は変わっていきました。


■家の信心
子供の信心が親の往生に寄与すると考えられ、宣教師から地獄に落ちたものは救われないと聞くと、皆、嘆いたという記録があります。祖先だけでなく妻子なども対象なので先祖崇拝というより家の信心でした。

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2021/07/24

真相究明「本能寺の変」

 【書 名】真相究明「本能寺の変」
 【著 者】菅野俊輔
 【発行所】青春新書
 【発行日】2021/07/15
 【ISBN 】978-4-413-04626-8
 【価 格】900円


「乙夜之書物」という加賀藩の関屋正春がまとまた書物で実際に本能寺の変の場にいた斉藤利宗(斉藤利三の息子)が語った話です。


■田中城
光秀が若狭熊川出身の沼田清延と田中城に籠城していました。足利義昭が野洲郡矢島から若狭小浜の武田義統を頼ることになりますが田中城は熊川から小浜に至る道中にありました。牢人していた光秀は足利義昭に仕えるために籠城していたようです。沼田から話を聞いた米田が「針薬方」としてまとめますが、沼田も米田も後に細川藤孝の家臣になっています。沼田清延は藤孝の義兄弟だったようです。


■本能寺の変
明智秀満と斎藤利三の2000人ほどが本能寺に向かい、光秀は鳥羽に控えていました。また本能寺内にほとんど人がおらず簡単に制圧できたようです、山崎の合戦で負けたあと斉藤利宗は細川忠興に預けられます。加藤清正に仕えやがて徳川家の旗本になりますが、妹である福の影響も大きかったでしょう。

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2021/07/10

天正伊賀の乱

 【書 名】天正伊賀の乱
 【著 者】和田裕弘
 【発行所】中公新書
 【発行日】2021/05/25
 【ISBN 】978-4-12-102645-3
 【価 格】880円

伊賀には600を超える城砦群があり、当時も認識されていて朝鮮出兵中の加藤清正が秀吉の側近に送った書状に「昔の伊賀・甲賀のように在所在所に要害を構えている」と報告しています。実際は不明数が264あるため900近くあったようです。

■伊賀守護 仁木(にっき)氏
足利義昭が将軍になる前に大和を逃れて甲賀の和田惟政の所に向かう途中、伊賀を通り仁木氏に接待をうけた記録があります。

■伊賀衆
越智党など党は血縁関係で結ばれていて衆は地縁を元にしています。六角氏と縁が深く足利将軍に攻め込まれると甲賀や伊賀に逃げ込んでいました。伊賀衆は全体としてまとまっていたわけではなく傭兵的存在で浅井氏が六角氏方の太尾城を攻める時に伊賀衆が参陣しています。織田方についたこともあります。

■六角定頼
信長が安土城に江雲寺御殿を造営しており、六角氏を最盛期までのばした六角定頼(江雲寺殿)に由来するようです。

■三瀬の変
信長の命令で北畠具教が三瀬御所で討ち取られたと言われていますが松阪市大石の可能性もあり、江戸末期には御所屋敷という字名が残っていたようです。

■滝川勝利
木造具康の子供で信長の北畠攻めでは木造氏を信長方にしました。滝川は擬制的な一族として名乗ったのでしょう。織田信雄の後見役となり本能寺の変の後も活躍し秀吉や家康にも高く評価されていました。関ケ原の合戦では西軍につき所領没収になりましたが、翌年には家康の常陸国で2万石を与えられました。

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2021/07/02

戦国武将の選択

 【書 名】戦国武将の選択
 【著 者】本郷 和人
 【発行所】産経新聞NF文庫
 【発行日】2021/04/20
 【ISBN 】978-4-7698-7034-0
 【価 格】902円


■波多野氏
光秀の丹波攻めで立ちはだかったのが波多野氏。波多野氏は源義朝を支えた家人でした。本貫は神奈川県秦野市にあった波多野荘です。石見の吉見家(源範頼の子孫)出身の清秀が母方の波多野を名乗り、細川勝元に仕えたのが丹波・波多野氏の初代になります。波多野秀治と一緒に光秀と戦ったのが赤井直正でタレント赤井英和は子孫にあたります。波多野秀治の娘の一人は三木城の別所長治に嫁いでいました。


織田軍は三木城と八上城を攻めることになりますが25年前に同じことをやっていたのが三好長慶と松永久秀


■守護大名と戦国大名の違い
三好長慶は国人領主を支配ー守護大名
織田信長は地侍までを支配-戦国大名


地侍(小領主・国人)-農民&足軽 刀狩りの対象となる
国人領主ー小領主をたばねた地域一帯の領主
織田信長は小領主を村から話して城下町に住まわせ武士のサラリーマン化を行う


■寺社への寄進
室町幕府が小早川から起こされた裁判で悩みます。法理からいえば小早川ですが、仏に寄進された土地は悔い返すことができないという常識があり、このバランスで悩みます。


■牧村利貞
利休七哲の一人。稲葉一徹の息子で伊勢で2万石の大名になります。娘が「おなあ」でスカウトしたのが稲葉一徹の養女になっていたお福さん(春日局)です。「おなあ」の孫が家光の側室となります。

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2021/05/29

秀吉の播磨攻めと城郭

 【書 名】秀吉の播磨攻めと城郭
 【著 者】金松 誠
 【発行所】戎光祥出版
 【発行日】2021/05/10
 【ISBN 】978-4-86403-385-5
 【価 格】2600円


図説日本の城郭シリーズ16です。別所長治は最初、信長に従い関係もよかったのですが別所家内の権力抗争などから離反することになります。別所長治の三木城とたくさんの付城群や長土塁が解説されています。

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信長家臣 明智光秀

 【書 名】信長家臣 明智光秀
 【著 者】金子拓
 【発行所】平凡社新書
 【発行日】2019/10/15
 【ISBN 】978-4-582-85923-2
 【価 格】840円


■姉川の戦いの後の信長軍の布陣
横山(木下秀吉)、佐和山(丹羽長秀)、長光寺(柴田勝家)、安土(中川重政)、永原(佐久間信盛)、宇佐山(明智光秀)


■光秀の妻
妻木氏出身と言われていますが、吉田兼見のところへ惟向妹の妻木が伊勢参宮について尋ねている記事があり確かなようです。


■丹波
信長はまず細川京兆家当主の信良の旧守護にまかせたようです。

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2021/04/10

お殿様の定年後

 【書 名】お殿様の定年後
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】日経BPマーケティング
 【発行日】2021/03/08
 【ISBN 】978-4-532-26455-0
 【価 格】850円


■柳沢吉保
六義園を造成した人物で和歌に造詣が深く、北村季吟から古今伝授を受けています。当時は甲府15万石でしたが1724年に大和郡山に国替えとなり、そのまま明治をむかえます。お国替えの時に22歳だった柳沢信鴻が藩主を30年ほど勤め1773年に隠居します。藩主から引退すると歌舞伎を見に行ったり、街中へ出たりと自由になります。また藩主が住む上屋敷から駒込下屋敷に移ります。ここにあったのが六義園です。


藩主時代は元旦といえば江戸城に行き年始の挨拶を行かなければならず大変でした。そこで詠んだのが「君恩に 先ず元日の 朝寝かな」です。


■松平定信
寛政の改革を行い質素倹約をすすめたため、「白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」と歌われました。失脚してからは改革で弾圧したはずの文化を振興しており、老中時代は役目柄やらざるをえなかったようです。「近世職人尽絵詞」のスタッフで登用されたのは四方赤良(大田南畝)、山東京伝などで寛政の改革で要注意人物になった人物ばかり。


■甲子夜話
甲子夜話で有名な平戸藩主・松浦静山が名言が「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」。松浦は九州で活躍した松浦党という武士集団で水軍で活躍しました。


■薩摩の武士
明治7年(1874年)総人口が3362万人で5%強188万人が武士とその家族。薩摩の武士とその家族は20万人を超えていて日本の武士の1割強を占めていました。

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