2023/09/19

もしも戦国時代に生きていたら

 【書 名】もしも戦国時代に生きていたら
 【著 者】小和田哲男・辻明人
 【発行所】ワニブックスplus新書
 【発行日】2023/09/10
 【ISBN 】978-4-8470-6688-7
 【価 格】990円


天正十年(1582)といえば6月2日に本能寺の変が起きた年です。その年の1月から6月までに何かが起きていたのかを記載しています。信長周辺だけでなく武田の村などについても記載されています。


■1月1日 安土城
信長自らが見物人から見学料100文をとったいうことで有名ですが、あまりにたくさんの見学客だったため総見寺へ登る途中の石垣が崩れ死者まで出る事故が発生していました。


■1月4日 岐阜城
織田信忠による酒宴で近習が能楽のまねごとをしているのを見て信忠だけは苦笑いしていました。能楽に熱中していたのを信長に怒られ道具を取り上げられていました。


■弥助
相撲で負けた弥助が負けた青地与右衛門の屋敷に通って相撲の技を習い始めます。めきめき実力をつけて勝てる相手はいなくなりました。


■鷹狩
天正5年に京の東山で鷹狩を行ったところ鷹が行方不明になります。翌日、大和の越智玄蕃が鷹をつかまえて信長に返したので現場に衣服と名馬を与えます。


■1月25日
伊勢神宮から式年遷宮を復活したいので千貫を寄進してほしいと言われたところ信長は3千貫を寄進するよう命じます。信長は「神仏を騙り私欲を満たさんとする者は許せぬが、神仏を軽んじて民百姓のうらみを買うのもつまらぬ」と述べます。


■2月14日(1582年3月8日)
浅間山が48年ぶりに大噴火。武田家では不吉の予兆と思われ飯田城では動揺した武田方の城兵が逃げ出しています。また3月8日は赤光(オーロラ)が安土城や京都で目撃されます。あた5月14日には彗星があらわれ数日にわたって目撃されました。


■3月23日
武田勝頼を滅ぼし滝川一益に上野と信濃内の2郡をまかせます。関東管領の役割を期待したようで当時58歳。「年をとってから遠国につかわすのは心苦しいが、もうひと働き頼む」と声をかけています。


■5月26日
安土でもてなしを受けた徳川家康と穴山梅雪は京都に入り清水で能をみています。この後、堺へ向かいますが最初は信忠もついていく予定でした。信長が上洛するという話が入り京都に留まることになります。

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2023/09/09

柴田勝家

 【書 名】柴田勝家
 【著 者】和田裕弘
 【発行所】中公新書
 【発行日】2023/06/25
 【ISBN 】978-4-12-102758-0
 【価 格】860円


■賤ケ岳の戦い
秀吉にとって最大の敵は柴田勝家で、天下分け目の戦いと認識していました。勝家に不利だったのが与力の不破光治、佐々成政、前田利家で特に佐々成政、前田利家は尾張時代からの知り合いで信長の部下となり、強大な与力で掌握が難しかった点と対していた上杉景勝は御館の乱でも勝ち上がった武将と一向一揆に気が抜けない事情もありました。


■前田利家
利家が信長の同朋衆を殺して信長の勘気を被った時に助力してくれたのが勝家で恩義を感じていました。


■長光寺城
岐阜と京都の間を確保するために永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土には中川重政兄弟を在番させます。


■近江の一向一揆
信長は佐和山城、肥田城に泊まりながら志村城への攻撃を視察。攻撃したのは佐久間信盛、中川重政、丹羽長秀、柴田勝家軍。さらに南下して守山まで陣をすすめて金森を包囲し一揆勢は降伏。


■蘭奢待
信長が蘭奢待を切り取りする時に多聞山城につめていたのが柴田勝家で、十一遠長を伴って上洛し、信長と相談。勅許をえてから多聞山城に入り準備をします。


■本能寺の変
毛利氏と対していた秀吉が捕虜となり助けにいったものの秀吉が殺された。信長が退去したところ甥の織田信澄が謀反を起こして信長が切腹したなどの誤報が伝わっていたそうです。柴田勝家は本能寺の変の情報を宮崎城で得たようで北庄城までの約200kmを強行軍で戻ります。これは秀吉の中国大返しよりも速く。秀吉が戦っていた備中高松城から京都までの距離に比べて1.5倍ほどあったのが明暗を分けました。

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2023/09/02

足利将軍たちの戦国乱世

 【書 名】足利将軍たちの戦国乱世
 【著 者】山田康弘
 【発行所】中公新書
 【発行日】2023/08/25
 【ISBN 】978-4-12-102767-2
 【価 格】840円


■直轄軍
足利将軍には強大な直轄軍がなく、有事には守護たちが各国の武士を引率して駆けつけていた。幕府発足時は守護は任国に権力基盤をもっておらず、将軍の後ろ盾がないと任国の武士たちを統率できなかった背景がある。将軍にとっては巨大な官僚機構をもつ必要がなかった。ところが守護が世襲となり任国で自立できるようになっていく。


■9代将軍 足利義尚
従わなかった六角高頼を攻めるために近江まで進出。坂本に本陣を置き、近江八幡にあった金剛寺城を攻撃。六角は甲賀に落ち延びていく。坂本から鈎に進んで、ここを本拠にする。ところが、ここで病没してしまいます。


■10代将軍 足利義稙
足利義視の息子で美濃の暮らしが長かったが日野富子の後押しで将軍に就任。諸大名を参陣させ六角高頼を攻めたところまではよかったが、この後に畠山氏の氏族内争いに介入したことから厭戦気分が広がり明応の政変で京都に幽閉されることになります。新たに足利義澄が擁立されたが、足利義稙は嵐に脱出して北陸に逃れます。朝倉などが支援したため二人の将軍がいる状態に陥ります。大名を巻き込んでの戦争になりますが義澄が若くして死んでしまったため、足利義稙は船岡山の戦いで勝利し将軍に返り咲きます。10年以上にわたって安定しましたが細川澄元と細川高国の戦いで連携していた細川高国を見捨てたところ、高国が勝って阿波に逃れることになります。


■山科本願寺
細川晴元と三好元長との争いで晴元は山科本願寺に協力要請。門徒衆が挙兵し堺にいた三好元長は攻められて自刃してしまいます。ここから歯止めがきかなくなり暴徒化した一部の門徒衆が奈良へ進んで寺々を焼いて略奪を働きます。恐れた晴元は今度は本願寺討伐側にまわり、門徒衆が多く手を焼いていた六角定頼と連携し、京都の法華衆が加わって山科本願寺を攻めます。本願寺は武家同士の争いに介入すると危険かを悟り、信長に対する挙兵まで40年間、中立を保つようにします。


■足利義昭
信長がいない京都で足利義昭の仮御所だった本国寺を三好三人衆が攻めます。新たに堅牢な御所を作ることになり義輝の御所跡地に派手な演出(藤戸石の搬入など)をしながら行います。信長は畿内に権力基盤がないため信長には勢いがあると「見せる」ことにこだわります。

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2023/08/30

天下人の攻城戦

 【書 名】天下人の攻城戦
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2023/08/30
 【ISBN 】978-4-02-295226-4
 【価 格】950円


■小谷城
最初は大嶽城のあたりが小谷城で丁野側に大手があった模様


■金ヶ崎城
秀吉が殿をしていたのは信長の本陣があった敦賀の妙顕寺付近だった模様


■信貴山城
大和国の勢野から南畑を経由して河内国教興寺まで信貴路が通っていた。南畑には南畑ミネンド城があった模様。
築城したのは畠山政国の家臣である木沢長沢で天文5年(1536)頃。長政は太平寺の戦いで討ち死に。次に松永久秀が信貴山城を拠点にします。永禄4年に多聞山城へ移る時に筒井氏と三好氏が信貴山城の争奪をし筒井氏が入城。また松永久秀が奪い返します。


■有岡城攻め
高槻城ー大津長昌、茨木城-福富秀勝、原田城-中川清秀、椋橋ー池田恒興、食満-織田信雄、滝川一益、塚口-織田信孝、丹羽長秀、髙山右近
賀茂-織田信忠が指揮

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2023/08/26

戦国秘史秘伝

 【書 名】戦国秘史秘伝
 【著 者】藤田達生
 【発行所】小学館新書
 【発行日】2023/08/06
 【ISBN 】978-4-09-825458-3
 【価 格】1000円


■桶狭間の戦い
鳴海城ー根小屋城とも呼ばれ室町時代の応永年間に築城された模様
善照寺砦が詰城で一体となって普請されたが、桶狭間の戦いの頃には織田方の付城になっていた
大高城-大規模な堀があり今川義元の本陣として整備された可能性がある


■平城京
5万人~10万人程度の人口


■安土城
長安には3つの門があり、大手門に3門を配置


■五畿七道図表
畿内近国を制圧した時に天正13年に作成、その後、支配地域の郡絵図を出すように指示し、天正19年に秀吉が後陽成天皇に御前帳と郡絵図を献呈。古代以来の国土領有権をふたたび天皇が掌握したことを意味する。国土領有権を理念的に天皇がもち実質的に秀吉が握り、荘園制度を基盤とする中世国家を解体する。


■やぐら
鎌倉時代中期から室町時代前半に造られた横穴式の供養堂。鎌倉だけでなく房総半島にも500基以上あり、鎌倉の寺社領と重なっていて安房と鎌倉が海運でつながっている根拠になっている。


■遣欧使節
慶長16年に慶長大地震が発生し仙台も大きな被害を受ける。復興資金獲得のために慶長18年に遣欧使節を派遣し、幕府と協力しながら石巻から東周り航路を開拓して貿易で儲けることを政宗は考えていたようです。


■津軽氏
南部氏からの独立など石田三成への恩義があり、三成の子供たちを藩士として取り立て重臣にしていました。三成の娘が藩主の正室になっていて弘前藩には三成の血統が続くことになります。

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2023/08/19

徳川時代の古都

 【書 名】徳川時代の古都
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】潮新書
 【発行日】2023/08/20
 【ISBN 】978-4-267-02400-9
 【価 格】900円


■江戸時代の奈良
205町で約35,000人 京都や大坂の1/10
露座の大仏を修復し元禄4年(1691)に大仏開眼供養を開催
大仏殿を作ることになり宝永5年(1708)に完成
ものすごい観光客が押し寄せることになります


■鎌倉
徳川光圀が鎌倉、江ノ島、金沢を訪れ「鎌倉日記」のまとめる
江戸時代になり吾妻鏡や太平記に書かれた名所旧跡を巡ることがブームになる


■家康の江戸転封
国替えは天正18年(1590)5月27日に内示
それ以前に風評が陣中に流れており流したのは秀吉
水面下で家康に打診して外堀を埋めるために情報をリークした模様


理由の一つとして北条と不戦のまま臣従させられず開戦したことがあり親戚関係だった家康への期待が裏切られたこともあったようで、戦争で荒廃した北条氏の旧領をしっかり統治することで責任を取らせる目的があった模様。


■仙台
塩竈神社ー陸奥国一の宮で伊達家の藩主は大神主をつとめるのが習わし。東北の人心を掌握するためであった。


■静岡
明治までは府中で、駿府城の北にある賤機山から静岡となる。


■問丸
水上運送を仲介した業者。荷物の保管、委託販売、旅宿の提供を業務とする商人。


■山口城
4つの街道が交差する交通の要衝が山口。お茶屋と呼ばれる藩主用の宿泊施設があり、これが幕末に山口政事堂となり山口城が築城されます。

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2023/08/05

戦国大変

 【書 名】戦国大変
 【著 者】乃至政彦
 【発行所】日本ビジネスプレス
 【発行日】2023/06/30
 【ISBN 】978-4-8470-7319-9
 【価 格】1700円


■大内義隆
誇張がちなフロイスの影響もあって低評価な大内義隆ですが、大友家などの紛争が終わった後、筑前一国の関所廃止を織田信長の30年も前に実施していました。宣教師の布教もいち早く認めていました。


■徳川家康
桶狭間の合戦では大高城へ兵糧入れをしましたが赤武者の派手な格好をしていました。


■兵糧調達
基本的に現地調達していたようで、強奪したのではなく金銭を支払っての調達だったようです。現地調達できないところは配給制にしていたようで一人一日に米7.5合が相場でした。


■信長の勝機
武田信玄が三方ヶ原で家康を破り、西に向かった時、上杉謙信は信長が比叡山を再興すれば信玄は大義名分を失い手詰まりになるとよんでいました。京都の離宮八幡宮が信長に禁制を求めた時に武田軍の動きを探るように依頼した可能性があります。離宮八幡宮は朝倉家とも縁が深く、信玄上洛を待ち望むと伝えたので武田軍もむげにはせず迎え入れましたが、信玄の病状悪化によって、上洛中断を伝えて使者を返したようです。信長はさっそく謙信に武田が撤退していると伝えます。ただ使者も病状まで信長に伝えなかったようで離宮八幡宮のある大山崎は信長から特権を与えられることはありませんでした。


■小旗(こはた)
明に小旗(しょうき)という軍官がいて10人の集団で引率の仕事をしていました。これが転じて大きな旗を背負う徒士に小旗の名前が普及したようです。映画などで雑兵が家紋の旗を背負って戦っていますが、あれはフィクションだそうです。


■上杉謙信と近衛前久
戦国を終焉させるよ世づくりを考えていましたが喧嘩別れ。上杉景勝の時代になった時に20年ぶりに近衛前久から連絡があり、先の筋目(戦国終焉)のやり直しで説得し、豊臣秀吉へ上杉義景勝が参画することになります。


■関ケ原の戦い
三成は家康との関係は問題なく、佐和山城に隠居した時に息子を家康に人質として出しましたが、家康も息子を佐和山城へ送っています。関ヶ原の戦いで三成がいたのは自害峰のようです。野心家の毛利輝元と大谷吉継がむずびつき佐和山城へ説得して三成を引き込んだという説もあります。輝元が天下をとると自分の居場所がなく、公私の区別をする人物がいなくなるのを配慮した可能性があります。

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2023/07/22

信長の正体

 【書 名】信長の正体
 【著 者】本郷和人
 【発行所】文春文庫
 【発行日】2023/07/10
 【ISBN 】978-4-16-792072-2
 【価 格】720円


■比叡山の焼き討ち
僧俗4000人を殺したと言われていますが東京大学の教授・助教授全員に近い数で、今でいえば東大キャンパスを焼き討ちしたようなもの


■兵農分離
農村の一番上にに位置する半分侍、半分農民の層に迫ったもので、侍となれば城下町に住み、農民を選べば名主になります。


■荘園
上司-一番上にいる有力者が本家、在地領主が助けを求める有力者が領家
下司-在地領主
土地の所有が決まっておらず、本家、領家、下司がつながることで土地の所有が実現している


信長の一職支配ー本家職や領家職などの様々な利権がなく、現在に近い土地所有になっていきます。また税を一律に徴収することを目指します。民衆は税の重さよりも税の負担が不公平なことを怒っていました。


■室町幕府
近畿、中部、中国、四国が支配下となり、この地域の守護大名は京都に住んでいました。都もこの範疇で鄙は九州、関東、東北になります。応仁の乱は都の守護大名たちの争いで、この後に守護大名は任国へ帰っていくことになりますが、戦国大名にまでは成長できませんでした。


■麒麟
信長の花押で使い始めたのは足利義輝が三好に殺された後で室町幕府が崩壊した時点である。

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2023/06/21

謙信×信長

 【書 名】謙信×信長
 【著 者】乃至政彦
 【発行所】ビジネス社
 【発行日】2023/05/29
 【ISBN 】978-4-569-85471-7
 【価 格】1350円


■武田信玄
德川と武田は、自分だけで今川や北条と講和しないと取り決めしたいましたが、家康は掛川城に逃げこんだ今川氏直と和睦し、あわせて北条氏と和睦をしてしまいました。これが三方ヶ原の戦いの遠因になります。
足利義昭は信長と二人三脚で進んでおり、三河に布陣していた信玄に信長・家康と講和するように呼び掛けた時に反対に説得されて、信長と対立することになります。
自身が亡くなる時に後継者を勝頼にしますが陣代にし、風林火山の旗の使用を禁じますが、信長・家康の敵意を信玄だけにして勝頼には講和するように考えていたようです。


■上杉謙信
小田原城を攻撃している時に今川氏直が援軍を送ってきました。ここで謙信は小田原城の包囲をとき鶴岡八幡宮で関東管領職に就任するイベントを行います。余力がない今川氏直が東に派兵したため、家康は信長と同盟を結ぶことになります。
車懸りの陣-旗隊が左右に分かれると鉄砲隊の砲撃が始まり、次に弓隊が弓を放ち、槍隊がすすみ、混乱したところへ騎馬武者が奥深くへ乗り入れる戦法。村上義清が編み出し信玄を苦しめました。信長時代は各部隊がいろいろな戦法で戦っていて、まだ試作の状況でした。村上義清の先鋒がひろまり、豊臣軍の朝鮮出兵で威力を発揮します。大名行列の形で残りました。


■織田信長
那古野-尾張今川の支配する土地だが衰微していたので駿河守護・今川義元の末弟である今川氏豊が派遣されていました。ここを陥れたのが織田信秀。氏豊は京都へ逃げます。
桶狭間の合戦の前年(1559)に信長と斯波義銀は三河の吉良義昭と停戦協定を結びます。今川と吉良による三河平定に危機感をいだいた信長は砦を築いて対抗します。そこで尾張侵攻を計画しますが吉良氏から斯波義銀へ事前に知らされたようで義元に味方することを決め、今川軍を領内にいれようとしますが発覚し、信長は義銀を追放します。信長記を書いた太田牛一は斯波義銀に仕えていましたが、ついていけなくなり信長に密告したようです。
足利義昭-挙兵した時に信長側は交渉しようとしましたが蹴ったのが義昭側で将軍追放となりました。ただ京都へ戻るように画策していたようで毛利のもとに秀吉を派遣しますが、義昭が信長に人質を出すように要請していることから秀吉は独断で交渉を打ち切ってしまいました。
長篠合戦-勝頼は精鋭部隊を編成して正面で戦ったいる高松山の後方にまわらせて挟撃を考えていましたが信長本陣や松平信康本陣はさらに奥の山にあり、ここで鉄砲による攻撃で武田軍は壊滅状態になります。精鋭部隊が崩れたことが大敗の原因だったようです。


■手取川の戦い
秀吉が柴田勝家と喧嘩して勝手に帰ったと認識されていますが、どうも戦場に最後まで残って上杉軍と戦っていたのは秀吉軍だったようです。上杉軍が迫っているのが分かり前田利家、惟任長秀の部隊が崩れ始め、増水していた手取川で溺死者が続出します。上杉軍が迫った時に残っていた秀吉軍が戦いました。敗因は前田利家、惟任長秀による総崩れでしたが信長記には抜けています。太田牛一が惟任長秀の右筆で信長と長秀が亡くなってからは前田領に住んでいたので忖度したようです。

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超新説で読みとく信長・秀吉・家康の真実

 【書 名】超新説で読みとく信長・秀吉・家康の真実
 【著 者】跡部蛮
 【発行所】ビジネス社
 【発行日】2023/06/01
 【ISBN 】978-4-8284-2524-5
 【価 格】1650円


■桶狭間の合戦
桶狭間から大高城へ向かうには大高道を進まないといけませんが当時は悪路だったようで、こんなところで待ち伏せされたら危険と考え桶狭間で野営します。本陣の前に部隊を配置し、大高道に敵はいないか探らせましたが、この慎重さが仇になりました。織田側は情報操作もしていたようで、佐々、千秋の前衛部隊に信長が依頼して突撃させますが、我こそは信長なりと口上していたようで、信長を討ち取ったと祝宴することになります。


■豊臣秀次事件
天脈拝診怠業事件-文禄4年に秀次が後陽成天皇の侍医である曲直瀬道三に天皇より自身の診察を優先させたことで秀吉が激怒します。このことが経緯なのか秀次は高野山に出奔。しかも切腹までしてしまいます。豊臣政権にとっては想定外の重大事件で、天下の大罪人へと改ざんしていくことになります。


■朝鮮出兵
文禄の役の後、明からの使節が到着して、明に朝貢貿易をして銀を輸出するところまでは秀吉も考えていましたが、朝鮮半島南部の実効支配は手放すつもりはなく、ここで決裂し、慶長の役になります。
明は日本にスパイを送り敵情視察をしていますが日本の人口の30%は浙江、福建、広東の中国人でした。倭寇によって連れられてきていたようです。


■長篠の戦
酒井忠次による鳶ケ巣山砦への奇襲が功をそうしたと伝えられていますが、奇襲攻撃より3時間も前から武田軍の攻撃がはじまっていました。武田軍は奇襲攻撃に気づいていた公算が高く、馬防柵などは大したことないだろうと突撃します。家康軍は馬防柵の前で戦っています。

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