2023/01/24

城郭研究家の全国ぶらり城めぐり

 【書 名】城郭研究家の全国ぶらり城めぐり
 【著 者】中井均
 【発行所】産業編集センター
 【発行日】2022/12/14
 【ISBN 】978-4-86311-348-0
 【価 格】1200円


■登り石垣
彦根城、伊予松山城、淡路洲本城、但馬竹田城、伯耆米子城に残っていますが、彦根城をのぞいた城の慶長期の城主は豊臣秀吉の朝鮮出兵で渡海した大名。倭城に使われていて倭城を造った大名が日本に帰ってから取り入れたようです。


■観音寺城
矢穴がある石垣で造られた最古に城は観音寺城で、すぐ隣の安土城の石垣では矢穴は見つかっておらず職能集団が異なっていたようです。


■新発田城(新潟)
本丸辰巳櫓が失火により焼失しましたが、管理していたのが堀部安兵衛のお父さん。これで浪人になってしまい息子が赤穂義士になってしまいます。


■納豆の発祥
一説には後三年の合戦の時、源義家軍が兵糧の煮豆が納豆菌で糸をひいていたのを見つけ、食べてみたら意外にもおいしいことを発見。


■峠下台場
函館郊外にあり作ったのはラストサムライのモデルになったブリュネ大尉。陵保が7ケ所に突出している七稜郭のようなもの、ただし長辺でも30mのこじんまりとした陣地でした。


■唐津城
玄界灘の岩礁に矢穴のある石があり、石垣用の石材を地産地消で獲得していました。

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2023/01/21

武士とは何か

 【書 名】武士とは何か
 【著 者】呉座勇一
 【発行所】新潮選書
 【発行日】2022/10/25
 【ISBN 】978-4-10-603890-7
 【価 格】1500円


■源頼朝の助命
清盛の継母である池禅尼が頼朝の助命を願いますが、頼朝の母の実家である熱田大宮司家が上西門院統子(後白河上皇の姉)に奉仕しており、頼朝も奉仕をしていた。池禅尼も上西門院と関係があり、頼朝の母方の縁者から働きかけがあったようです。


頼朝は都で官職を得て朝廷で活動していたこともあり知名度が高いため、反乱の中心は頼朝という認識があり、木曽義仲や武田信義も頼朝傘下という扱いでした。


■腰越状はなかった
義経が検非違使になり宮廷に出仕するために大江広元の家臣が作法を教えていたので頼朝は了承していました。また吾妻鏡に腰越状が出てきますが、北条氏の正当化の面も強く創作も多くなっています。義経が待たされていたのは腰越ではなく酒匂宿なので腰越状も存在しないことになります。


挙兵に失敗した義経と行家は九州を目指すため大物浦から船出しましたが暴風雨で難破してしまいます。


■明応の政変
足利義稙、畠山政長が出陣のために京都を留守にしたところで細川政元がクーデターを起こし足利義澄を擁立し、これが実力主義の機運をうみ戦国時代に突入していきます。


■秀吉
出自がよく分かっていませんが小田原征伐の時に「秀吉若輩之時、孤と成て、信長公の幕下に属す」という言葉をいれた朱印状を出しています。若き日に故郷を飛び出し、徒手空拳から成りあがったことは事実のようです。


■関ケ原の戦い
家康が遅れて到着した秀忠を叱責しますが、遅れたことではなく、急ぐために軍勢をバラバラにして手勢だけひきいて西上したことです。合戦に負けた時に軍勢を整えて弔い合戦をしなければならず、秀忠と徳川軍さえ残っていたら家康が死んでも、まだなんとかなると家康は考えていました。

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2023/01/15

戦国武将の現場感覚

 【書 名】戦国武将の現場感覚
 【著 者】西股総生
 【発行所】KAWADE夢文庫
 【発行日】2022/3/30
 【ISBN 】978-4-309-48582-9
 【価 格】720円


■先込め銃
一発撃つと、カルカという棒で火薬カスをこそぎ落とし、次の火薬と弾を筒先からいれてカルカで突き固める。また弾込めの時に、銃身をたてる必要があり、伏せ撃ちができない。近代になって元込めになったため、匍匐前進しながわ撃つことができるようになった。


ひととおりの操作をマニュアルで覚えてしまえば誰でも活用できる。非正規の兵を傭兵として集め、鉄砲足軽ができあがる。設備投資に金はかかるが人件費は家臣に比べ格安ですむ。


■長篠の合戦
徳川家康を戦場に引っ張り出すために、武田勝頼は落城させないように長篠城を攻めます。家康軍が勝頼軍の猛攻を防げないと考えた信長は各隊から鉄砲を集めて援護射撃をする体制を整えます。設楽ヶ原で家康軍と勝頼軍がぶつかりますが、援護射撃もあり、家康軍はなんとかしのぎます。信長軍にも家康の援護にまわらないように勝頼軍は攻撃して釘付けしますが信長は陣地から出ない形で鉄砲を打ちかけます。武田軍が攻めつかれたところを狙って信長は温存していた兵力をぶつけ武田軍を崩します。

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2022/12/24

天下人の日本史

 【書 名】天下人の日本史
 【著 者】本郷和人
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2022/12/23
 【ISBN 】978-4-299-03666-7
 【価 格】990円


■職の体系
本家(上位の保護者)、領家(本家を頼る上司)、下司(在地領主)
本家職、領家職、下司職で荘園が生まれたが都にいる本家や領家は役にたたない。自分たちで守るしかないと武士が誕生します。


太閤検地-職の体系で土地が重層的に複数の人物に関わっているのを一本化ー土地の「所有」という考え方にない一職支配の完成に


■盆の窪
首の後ろのうなじの部分にある窪みのことで「大将たる者、人より優れた成績を出そうと思ったなら味方の盆の窪ばかりを見ていてはダメだ」(徳川家康)
大将は時として先頭にたって戦い、陣頭指揮しなければならない


■小早川秀秋
北政所の甥にあたる後継者候補ナンバー2でしたが秀頼が生まれたことで小早川家に養子に出され、朝鮮出兵の後に左遷され領地が半分に減らされます。秀吉が亡くなると家康が領地を回復してくれました。


■吾妻鏡
北条攻めで尽力した黒田官兵衛に北条家から吾妻鏡が送られたことで「北条本」と呼ばれていますが、家康が江戸入りしてから日本全国から吾妻鏡を集めたもので本来は「家康本」です。

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2022/11/30

新説 家康と三方原合戦

 【書 名】新説 家康と三方原合戦
 【著 者】平山優
 【発行所】NHK出版新書 
 【発行日】2022/11/10
 【ISBN 】978-4-14-088688-5
 【価 格】880円


■三州錯乱
三河を通じた関東との交通が困難となったため家康と今川氏真に対して足利義輝が停戦命令を出す。和睦の斡旋を武田信玄と北条氏康に命じます。ただ実現はせず、この時に信玄は家康を認識したようです。


■甲三同盟(甲斐と三河)
織田信長が仲介し徳川家康と武田信玄が今川氏直攻めに関する同盟。武田と今川との間に亀裂が生じた時に信長は上洛戦を始めますが、環境作りのために足利義昭は武田信玄による今川攻めを認めます。


武田信玄は家康は信長の部下のような存在と認識し、家康への不満を信長に何とかするよう要請しますが、家康は独立した存在で、できても勧告程度です。信玄は信長にも不信感を募らせることになります。


■三方原合戦
比叡山再興のために上洛するという噂が京で流布したようです。足利義昭と信長から頼まれて上杉謙信との和睦の話がすすんでいましたが合意直前でひっくり返されました。理由は朝倉義景の仲介だったらよいが信長ではダメという話です。


浜松城を攻めずに三方ヶ原に向かった信玄は祝田坂を下りると思っていたのが、方向を変えて堀江城の攻略にすすみます。浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えると物流がとめられるので浜松城での籠城ができなくなります。家康は止めざるを得ませんから攻撃をしかけますが散々にやられます。ただし敗北が決定した頃には夜になっていたため地の利がある徳川側が逃げられましたが、武田軍は取り逃がすことになります。


武田軍は吉田城と田原城を目指します。同時に武田海賊衆が三河湾に侵入して田原で放火しています。東三河をおさえることで徳川を東西に分断する戦略でした。家康は危ないところでしたが信玄の病気に助けられました。


■足利義昭挙兵
信玄上洛の動きに驚いたのが足利義昭。岐阜城にいた信長にも義昭の狼狽ぶりが伝わり、十七ケ条の意見書を送ります。義昭は武田方につくことにしますが、驚いたのが信長です。和睦に動きますが義昭は無視。信玄の父親である武田信虎が幕府に仕えていたので甲賀に派遣して軍勢を招集しています。

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2022/11/20

戦国の大敗 古戦場を歩く

 【書 名】戦国の大敗 古戦場を歩く
 【著 者】黒嶋敏
 【発行所】山川出版社 
 【発行日】2022/10/15
 【ISBN 】978-4-634-59129-5
 【価 格】1,980円


■桶狭間の戦い
鳴海城の南に黒末川の河口部で入海になっていました。ここを挟んで鳴海城と大高城がむかいあっているため信長は鷲津砦と丸根砦を置きました。家康による大高城への兵糧入れが5月19日朝になりましたが、ちょうど満潮で船が近づけました。尾張・荷ノ上の服部友貞が軍船1000で今川方に味方していましたので兵糧入れも手伝ったようです。


清州城下の須賀口に義元塚を築き、供養しましたが自身の武功と清州城下を守る存在として誇示する狙いもありました。


■三方ヶ原
和地、都田、祝田の三方が入会権を持つ原が由来。南北朝時代には南朝の宗良親王と北朝方の今川範国が三方ヶ原で戦いしました。周囲の村にとって宝の山になっていて、郷人が武田方について礫を台地にあがってきた徳川軍に投げたことにより、なし崩し的に開戦につながったようです。


■長篠城
周りを囲まれており高台に登ると城の中が丸見えという欠点がありました。武田軍の襲来に高台を選択できなかったので武田軍に砦などを築かれてしまいました。長篠の戦の後、秘されていましたが信玄の死が確実視されるようになったため戦死者の塚を作り信玄塚とし、アピールしました。

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2022/11/19

徳川家康の決断

 【書 名】徳川家康の決断
 【著 者】本多隆成
 【発行所】中公新書 
 【発行日】2022/10/25
 【ISBN 】978-4-12-102723-8
 【価 格】900円


■人質交換
桶狭間の合戦の後、上之郷城を攻めて鵜殿長照を討ち取り、2人の息子を生け捕って、築山殿と元康、亀姫との人質交換が永禄5年に行われます。長照の母親が今川義元の妹で今川氏直と従兄弟になるという説がありましたが否定されているようです。また家康の舅にあたる関口氏純が氏直によって切腹させられた言われていますが翌年の永禄6年の文章が見つかり、この年まで存命しています。


■三方ヶ原の戦い
武田信玄の遠江への侵攻を信長は察知しておらず、信玄の要請で上杉との和睦の調停を行っていており、後手にまわりました。


■本能寺の変
本能寺に向かったのは斎藤利三などの2000騎ほど。光秀は鳥羽で待機していたようです。


■小牧・長久手の戦い
家康との和睦交渉で家康が人質を出すことを渋ったため家康を成敗する軍を起こす準備をしていた時に天正大地震が発生し、家康は危機を脱します。


■東海道53次
最後に宿場の整備がされたのが寛永元年(1624)の庄野宿(鈴鹿)で元和5年(1619)に大坂に城代がおかれたことから大坂の高麗橋までのびて57次になります。


■囲碁と家康
慶長17(1612)年に碁打ち衆、将棋指し衆に扶持米が与えられプロが登場することになります。

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2022/11/15

徳川家康という人

 【書 名】徳川家康という人
 【著 者】本郷和人
 【発行所】河出新書 
 【発行日】2022/10/20
 【ISBN 】978-4-309-63158-5
 【価 格】850円


■桶狭間の戦い
鳴海城-知多半島のつけね
尾張ー守護は斯波氏ですが、分郡守護となっており知多郡と海東郡は一色氏が支配。鳴海城を手に入れると知多半島を尾張から切り離せるの今川義元の狙い


■鵜殿氏
築山殿と信康が今川方の人質となったことで、鵜殿長持(今川氏直のいとこ)を攻めて生け捕りにして人質交換します。鵜殿氏の後に家康の家来となり幕末、浪士組を江戸から京都まで引率した役人が鵜殿鳩翁で、ここから新選組が生まれます。


■駿府
家康が隠居地に選んだのは岡崎でも江戸でもなく駿府でした。青春を過ごした地でもあり文化も高い土地でした。


■銀行
東は金、西は銀が中心で西の方が優勢でした。渋沢栄一がBANKを訳すときに銀行となります。


■税金ー米
西では銭が使われていましたが東では無理でした。全国統一したいと考えていた家康は全国の税金を米を中心にします。秀吉が度量衡を統一していたのを受け継ぎました。

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2022/11/12

家康家臣の戦と日常

 【書 名】家康家臣の戦と日常
 【著 者】盛本昌弘
 【発行所】角川文庫
 【発行日】2022/10/25
 【ISBN 】978-4-04-400714-0
 【価 格】1160円


徳川家康の一族だった松平家忠が17年間にわたって残した日記です。東海道本線・三ケ根駅近くの深溝(ふこうず)城を本拠とした深溝松平家の当主。徳川家康の国替えで忍、上代、小見川に本拠が代わり、関ケ原の合戦の前哨戦となった伏見城の戦いで討ち死にします。連歌作りをよくしており京都へ行った時に里村招巴と対面しています。


■鵜殿氏
家忠の母は鵜殿氏で、もともとは熊野の鵜殿庄で南朝側でした。後に深溝の東である上之郷を本拠とします。


■弥介
武田勝頼を倒した信長は三河を通って帰陣することになります。家忠はそのための普請などを行っていますが信長の行列を見たようで信長が黒人の弥介を連れているのを目撃しています。


■佐々成正
立山連峰の「さらさらごえ」が有名ですが、実際は富山から笹津、猪谷、高原郷、安房峠、松本を経由して天竜川沿いを南下して浜松にいたったようです。


■小牧・長久手の戦い
11月13日に石川数正が秀吉のもとに走る大事件が発生。28日に織田有益、滝川勝利、土方勝久が岡崎にきて講和をすすめましたが、うまいきませんでした。ところが29日に大地震が発生。12月下旬まで余震が続きます。天正17年2月5日にも地震があり駿河東部の被害がありました。


■小田原城攻め
城内にいた和田、三浦の家中150人が持ち場に火をかけて退場。家康が調略していたようです。


■成田氏長
「のぼうの城」で有名な成田氏は忍城を明け渡した後は京都に住み連歌などに記録が残っています。忍を一時期、本拠としたため家忠とも交流がありました。


■板倉勝重
深溝松平家の所領の一つ小美村で生まれたのが板倉勝重。板倉家は深溝松平家の家臣でした。板倉勝重は出家していましたが家督を継いだ弟が戦死したため、家康の直臣となり京都所司代などを歴任します。

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2022/10/31

近江戦国の道

 【書 名】近江戦国の道
 【著 者】淡海文化を育てる会
 【発行所】サンライズ出版
 【発行日】2006/4/1
 【ISBN 】978-4-88325-286-2
 【価 格】1500円


■坂本城
江戸時代以来、坂本城の伝承はあったが昭和54年から宅地造成に伴う発掘調査で焼土層を含む建物遺構が出て確認されました。


■堅田
環濠に囲まれた自治都市でしたが信長と浅井・朝倉が対立したため、二派に分裂。堅田には信長の出城がありましたが囲まれたため湖上から援軍を入れましたが、城は落ちました。援軍の大将である坂井政尚以下、全滅しました。


■一向一揆との戦い
1571年、松永久秀が謀反を起こします。松永久秀が三好義継と組んで、近江の中山道を封鎖したため、開通すべく「緒川城・志村城・金森城攻め」を行います。佐和山城を落城させた後、志村城、小川城、金森城に攻め込みます。


佐和山城を守っていたのが浅井長政方の磯野員昌で、東の百々屋敷に丹羽長秀、北の山(磯山か物生山)に市橋長利、南の山(平田山か里根山)に水野信元、彦根山に川尻秀隆を封じていますが、佐和山城は琵琶湖の内海に接触しており北の山との間にも琵琶湖の水で遮断されていました。


■佐々木氏
蒲生ー佐々貴氏(佐々城山君の子孫)がいて沙沙貴神社を氏神として栄えていました。同じ蒲生の佐々木荘を拠点にしたのが佐々木経方。この2つの氏族が同化して近江源氏・佐々木氏が誕生。頼朝を支えたため近江守護となります。惣領となった佐々木泰綱が邸宅を六角東洞院にかまえたので佐々木六角氏といわれます。


六角氏の居城は観音寺城ですが、その前に家中を巻き込む観音寺騒動があり、六角氏の主従に亀裂が入っていたところへ信長の上洛となり、観音寺城は落城することになります。


■国友
大坂冬の陣では50人の国友衆が百姓姿に返送して徳川の陣所に入り、備前島に大砲を備えて城に昼夜、打ち込みました。国友は江戸に会所(駐在員事務所)をもち江戸における情報収集をしていました。

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