2020/06/13

戦国武将の叡智

 【書 名】戦国武将の叡智
 【著 者】小和田哲男
 【発行所】中公新書
 【発行日】2020/05/25
 【ISBN 】978-4-12-102593-7
 【価 格】820円


■勝って兜の緒を締めよ
天文10年(1541)年の北条氏綱の遺言状「北条氏綱公御書置」に「勝て甲の緒をしめよという事、忘れ給うべからず」と出てきます。冒頭には「大将によらず、諸侍ども、義を専らに守るべし」とあり、「末世に後ろ指ささるる恥辱」は当時の武士にとっていやなものでした。


■柴田合戦記
秀吉は広報宣伝がうまく明智光秀に勝った時は「惟任退治記」を出し、北庄城で柴田勝家に勝った時に書いたのが「柴田合戦記」です。柴田勝家の最後も詳細に書かれていますが、これは柴田勝家が老女に状況を目撃してから敵に語るように命じたからです。また秀吉は縁がない諸将にも戦勝報告をしており、いわばダイレクト・メール作戦です。


■築城
地選(ちせん) 城地の選定
経始(けいし) 縄張
普請      堀、土塁などの土木工事
作事      建物、門、櫓なのの建設工事


■名称の条件
朝倉宗滴によれば名将とは一度大敗北を喫したものをいうとあります。武田信玄も七分勝ちが最高の勝ち方と言っておりました。


褒め上手だったのが加藤清正で重臣に飯田覚兵衛がいて、戦に出ていやだと思うところに清正が来て褒めるため、ずっと戦い続け、「一生、清正にだまされてきたようだ」と述懐しています。


■釈迦の間の異見会
黒田長政が武士であれば足軽でも月に3日、長政が部屋に詰めているので直接、意見を言いに来いと決めていました。お釈迦さんの絵が飾ってあったので釈迦の間の異見会と言われました。


■最上と伊達
国境に近い中山近辺で最上義光と伊達政宗が対立した時、伊達政宗の母で最上義光の妹だった義姫は中山へ行き、和議がなるまで動かないと実力行使に出ます。80日間も動かなかったため最上義光が根負けし和議となりました。


■首供養
戦とはいえ首を取られた側は祟ると考えられていました。そこで行われたが首供養。大将首は別ですがそれ以外は33ごとに供養するのが基本だったようです。僧侶が陣僧として従軍していたので読経してもらい、首供養が終わると集めて首塚が作られました。

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2020/06/07

キリシタン協会と本能寺の変

 【書 名】キリシタン協会と本能寺の変
 【著 者】浅見雅一
 【発行所】角川新書
 【発行日】2020/05/10
 【ISBN 】978-4-04-082338-6
 【価 格】900円


信長、光秀の両方に会っていたのが宣教師。報告書を日本人は読めませんので忖度する必要はありません。「信長の死について」書かれたフロイトの書簡から読み解いています。


■天正4年(1576) 安土城築城
信長はオルガンティーノに土地と資材までも与え教会作りを支援
天正9年に巡察師ヴァリニャーノがセミナリオ建設を指示し翌年に完成


■天正10年(1582年)
2月14日(西暦3月8日)夜10時に東の空が明るくなり安土城の上が赤くなる。朝まで続き豊後でも目撃された模様。信長は意に介さず武田攻めへ
5月14日(西暦4月22日)夜9時に彗星があらわれる 数日間続き 数日後の正午に安土に空から彗星のような物が落下
6月2日(西暦6月21日)本能寺の変 未明に発生し安土に伝わったのは正午頃


明智光秀は高山右近やオルガンティーノが自分に味方しないことは分かっていたようですがキリスト教とは近い関係がありオルガンティーノは坂本城で光秀の息子(十五郎)とも会って便宜をはかってもらっています。


6月12日(西暦7月1日)山崎の戦い 中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇した模様で中国大返しをしてきた秀吉軍は疲れていて到着できなかった模様。敗走した光秀軍は長く京都の教会では全部、通過するのに2時間かかったと記録されています。


■本能寺の変
光秀の妹で信長の側室だった御ツマキが天正9年8月に亡くなったこと、明智十五郎(嫡子)に対するなんらかの処分を避けるためではないかという説に言及しています。

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2020/05/11

関ケ原の決算書

 【書 名】関ケ原の決算書
 【著 者】山本博文
 【発行所】新潮新書
 【発行日】2020/04/20
 【ISBN 】978-4-10-610859-4
 【価 格】800円

■兵糧支給
戦争するには当たり前ですがお金がかかります。戦国時代は動員された武士が負担しましたが天下人となった豊臣秀吉の軍隊では支給式になっていました。小牧・長久手の戦いで尾張の楽田に出陣した者に10日分の兵糧を支給する古文書が残っています。最初の5日分は自弁で6日以降は支給でした。秀吉は兵糧の支給を重視しており賤ヶ岳の戦いで大垣から戻る時、村々に飛脚を送り「家一軒につき米一升を炊いて木之本へ持ってこい。恩賞は忘れずに渡す」と指示。兵糧米を運ぶ小荷駄隊では間に合わないので、こんな方法をとったんでしょう。秀吉は武将だけでなく陣夫にまで兵糧を支給していました。支給が前提となるので戦での動員数が正確になりました。

輸送費もかかります。長浜から関ケ原まで運んだ時は米の4.5%が輸送費でした。

小田原攻めでは50万石の兵糧米を確保しており、1年間は戦える体制をとりました。

■永楽通宝
天正13年(1585年) 銭1文 96円
天正18年(1590年) 銭1文 200円

信長が堺に要求した矢銭は2万貫なんで40億円ほどになります。

■関ケ原の戦い
会津攻めを中止して尾張へ向かいますが兵糧が問題となります。山内一豊が居城を提供すると言明したので城に備蓄していた兵糧を活用することができました。

兵糧は1人当たり1日5合が基本
米1石を8万円とすると5合は400円、1000人を1日動かすと40万円、10日で400万円
関ケ原の合戦のように10万人になると1日に4000万円かかります。

東軍 55,800人 関ケ原まで90日間 20億880万円
   秀忠軍で9億8,800万円
西軍も同様で30億円ほどかかっていました。

家康は論功行賞で大名の支配地を動かすことで豊臣家がもっていた蔵入地(直轄地)を没収。また金銀銅山を奪ったことから経済基盤はボロボロになってしまいます。

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2020/03/20

明智光秀10の謎

 【書 名】明智光秀10の謎
 【著 者】本郷和人、細川珠生
 【発行所】宝島社新書
 【発行日】2020/3/18
 【ISBN 】978-4-299-00301-0
 【価 格】800円


■朝倉義景に足利義昭を引き合わせたのは光秀ではない
細川家の記録によれば光秀は細川に仕えていたと記録されています。後世に誇張された書き方になっていますが、大体はあっていそうです。足利義昭の一派は後に義昭から離れる時に細川藤孝の家臣になっており、光秀の家臣にはいませんから、足利義昭との付き合いはそれほどでもなかったようです。


■帰蝶は光秀のイトコ?
史料がないので何とも分かりませんが、イトコであれば信長に近づいて取り入るチャンスが増えますから辻褄がうまくあいます。


■細川藤孝
足利義昭から信長に乗り換える時に細川の名前を捨てて長岡を名乗っています。元の細川に戻るのは関ケ原の合戦後で何らかの葛藤があったようです。

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2020/03/07

戦国名将の本質

 【書 名】戦国名将の本質
 【著 者】小和田哲男
 【発行所】朝日新聞出版
 【発行日】2019/11/15
 【ISBN 】978-4-620-32610-8
 【価 格】1500円


■明智秀満、蒲生賢秀
本能寺の変のあと、安土城にいた蒲生賢秀は明智軍を攻めてくると考えて信長の妻子を避難させますが城中の金銀財宝はそのままにして称賛されます。また安土城の守りについていた明智秀満は山崎の合戦による敗北を聞き、有名な湖水渡りで坂本城に入ります自刃しますが、その前に敵方の堀秀政に坂本城に会った重宝を渡しています。


■長篠の戦
設楽原古戦場で見つかった鉛玉には中国やタイの鉛が使われていました。信長は堺で硝石をおさえていましたが鉛もおさえ武田方の鉄砲の威力を抑え込んでいたようです。


■筑前守(秀吉)
天正3(1575)年に光秀が日向守、秀吉は筑前守の任官されます。天正6(1578)年に筑前守を返上して藤吉郎に戻しています。信長を裏切った荒木村重を説得にいった黒田官兵衛が捕らえられた時期で、信長は黒田官兵衛も裏切ったと考えていたので、秀吉は自ら降格を申し出て怒りを鎮めようとしたようです。ほとぼりがさめた頃に筑前守に戻しています。


■中国大返し
黒田官兵衛が小早川隆景から毛利の旗を20本借りています。尼崎まで戻った時に秀吉軍の先頭に旗をたてることで、毛利も秀吉に味方したと思わせ、池田恒興や高山右近らが秀吉陣営に加わります。


■武田信玄の水軍
海がなかった甲斐から駿河を手に入れたことで海に出ることができます。そこで水軍を整備しますが今川の旧臣である岡部忠兵衛を中心に武田水軍を整備し、志摩国小浜を拠点とし北畠の水軍だった志摩水軍の小浜景隆も取り込んで水軍大将にします。武田勝頼の時、駿河湾海戦で北条水軍と互角の戦いをします。


■北条早雲の出自
伊勢の素浪人説はすっかりなくなり備中国荏原荘(井原市)の高越山城主の子として生まれ、名門伊勢氏の一族です。

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2020/02/22

日本中世への招待

 【書 名】日本中世への招待
 【著 者】呉座勇一
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2020/02/28
 【ISBN 】978-4-02-295057-4
 【価 格】850円

■義経の結婚
義経が後白河法皇から勝手に検非違使の任官を受けたため頼朝と反目したと思っていましたが、だが任官の1ケ月後に義経は河越重頼の娘と結婚して鎌倉から京都へ向かっており結婚の世話をしたのが頼朝でした。新婦の母方の祖母は比企尼で頼朝の乳母でした。この頃はなんとか義経を取り込もうと考えていたようです。

■譲状
財産相続で争わないように書かれるのが譲状で、これを見るとほとんど平仮名です。自筆なのは偽造防止のためで鎌倉幕府の法廷では筆跡鑑定もやっていました。

■興禅の方便
中国に留学した禅僧が最新の宋学を持ち込んだため禅僧に学ぶしかありません。禅宗では宋学を足掛かりに禅宗を広めようと考えました。これが興禅の方便です。禅宗は生活のすべてが禅の修行という考えがあり学問担当の西班衆(せいばんしゅう)と実務担当の東班衆(とうばんしゅう)には基本的に差はありませんでした。東班衆も講義に出ていたため禅宗では実学を教えることになります。

■老人は60歳から
大宝令 3歳以下-黄、4~16歳-小、17~20歳-中、21~60歳-丁、61~65歳-老、66歳以上-耆(き)

■外科
中世、内科医のことを本道医と呼んでいました。外科はできることが限られていたため本道ではない意味で外科と言われました。

■アルコールハラスメントは中世から
フロイスが日本人は酒を非常にしつこくすすめ合い、酔っぱらうことが恥辱ではないと書いており、当時からアルハラがありました。

■伊勢の御師
御師と檀家との師檀関係は代々続き、檀家から御師を変更できませんでした。檀家の権利を他の御師に得ることができ、これが檀那売券(伊勢御師の場合は道者売券)

■島津家久の旅行
島津氏が薩摩、大隅、日向を統一できた御礼に伊勢神宮や愛宕山へお礼に向かいます。船の中では乗り合わせた庶民と酒を飲んだりするフランクな旅行でした。京都では石山本願寺からの戦いから帰ってきた織田信長の行列を見学しています。永楽通宝の旗印の中、信長自身は馬の上で寝ていたようです。明智光秀に招かれ坂本城も見学しています。

■高師直
バサラ武将のイメージがありますが、建武の新政では雑訴決断所の職員をしており、尊氏の時代になっても、この時の経験をいかして模倣していました。高一族は基本的に行政官僚で武人の方が珍しく、一説では楠木正成に兵法を学んだという説もあります。

■明智光秀の地位
連署状には丹羽長秀、木下秀吉、中川重政、明智光秀の順に記載され、織田政権に入った当時は地位はそれほどでもなかったようです。

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2019/08/30

中世奇人列伝

 【書 名】中世奇人列伝
 【著 者】今谷明
 【発行所】草思社文庫
 【発行日】2019/08/08
 【ISBN 】978-4-7942-2411-8
 【価 格】980円

承久の乱の黒幕で壮絶な最期を遂げた法印尊長、中国に渡り刑死になる寸前に歌で助かった雪村友梅、二度、将軍になった足利義稙(義材)、政治に深入りした歌人・京極為兼、中世で救民を実践した願阿弥、幕府にわたりあって混乱をおさめた広義門院のあまり知られていない6名にフォーカスした一冊です。

■葉室光親(はむろみつちか)
討幕を訴える後鳥羽上皇に対して無謀だと反対していましたが、決心が変わらないことから討幕の院宣を書きました。承久の乱が終了してから院宣を書いた咎を責められましたが一言も弁明せずに斬られました。のちに上皇を諫めていた諫状数十通が見つかり冤罪であることが判明します。北条泰時は処刑してしまったことを悔やんだ話が吾妻鏡に出てきます。

■広義門院(西園寺寧子)
光巌天皇、光明天皇の母親ですが討幕、建武の新政、南北朝時代に巻き込まれていきます。南北朝時代、南朝は北朝の上皇、天皇などを吉野へ拉致する事件を起こし、朝廷では何も決められない空位時代となります。ここで幕府に担ぎ出されたのが広義門院。61歳になっていましたが、頼むのは広義門院しかいませんでした。ただ広義門院は子供や孫まで吉野に連れ去られたことに怒り心頭。「皇位など幕府で勝手にしろ」と取り付く島がありません。バサラ大名の佐々木道誉などがひたすら請願したこともあって、広義門院はついに折れます。ここで行われたのが、昔にタイムスリップ(前年十月以前)させるという超法規処置。南朝の北畠親房は北朝の上皇、天皇などを手に入れたら北朝は何もできないと思っていたところに奇手が打たれました。

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2019/03/15

戦国大名と国衆

 【書 名】戦国大名と国衆
 【著 者】平山優
 【発行所】角川選書
 【発行日】2018/12/21
 【ISBN 】978-4-04-703670-3
 【価 格】1700円

大河ドラマ「真田丸」の最初の方では佐久・小県郡での国衆通しの争いが描かれ真田氏と対立する室賀氏などが描かれていますが武田氏の領国を舞台にした国衆にスポットをあてた一冊です。領国のなかには小領主と呼ばれる国衆がいて、いかに自軍に取り込むかが重要でした。国衆にとってもどの陣営につくかで家が栄える没落する滅亡するに分かれてしまうため大変な判断をしないといけない世界でした。

放状-被官が主人を離れるには主人に暇乞いをして、放状を発行してもらうのが基本でした。今でいう離職状みたいなものですね。当時も勝手に辞めることは行われていました。この被官の逃亡では裁判になる時もあったようです。

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2019/02/24

覇王 信長の海 琵琶湖

 【書 名】覇王 信長の海 琵琶湖
 【著 者】中井均、太田浩司、松下浩、東幸代
 【発行所】洋泉社歴史新書
 【発行日】2019/01/25
 【ISBN 】978-4-8003-1553-3
 【価 格】950円

敦賀と塩津の間を運河で結ぶ計画は平清盛の時代からあるそうで、昭和になっても2回計画されて断念しました。運河ができると日本海と太平洋が水路で結ばれることになります。北陸方面からの物資は塩津、海津、今津から坂本、大津へと運ばれ尾張や美濃からの荷物は米原にある朝妻湊が使われました。

安土城の築城では常楽寺湊が近くに会ったことが要因の一つでした。津田宗及が坂本城での茶会の後に安土に向かいますが、この常楽寺湊を使ったようです。安土は東山道からは少し離れていたので下街道(朝鮮人街道)を整備し、安土にくる商人は下街道を使うように定めました。

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2019/02/23

戦国武将に学ぶ究極のマネジメント

 【書 名】戦国武将に学ぶ究極のマネジメント
 【著 者】二木謙一
 【発行所】中公新書ラクレ
 【発行日】2019/02/10
 【ISBN 】978-4-12-150645-0
 【価 格】880円

滅んだ戦国武将というとボンクラのイメージですが、そんなことはなく家臣のため領民のためにいろいろと苦労して国をマネジメントしていました。論語などをしっかり読んで指針にしていました。「合戦というものは、ただ戦って勝ち、戦って負けるものではない。戦う前に勝敗の道理を知るのが良将というものである」という家康の言葉が残っています。

関ケ原の合戦で有名な吉川広家に親父の吉川元春が送った手紙が残っています。手紙によれば月代(さかやき)をしっかり剃って侍らしい恰好をしよという内容です。若い広家は当世風にしていたのでしょうね。毛利と秀吉との講和条件として広家は大坂に人質として送られ大坂で教育を受けることになります。

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