2024/02/17

室町は今日もハードボイルド

 【書 名】室町は今日もハードボイルド
 【著 者】清水克行
 【発行所】新潮文庫
 【発行日】2023/01/01
 【ISBN 】978-4-10-104831-4
 【価 格】710円

■鮟鱇(アンコウ)
川にいるアンコウのように口をあけてぽかんとしている人。愚かで鈍いという悪口。もともとはサンショウウオをアンコウと呼んでいたが後の世に深海魚がアンコウと呼ばれているようになる。

■淀川(京都~大阪)の関所
380ケ所で616という説もある。単純計算で100mごとに関所がある計算。どこかの関所にまとめて通行料を払えば系列の関所はフリーパスになっていたと思われます。

■金が森の戦い
延暦寺と戦い,史上最初の一向一揆。

■松平益親(ちかます)
大浦と菅浦の紛争で日野家が派遣したのが松平益親という代官。ところが大浦側は代官の暗殺をはかります。この松平が家康の先祖の一人になります。

■枡
田んぼ1枚1枚で年貢の枡が異なっており、売買が成立すると年貢枡も購入者に渡していました。枡には領主との契約の意味もあり、不信が極点に達すると百姓はまず枡を破壊します。
八升で一斗になる八升枡など、いろいろな枡がありました。

■ゆ年改元
昭和64年 1月8日に平成に 改元された年は前の年号を1年使ってから翌年を元二年にするのが「ゆ年改元」、明、清で使われており令和改元でも検討されました。

■朝鮮への使節団
管領畠山義勝などの名前で使節団が送られた記録が残っていますが、秀吉の時代に150年ぶりに朝鮮使節が日本にくると交易相手にしていた使節団が、なりすまし詐欺と判明します。

■厭離穢土欣求浄土
三河一向一揆の時に家康に味方した大樹寺の和尚「みんなで戦って死んで極楽浄土へ行こう」というキャッチフレーズとして書いたものだそうです

■切腹
江戸時代 恨みを残して切腹したものが切腹した刀を遺族が仇の家に届けると、届けられた側は問答無用で切腹する「指し腹」という復讐法がありました

■徳政令
モノには魂がやどっているという考えがあり、神社などの市場は聖なる場所なので売買できるという意識があったようです。質入れとは本来あるべき場所からひきはがす行為でもあり、徳政令は異常な場所に移ったものを元に戻す考えでもありました。

→ 室町は今日もハードボイルド

 

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2024/01/27

新知見の戦国史

 【書 名】新知見の戦国史
 【著 者】本郷和人
 【発行所】産経NF文庫
 【発行日】2024/01/22
 【ISBN 】978-4-7968-706-8
 【価 格】990円

産経新聞に連載されている「本郷和人の日本史ナナメ読み」をまとめた一冊です。

■加納城
長篠城を守ったのが奥平氏で奥平伸昌に家康の娘である亀姫が嫁ぎます。婿にはやさしい家康だったので奥平信昌を小幡藩(3万石 上野国)を与えたあと、京都所司代に任じます。慶長6年(1601)に岐阜10万石を与え、加納城を築きます。亀姫は「加納どの」と呼ばれることになります。御三階櫓は廃城となった岐阜城の天守を移築したと言われています。岐阜城天守を建設する時に御三階櫓の図面が参考にされました。

■本田忠勝
侍は首をとらずとも手柄せずとも、ことの難しきに至りて、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ、忠節を守るを指して侍と申すなり

■かんかんのう
落語「らくだ」に出てくる「かんかんのう」。看々踊が流行っており、元は清の九連環という俗謡で長崎を通じて入ってきたようです。

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2024/01/06

長篠合戦

 【書 名】長篠合戦
 【著 者】金子拓
 【発行所】中公新書
 【発行日】2023/12/25
 【ISBN 】978-4-12-102785-6
 【価 格】900円

信長が本願寺に味方する河内を攻めるために出陣したことにあわせ後方支援のために武田勝頼が三河に進軍します。岡崎奉行だった大岡弥四郎が武田勝頼に内通しており岡崎に向けて出陣しますが途中で謀反が発覚し、岡崎攻めを中止にします。方向転換した後、野田城、吉田城を攻めて、ついでに長篠城を攻めますが、思いのほか抵抗されます。家康からの要請に援軍に応じなければ同盟関係が瓦解するところまで追い込まれた信長はしぶしぶ出陣します。

ただ本願寺攻めのために兵力を温存したいため馬防柵を構築し陣城を築きます。また柵から出て戦うなという指令を出します。布陣をみた武田勝頼は勝てると判断しましたが、実際に攻めると湿地で進む道が限られていたため一軍ごとに波状攻撃をかけざるをえず城攻めの形となります。この時に柵から撃つ鉄砲が威力を発揮しました。

■本願寺攻め
天正3年(1575)に本願寺攻めをしますが、その前に千町鼻と呼ばれる淀川の堤を破壊し、田地を水没させました。若江城を拠点に本願寺側の萱振城などを攻撃し三好康長の高屋城を佐久間信盛、柴田勝家が攻めています。信長本体は住吉、天王寺から遠里小野に陣を移します。東にある新堀城(長居公園近くにあった模様)を攻撃して陥落させます。

■奥平家
長篠城を守り抜き開運となりました。225年たった1799年などに長篠開運として祝宴が行われています。

■本田重次
長篠合戦の時に47歳で陣中から妻に送ったのが「一筆申す、火の用心、お仙?さすな、馬肥やせ、かしく」を送ったと言われています。

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2023/12/28

戦国史の中の戦国大名

 【書 名】戦国史の中の戦国大名
 【著 者】鹿毛敏夫
 【発行所】講談社現代新書
 【発行日】2023/10/20
 【ISBN 】978-4-06-533218-4
 【価 格】1100円

江戸幕府の当初、1604年~1635年(日本人の海外渡航の禁止)に分かっているだけで356隻の朱印船が海外には出航しています。家康時代は19ケ国に対して195通の朱印状、秀忠・家光時代は7ケ国に対して161通でした。戦国大名は王と名乗って勝手に外交をしていました。朝鮮出兵でも武器などは自前でそろえる必要があり海外から火薬原料の調達などが行われていました。

■BVNGO(豊後)
海外貿易で有名でヨーロッパでブランドになっていたのが豊後の大友義鎮。天正遣欧使節はヴァリニャーノが主導しながら有馬晴信、大村純忠が派遣したもので主体的に関わっていなかった大友義鎮が派遣した形にしたのはヴァリニャーノの演出でした。

■日明貿易
大内義隆が日本国王の名義で朝貢船を出し勘合貿易を行っていましたが、その後に大内義長と大友義鎮が出した遣明船団は手順にのっとていないと明によって却下されてしまいます。永楽帝が足利義満に「日本国王之印」を送っていましたが、これが大内家に移り、いつのまにか金印が失われ箱だけは残っていました。この金印を偽造した印影では明ではOKになりました。正式ルートがダメだったので密貿易に切替、中国側には倭寇ということになってしまいます。

■硫黄輸出
足利義政時代の遣明船は9船に1,200人が乗り込んでいました。刀剣類1万以外に硫黄39万斤が輸出されました。軽自動車238台分になります。各船は室町幕府から勘合という証票を買い取った天龍寺、伊勢法楽舎、大友氏、島津氏などが経営主体でした。

■坊津、山川、伊倉
1560年頃、薩摩にはキリスト教の司祭やポルトガル商人が出入りしており、阿久根の港が有名でした。ここにいたアフォンス・ヴァスというポルトガル商人が阿久根港で越冬しているところを海賊に襲われて亡くなり、とっぽどんの墓として地元に伝わっています。昭和になってファルカン砲(小型大砲)が見つかり、海賊襲来の際に船から落ちた可能性があります。
九州の港には唐人町も形成され、日本人と一緒に伊勢へ御蔭参りなどをしています。

■稙田玄佐
大友義鎮がインドのゴアに派遣したのが家臣の稙田玄佐でゴアに戻るザビエルに同行しました。帰りは中国に向かうザビエルにマラッカで別れ鹿児島経由で戻っています。翌年、またゴアに行って帰ってきておりゴアと2往復しています。

■アンジロウ
ザビエルを日本へ導いた日本人で勉強によってポルトガル語が堪能でした。キリスト教教理書の翻訳をイエズス会に頼まれ、デウスを「大日」、マリアを「観音」、パライソを「極楽」と訳すことになります。

■田中勝介
フィリピンの元総督がメキシコに向かっていたガレオン船が上総国に漂着。駿府城で家康と面会し三浦按針が船を作ってメキシコにわたることになります。この時に京都の商人だった田中勝介ら20名ほどの日本人が同船していました。帰国して家康に葡萄酒や羅紗を献上していますが太平洋を横断した最初の日本人になります。スペインとの通商が目的でした。

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2023/12/02

関ケ原合戦を復元する

 【書 名】関ケ原合戦を復元する
 【著 者】水野伍貴
 【発行所】星海社新書
 【発行日】2023/09/19
 【ISBN 】978-4-06-533267-2
 【価 格】1250円


■家康の出陣
岐阜城をわざか1日で落としてしまったため、あわてて家康は出発。三島で家康は馬印を熱田まで持っていって、到着を待てと指示。三島から熱田までは強行軍になった模様


■井伊直政
島津の敵中突破を阻止する時に井伊直政が狙撃されたという通説ですが、、松平忠吉と井伊直政は宇喜田秀家と戦って破った後に島津勢に向かったところで撃たれた模様で、井伊隊が崩れたことで敵中突破をはかったようです。また一番槍が石田三成、二番槍が島津豊久、三番槍が宇喜田秀家、その次が島津維新で島津豊久は別部隊として石田三成の近くに布陣していたようです。


■大谷吉継
史跡になっている陣跡から藤古川を超えて大関に出ます。不破の関跡が健在で防御に仕え、石田三成らと連携するためです。藤堂高虎と戦います。

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2023/11/11

江戸

 【書 名】江戸 平安時代から家康の建設へ 
 【著 者】齋藤慎一
 【発行所】中公新書
 【発行日】2021/12/25
 【ISBN 】978-4-12-102675-0
 【価 格】820円

■江戸氏
本貫は武蔵国豊島郡江戸郷であるが実際はどこにあったのかは不明。平川を渡る平河で鎌倉大道が通過していた陸上交通の要地という説もある。

■平河天神社
扇谷上杉家の川越城にあった三芳野神社から勧請し、太田道灌に江戸城内にあったが、家康の入府によって現在地に移転。天神社とは別に山王社もあったがこちらも移転。

■麹町
国府に至る道ーコウジミチが語源という説がある。

■江戸入府
江戸城の普請が家康に命じられていて秀吉が会津にむかうための御座所作りの一環だった模様。秀吉が関東、東北の仕置きをするなかで江戸に家康をいれることに決定したという流れが濃厚。秀忠が中心になった時に西の丸に新城を造り、こちらを隠居場所に想定していました。関ケ原の後に駿府城を隠居場所にしたため、江戸城を拡張して西の丸をとりこむ形となりました。

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2023/11/05

秀吉と海賊大名

 【書 名】秀吉と海賊大名
 【著 者】藤田達生
 【発行所】中公新書
 【発行日】2012/01/25
 【ISBN 】978-4-12-102146-5
 【価 格】760円


■河野氏
道後温泉のすぐ近くに湯築城があり、本拠においていたのが瀬戸内海の海賊大名だった河野氏。長宗我部、毛利、秀吉などに翻弄されて最後は滅びます。四国出身の大名で生き残ったのは来島氏(豊後森藩)だけでした。本貫は風早郡河野郷(松山市)で伊予を代表する名門武士。被官だったのが村上氏です。


■真鍋氏
本貫は備中にある小田郡真鍋島で備中守護である細川氏の被官でしたが細川氏の分郡がある和泉や伊予にも進出します。淡輪にも移住し円墳がある真鍋山として地名が残っています。淡輪付近に海関を設けていました。細川氏が没落すると三好氏に従い、織田信長が入京すると和泉国衆は織田に従うことになります。真鍋貞友は木津川の戦いにも参加し討死しています。


■湯川氏
信長に敗れた足利義昭は紀伊に移ります。幕府奉行衆だった湯川氏を頼ることになります。長篠の合戦で武田勝頼が破れ、信長と石山本願寺が和睦することもあり、次に毛利をたのむことになります。毛利輝元は副将軍という立場となり家格があがります。単なる戦国大名ではなく公儀の一翼として諸大名と交わることができるようになります。


■鞆の浦
豊後水道から伊予灘へ向かう海流と紀伊水道から播磨灘に向かう海流がぶつかる中心地。干満差を利用して船が集散するため情報が集まりました。足利義昭が鞆幕府を作った時、北畠具親(伊勢国司)、仁木義政(伊賀守護)、武田信景(若狭守護)、内藤如安(丹波守護代)、六角義治(近江守護)が亡命してきています。



■本能寺の変の遠因
織田政権で中国・四国政策の中心だったのが光秀で信長自身も毛利との和平を考えていたようです。光秀は長宗我部とも結んでいました。秀吉といつ裏切るか分からない宇喜田をはずして直接、毛利と交渉していました。毛利と戦うという主戦派の秀吉と宇喜多直家は織田政権では少し浮いた存在です。まずいと思った秀吉が目をつけたのが四国、三好康長と結んで長宗我部と戦い東瀬戸内地域を織田政権側にします。これで織田信長の政策が変わります。光秀は秀吉に破れた形になります。


■高松城の水攻め
信長は毛利との直接決戦を考えていましたが長宗我部の後詰をおそれて中止しました。長宗我部を攻める時に毛利の後詰が問題になります。そこで水攻めにして高松城に毛利軍を引き付けて長宗我部への援軍をできないようにした背景があります。


■国替え
信長、秀吉が考えたのが預治(よち)思想。鎌倉武士いらいの一所懸命ではなく天下人から領地、領民、城郭を預かる形になります。本領を守り抜くという中世武士の価値観こそ戦国動乱を長期化させ泥沼化させた原因だと考えていました。信長は海外から植民地化されないよう適材適所の統一国家をつくらなければと思っていたようです。本格化するのは江戸時代で隣の大名との戦争は起らなくなりました。

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2023/11/03

家康の誤算

 【書 名】家康の誤算
 【著 者】磯田道史
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2023/11/09
 【ISBN 】978-4-569-85541-7
 【価 格】900円


■瀬名
当代記によると家康が信長と同盟を結ぶ前に妻と娘は岡崎に帰りましたが、嫡男の信康は駿府にいた状態だったようです。上ノ郷城を甲賀忍者を使って攻め鵜殿長照の子供を確保し人質交換します。


■神君伊賀越え
家忠日記に襲ってきた雑兵200人余りを討たせたとあり、一説には数千人の護衛がいたのではという説もあります。


■寛永通宝
家光の時代に永楽通宝の流通を停止して寛永通宝を鋳造して流通させます。まずかったのは幕府から許可をえれば各藩でも鋳造できるようにしたことです。結局、贋金が作られることになります。天保通宝は原価50円ぐらいで5千円ぐらいの価値があったので儲かりました。


■大名行列は京都に寄れない
松平一族でも格式が高い津山藩松平家は京都へ寄れましたが、それ以外は京都所司代の許可がいりました


■蛤御門の変
御所への道の半分を開けて行儀よく長州軍は進軍し、後ろには戦見物がぞろぞろついていました。そこに襲い掛かったのが薩摩藩です。敗れた長州藩が逃げ込めないように会津藩が町屋に放火します。これで民心は会津藩から離れるようになりますが、長州藩が残した兵糧を薩摩藩がおさえ、焼け出されてた人に配給し評判をあげます。


■孝明天皇
孝明天皇は将軍ありきで考えていたため公家のなかには反対派がたくさんいます。慶喜が将軍に就任した20日後に亡くなりますが真相はやぶの中です。


■慶喜の逃亡
西郷隆盛はパークスに戦いが長引けば局外対立が守れなくなると文章を書いてもらい慶喜に届けます。イギリス海軍が大阪湾を封鎖すれば退路がなくなります。大坂城を抜け出して江戸へ出ることになります。


■並
人材登用のため陸軍奉行並のようなポジションが考え出せれます。奉行ではないが同等の指揮権をもつという見立てになります。能力主義にするための苦肉の策でした。


■山岡鉄舟
胃がんとなり医者から「いかん」と言われると「お医者さん 胃癌胃癌と 申せども いかん中にも よいととこもあり」と言う和歌をよんでます


■帝の姓
隋書に「倭王、姓は阿毎(あめ)」と出ているので隋に対しては「天」と名乗ったようです。


■輪王寺宮
日光山輪王寺に親王を迎えています。戊辰戦争の時に輪王寺宮を東で即位するのではと西洋の新聞で噂されました。東に朝廷を作れるように考えていたようです。

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2023/10/21

九鬼嘉隆と九鬼水軍

 【書 名】九鬼嘉隆と九鬼水軍

 【著 者】豊田祥三
 【発行所】戎光祥出版
 【発行日】2023/09/10
 【ISBN 】978-4-86403-481-4
 【価 格】2500円

■勢州軍記
戦国時代の伊勢国について記した軍記。関氏の支流である神戸氏の後裔である神戸良政による著作と言われ寛永15(1638)年以前の成立。

■九鬼氏
嶋衆のなかで波切を本拠地にしていた久喜景隆という人物がいる。もともとは紀伊国牟婁郡九鬼浦から波切に移り住んだ模様。鳥羽を支配していたのが橘氏で九鬼守隆(次男)の正室に迎えることで鳥羽に進出します。

■加茂
九鬼泰隆(嘉隆の祖父)の時に鳥羽から加茂川を3kmほどさかのぼったところで田城(現在は九鬼岩倉神社)を築いて本拠地にする。嘉隆は嶋衆との戦いに敗れ安濃津に潜伏した後、尾張にわたり滝川一益を介して信長に仕えます。天正6年(1578)の第二次木津口川の戦いの後ぐらいに嶋衆を配下におさめ志摩を納めることになります。

■小牧長久手の戦い
九鬼嘉隆は滝川勝利が守る松ヶ島城を攻撃し、海上を封鎖して織田信雄方の脱出経路を封鎖。また三河国の和地や吉胡を襲撃しています。

■向島城の手伝い普請
九鬼嘉隆と守隆が担当していたようで慶長の大地震の頃になります。

■船津の戦い
関ケ原の戦いでは九鬼嘉隆と守隆は両軍に分かれて戦い、船津でも戦いがありました。江戸時代になりお家騒動となり、それぞれが綾部と三田に国替えになります。

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2023/09/19

もしも戦国時代に生きていたら

 【書 名】もしも戦国時代に生きていたら
 【著 者】小和田哲男・辻明人
 【発行所】ワニブックスplus新書
 【発行日】2023/09/10
 【ISBN 】978-4-8470-6688-7
 【価 格】990円


天正十年(1582)といえば6月2日に本能寺の変が起きた年です。その年の1月から6月までに何かが起きていたのかを記載しています。信長周辺だけでなく武田の村などについても記載されています。


■1月1日 安土城
信長自らが見物人から見学料100文をとったいうことで有名ですが、あまりにたくさんの見学客だったため総見寺へ登る途中の石垣が崩れ死者まで出る事故が発生していました。


■1月4日 岐阜城
織田信忠による酒宴で近習が能楽のまねごとをしているのを見て信忠だけは苦笑いしていました。能楽に熱中していたのを信長に怒られ道具を取り上げられていました。


■弥助
相撲で負けた弥助が負けた青地与右衛門の屋敷に通って相撲の技を習い始めます。めきめき実力をつけて勝てる相手はいなくなりました。


■鷹狩
天正5年に京の東山で鷹狩を行ったところ鷹が行方不明になります。翌日、大和の越智玄蕃が鷹をつかまえて信長に返したので現場に衣服と名馬を与えます。


■1月25日
伊勢神宮から式年遷宮を復活したいので千貫を寄進してほしいと言われたところ信長は3千貫を寄進するよう命じます。信長は「神仏を騙り私欲を満たさんとする者は許せぬが、神仏を軽んじて民百姓のうらみを買うのもつまらぬ」と述べます。


■2月14日(1582年3月8日)
浅間山が48年ぶりに大噴火。武田家では不吉の予兆と思われ飯田城では動揺した武田方の城兵が逃げ出しています。また3月8日は赤光(オーロラ)が安土城や京都で目撃されます。あた5月14日には彗星があらわれ数日にわたって目撃されました。


■3月23日
武田勝頼を滅ぼし滝川一益に上野と信濃内の2郡をまかせます。関東管領の役割を期待したようで当時58歳。「年をとってから遠国につかわすのは心苦しいが、もうひと働き頼む」と声をかけています。


■5月26日
安土でもてなしを受けた徳川家康と穴山梅雪は京都に入り清水で能をみています。この後、堺へ向かいますが最初は信忠もついていく予定でした。信長が上洛するという話が入り京都に留まることになります。

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