2022/09/21

論争 関ケ原合戦

 【書 名】論争 関ケ原合戦
 【著 者】笠谷和比古
 【発行所】新潮選書
 【発行日】2022/7/25
 【ISBN 】978-4-10-603887-7
 【価 格】1500円


■太閤蔵入地
太閤検地を行い、大名領地に豊臣政権の直轄地になる太閤蔵入地が1万石規模で設定される。大名領の監視と得られる米や産物で豊臣政権がそちらの方面へ遠征する時の物資補給基地となる。太閤蔵入地を順々につなぐことで食料、武器・弾薬のいずれも補給できるようにしていた。朝鮮出兵では同じシステムを海外展開できないかとも考えていた。


■大砲
朝鮮出兵時、明軍との戦いで撤退した明軍が残した大砲を戦目付の石田三成が管理し、関ケ原の合戦で使われることになる。


■徳川秀忠
上杉軍が攻めてこないように長大な防御土塁を造り、混雑する東海道ではなく、また上田を攻めるために中山道をすすむことに


■徳川家康
小山評定で豊臣系武将は家康に味方することになったが、そのあとに届いたのが「内府ちがいの条々」で家康は反乱軍扱いになります。豊臣系武将が味方についた前提条件が変わってしまったため家康としては裏切られる可能性が高いため江戸を動けなくなってしまいます。豊臣家武将が岐阜城などを落としたために、ようやく関ケ原に向かいますが隠密行動ですすみました。


石田三成は家康が江戸を離れたら毛利輝元に連絡して秀頼を担ぎ出してもらうことを考えていたため、赤坂の陣に登頂してから家康は、はじめて馬印や旗を出して大垣城にアピールします。動揺する西軍を落ち着かせるため島左近が杭瀬川の戦いを起こします。


次に家康が考えたのが秀頼が来ることができないように佐和山城をおとして中山道を封鎖し、大垣城を水攻めする作戦です。これに対して石田三成らは二重引きを計画、関ケ原までまずひいて、次に佐和山城へひく作戦でしたが、山中に展開する大谷吉継を救援するために夜半に関ケ原へ出発。結局、関ケ原が決戦の地になってしまいました。

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2022/09/17

江戸のヒット仕掛け人

 【書 名】江戸のヒット仕掛け人
 【著 者】檜山良昭
 【発行所】東京新聞
 【発行日】2022/8/31
 【ISBN 】978-4-8083-1074-5
 【価 格】1200円


■愛煙家
淀君で大坂城落城では高級煙管の遺品が発見されています。新井白石もヘビースモーカーだったようです。


■奴
漢学者は小者(武士に使える雑用係)たちを主人に仕える奴隷的身分として漢風に「奴僕(ぬぼく)」と表現。奴の和訓よみで「やっこ」と呼ぶようになった。


■伊勢参り
御幣が降った-蘆を切って先端に団子を突き通す。紙で作った御幣を取り付けて山の上などにおいておくとトンビやカラスが見つけて団子だけを食べて御幣がついた蘆を落とすというトリックだったようです。


■お風呂
伊勢与一が銭瓶橋のそばに蒸し風呂を開業。入浴料は1銭で一銭風呂と呼ばれました。


■深酒取締法
元禄9年(1696)に幕府が布告。酔っ払いがいろいとと事件を起こしていたようです。「酒と女は男のかたき どうかみかたにめぐりあいたい」(四方赤良)


■蕎麦
寛延年間(1748~1751)に浅草の道光庵という寺が蕎麦を売るようになって評判になります。そこで「〇〇庵」という蕎麦屋が増えた。


■大八車
幕府は軍事に使われないよう乗馬は武士以外は禁止にし、馬に車を引かせることも禁止したため運送のために馬車が発達しなかった。大八車の乱暴運転が続いたので享保8年(1723)には人をひき殺せば死罪、雇い主も重罪という布告を出し、これが最初の交通法規になる。


■べらぼうの語源
浅草の見世物に便乱坊(べらぼう)と自称する頭がとがり顔が真っ暗な男が評判となった。江戸っ子が馬鹿馬鹿しいことを「べらぼうめ」と言うようになる。


■キンピラ
市川團十郎が演じた坂田金平(坂田金時の息子)で金平(キンペイ)と呼ばずに江戸っ子は「キンピラ」と呼び、煮売り屋があやかってキンピラ牛蒡と命名します。

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2022/09/09

誤解だらけの徳川家康

 【書 名】誤解だらけの徳川家康
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】幻冬舎新書
 【発行日】2022/7/25
 【ISBN 】978-4-344-98663-2
 【価 格】1060円


■しかみ像
三方ヶ原の負け戦を忘れないために書かせたと言われていますが書かせたのは尾張藩祖の徳川義直のようで長篠の戦の時のようです。徳川美術館が出した図録の解説で三方ヶ原の戦いと記載したため広まったようです。


■清州会議
三法師が織田家を継ぐことは決まっており話し合われたのは後見人を信雄と信孝のどちらかにするかと信長の遺領配分でした。信雄と信孝が揉めていたのは美濃の国境画定の問題でした。


■七将による石田三成襲撃事件
実際は石田三成に訴訟を起こして政治的責任を負わせ切腹にもちこむことでした。北政所の仲介などもあり佐和山城への隠居で決着しました。

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2022/09/03

戦国城郭に秘められた呪いと祈り

 【書 名】戦国城郭に秘められた呪いと祈り
 【著 者】小和田哲男
 【発行所】山川出版社
 【発行日】2022/7/20
 【ISBN 】978-4-634-15199-4
 【価 格】1800円


■小牧山城
信長が清州から小牧山城へ移る前に二の宮山に城を築くと言い出し家来はあわてましたが、別の日に信長が小牧山に変更すると言って家来が喜んだ話がありますが、西美濃攻略ルートが失敗が続いていたため東美濃攻略ルートに切り替えただけという説があります。


■転用石
大和郡山城の石垣にさかさ地蔵がありますが、けがれの逆転で多くの石垣で見られます。墓石を屋敷の下に置くと縁起がよいといった考え方があります。


■猪目石
ハート型の石で魔除け、招福の意味があるそうです。


■急々如律令
急ぎ、律令の如くすべしという意味で、漢代に使われた中国の公用文。呪符として使われるようになり、くしゃみ止めでは「休息万命急々如律令」となります。

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2022/08/17

南洋の日本人町

 【書 名】南洋の日本人町
 【著 者】太田尚樹
 【発行所】平凡社新書
 【発行日】2022/7/15
 【ISBN 】978-4-582-86007-8
 【価 格】880円


■二葉亭四迷
ロンドンからの帰途、ベンガル湾上で亡くなりシンガポールの日本人墓地に葬られています。ロンドンに向かう前にシンガポールで多くのカラユキさんが眠る日本人墓地を訪ねた際にいたく同情している姿を案内人が見ており、そこで案内人が日本人墓地に埋葬したそうです。他に怪傑ハリマオのモデルとなった快男児谷豊の墓もあります。


■ペナン
山田新助が経営しているホテルを定宿していたのが甘粕正彦で、当時は満州国協和会の総務部長というのが表の顔でした。南方に根を下ろした日本人を通じ、マレー半島に拡がっていたインド軍義勇兵に力を貸してインド独立運動を加速させ、イギリスに対峙して石油を確保することを狙っていました。


■マニラ
支倉常長は1618年6月~1620年8月まで2年ほど滞在していました。スペイン、ローマからの帰路でスペイン国王フェリペ三世にあてて伊達政宗が送った親書の返書を待っていたようです。ところが届かなかったようです。


■華僑
ワンス・ア・チャイニーズ、オールウェイズ・ア・チャイニーズ
ひとたび中国人として生をうけたものは未来永劫にわたって中国人であり続ける。祖国は中国なので出先では国家を作るような面倒なことをせず、信頼できる小さな社会で生きていく。


■アユタヤ
山田長政が有名ですが、そもそもはアユタヤ王ソンタムとビルマのタウングー王が争っていましたが、両方ともポルトガルの傭兵を雇っていましたが同士討ちを避けて使い物にならなかったため日本の浪人を雇うことになります。浪人を雇うという情報が関ケ原の戦いの後に日本に届いていたようで、たくさんの浪人が海を渡ります。

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2022/08/06

大江戸の娯楽裏事情

 【書 名】大江戸の娯楽裏事情
 【著 者】安藤優一郎
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2022/7/30
 【ISBN 】978-4-02-295181-6
 【価 格】790円


■富突(宝くじ)
もともとは箕面のお寺が始めましたが、だんだん自社整備の資金獲得に目的が変わってきます。江戸時代になると幕府の許可がいるようになります。幕府にしたら修復費の負担から逃れられます。ただし1枚が最低5千円ほどしたので影富という公認されていない札を庶民は買いました。こちらは一銭、二銭程度で買えました。富突には検使として寺社奉行の役人が会場に赴きましたが、この役人の奉公人が門前で影富をしていたこともありました。


基本的に博打などで禁止を考えますが、遠山の金さんは町奉行の同役だった鍋島直孝と連名で老中に厳しくすると景気がわるくなり、人々の生活も苦しくなると上申しています。


■ダイナミックプライシング
吉原では春の花見、夏の玉菊燈籠、秋の俄(にわか)という特別イベントをしていましたが料理や祝儀の料金は倍になっていました。吉原で生まれたのが蔦谷重三郎。吉原大門口で書店を創業し、吉原細見というガイドブック販売からスタートします。やがて日本橋の通油町に進出します。


■寄席
16~28文(かけそば16文ぐらい)ほかに下足札代(4文)、座布団代(4文)が必要。昼は13~16時、夜は19~22時まで


■タレントショップ
歌舞伎俳優が始めたのが油見世という化粧品店。舞台が休みの時は役者が店に出るのに、もう一つ売れました。


■町入能
幕府が保護したのが能で将軍と一緒に町民5千人も江戸城に招待されました。午前、午後に2500人づつです。この日は無礼講で将軍の登場に、親玉!成田屋!という声がかかりました。町民は傘1本持っていくことが通例で、家光の時に雨が降ったので町人に傘を与えた所から慣例になりました。

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2022/06/15

戦国ラン

 【書 名】戦国ラン
 【著 者】黒澤はゆま
 【発行所】インターナショナル新書
 【発行日】2022/06/12
 【ISBN 】978-4-7976-8102-4
 【価 格】880円


■大坂夏の陣
鵜川宗宥(毛利勝永の先鋒 浅井周防守の家臣)が大坂夏の陣後に体験話をしていた時、東軍に属していた侍がいて、鵜川が打ち取ったのは本多出雲守(忠朝)という話に。本多忠朝は本田忠勝の次男で上総大多喜5万石の藩主。忠朝の兄である姫路15万石城主の本多忠政の耳にも、この話が入り、調査が行われ争った場所も絵図で残されました。毛利勝永は結局、2名の大名を倒し、2名の大名を重傷にさせ怪我が元に死ぬことになり、4名の大名を倒したことになります。本田忠朝は大坂冬の陣で家康から叱責されており、名誉挽回の意味もあって突出したようです。


松本忠直(家康の息子)が八尾・若江の戦いで軍令を守って味方を助けなかったことから家康が「朝寝でもしておけ」と叱責。そこで翌日は軍令を無視して宿陣した四条畷から西に進み天王寺を目指します。奈良街道、熊野街道、庚申街道を味方が北上しているところを横合いから突っ込むことになります。これが西軍には挑発しているようにみえたようですが、その以上に徳川軍が大混乱になりました。


東軍の進軍がグチャグチャになったため家康は熊野街道ではなく庚申街道を通って台地の東の麓から駆け上がりました。毛利勝永にも家康の旗印が見えたはずで、西軍では熊野街道をすすむ家康を迂回した明石全登が奇襲する計画ですが破綻したことになります。そこで毛利勝永は和気清麻呂の堀を超えて家康本陣に突撃を開始します。混戦になった模様で真田信繁と家康が激突したのは四天王寺のすぐ南にある庚申堂。つまり堀あたりではと大久保彦左衛門の「三河物語」などから本書では推測しています。


■石川丈山
詩仙堂で有名ですが枚岡からたった一人で西に向かい玉造口へ攻めかかります。首をあげて一番槍を主張しようと徳川秀忠のもとへ行くと「そもそも軍法違反だ」と叱責されてしまいます。


■本能寺の変
侍の報告書といえば「二つめの谷」など、どこを起点にした谷などを書かずに思いついたような報告ばかりのなか、明智光秀はしっかりと分かりやすき報告書を書いており、信長が「現地を見ているようだ」と評価していました。


■沓掛
街道沿いの峠の麓の地名。坂道がはじまるので沓を変える場所という由来です。


■一向宗
三好元長(三好長慶の父)の勢力拡大を恐れた細川春元が一向宗をたきつけて自害に追い込みます。この一向宗は先鋭化して細川春元も制御できず興福寺の17の坊を焼き払ったりします。脅威を覚えた細川春元は法華宗と組むことになります。法華宗の幹部は土倉(高利貸し)も多く、一向宗による徳政一揆を恐れていて一向宗の本拠地であった山科を襲います。法華宗だけでなく延暦寺、将軍足利義晴、六角定頼も加わりました。


石山本願寺との戦いで窮地に陥った天王寺砦(月江寺)を助けに若江城から信長が助けにいきますが、萱振環濠、久宝寺環濠などを避けて進み、住吉から北上しました。


■平野
坂上田村麻呂の次男・広野麻呂の荘園からスタート。信長と本願寺は正親町天皇の勅命講和で幕をとじますが、裏方で尽力したのが広野麻呂の子孫である末吉勘兵衛利方という人物でした。


■桶狭間の合戦
中島砦から50騎あまりで突撃したなかに信長の武将で熱田大宮司の千秋季忠がいて戦死。信長は千秋家で3人も戦死者が出ているので、子孫に刀とともに野並村を与え、以後は神職に専念するように伝えます。

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2022/05/30

戦国武将、虚像と実像

 【書 名】戦国武将、虚像と実像
 【著 者】呉座勇一
 【発行所】角川新書
 【発行日】2022/05/10
 【ISBN 】978-4-04-082400-0
 【価 格】940円


司馬史観という言い方がありますが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」などで登場人物のイメージが作られてしまいます。明智光秀、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、真田信繁、徳川家康が江戸時代、明治時代、戦後などでどうイメージが変わってきたのかをまとめています。しかも新しい歴史的事実が発見されたからではなく、高度成長期など世の中の尺度が変わるために人物イメージも変わります。


■斎藤道三 「大かうさまくんきのうち」
道三の国盗りを批判した落首「主を切り 婿を殺すは 身のおわり 昔は長田 今は山城」山城とは斎藤山城守で道三のこと。土岐頼芸の息子を娘婿にとりましたが毒殺し、土岐頼芸を追放します。長田(おさだ)は長田忠致(ただむね)のことで、平治の乱で配送した源義朝が尾張の長田忠致のところへ寄ります。忠致は義朝の家臣で腹心の鎌田政清の舅でしたが2人を裏切って殺してしまいます。


道三の異名といえばマムシですが、もともと坂口安吾が小説でマムシと呼んだのが広まったようです。油売りから美濃をとりましたが親子2代で実現したことが1958年から始まった岐阜県史編纂で新史料が発見されました。六角承禎の文章にありました。六角義賢が土岐頼芸を保護していましたが、息子の義治になると浅井との対抗上、美濃の斎藤と
連携する必要があり、この時に土岐頼芸が斎藤道三の出自について語りました。


■織田信長
足利義昭と対立したイメージですが、2人は運命共同体で、信長と三好三人衆の戦いでは自ら軍を率いています。信長の反対を押し切ってまでも家康に参陣を求めています。ただ三方ヶ原の合戦で武田信玄が家康を破ったのには驚いたようで、信長危うしと信玄に乗り換えました。追放後も和睦を考えており、征夷大将軍に自らなることは考えていなかったようです。


■石田三成
石田三成、小西行長-家康と早めに決戦
片桐且元-当面は家康に頼り、家康が亡くなるを待つ
福島正則、加藤清正-長いものにはまかれた方が豊臣家が残る
結果がわかっているので石田三成の選択が妥当と分かりますが家康の死を待つのは妥当でした。

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2022/05/20

国衆

 【書 名】国衆
 【著 者】黒田基樹
 【発行所】平凡社新書
 【発行日】2022/04/15
 【ISBN 】978-4-582-86003-0
 【価 格】880円


■在地領主、国人領主
本拠を有する領主で一円的に展開していたと考えられていましたが、確かに本拠近くに所領の大半をもっていても、別の場所にも所領を有していました。


■郷・村
室町時代になると郷・村を単位に年貢や責任を負う作人(名請人)を確定し、年貢の収集も郷・村を通じて行われました。


■取次
武田家家臣の小山田氏は北条家との取次をしていましたが北条家から所領を与えられ、これは取次給でした。


■妙印尼
北条家の国衆であった由良家・館林長尾家を守るために奔走。昔、北条家に反乱した際に秀吉と通信したことがあり、秀吉から妙印尼に堪忍領として牛久に5000石が与えられます。これが由良家・館林長尾家の再興となりました。


■真田昌幸
沼田領ー真田昌幸は徳川井家康に組していた時、沼田領は上杉家と敵対関係にあり、北条家の侵攻もうけていました。窮余の策として沼田領だけを上杉方に従属させ北条の侵攻に対抗するウルトラCを行います。申し込まれた上杉景勝も悩んだようですが了承します。


■松平家
室町時代後半から登場。幕府政所頭人(長官)の伊勢家の家臣になります。やがて数家に分立し応仁の乱の後には大給家(おぎゅう)、岩津家、大草家に分かれます。岩津家の庶家として安祥家が成立し、これが徳川家になります。松平清康の名前は吉良持清の一字をもらったもので松平は東条吉良家を主人に仰いでいたようです。


家康が織田家の人質になっていたというのは、どうも違っていたようで天文16年頃、今川家は松平家を支援するために三河へ進軍しますが織田家に敗北。この頃、松平広忠から竹千代(家康)に家督が移っていたようで今川軍は竹千代を支援しています。実際の領国支配は広忠が行っていたようで病死か家臣に殺されたため、岡崎領は今川家が接収し直接支配することになりました。国衆の当主不在の間、後継者が確立するまで領国を保護下におくための措置だったようです。竹千代は今川家の人質ではなく、成長するまでの保護だったようです。

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2022/04/29

地形と地理でわかる戦国武将と名勝負・名城の謎

 【書 名】地形と地理でわかる戦国武将と名勝負・名城の謎
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】宝島新書
 【発行日】2021/08/24
 【ISBN 】978-4-299-01927-1
 【価 格】1210円


■加賀一向一揆
蓮如が吉崎御坊で布教に勤め本願寺派が優勢になり高田派と軋轢をうみます。これに富樫家の内紛が加わって戦いへ突入していきます。


■三好長慶
信長が居城を次々に移したことが有名でしたが、その前に行っていたのが三好長慶。阿波の芝生城→勝瑞城→越水城→芥川山城→飯盛山城と勢力拡大にあわせて居城を映します。兵庫津の正直屋を御用商人として活用しました。秀吉時代にも朝鮮出兵に協力しています。


■対馬
倭寇を手を焼いた李氏朝鮮からの要請で、朝鮮への渡航には宗氏が発行する文引(手形)所持が必要とし、貿易を独占できるようになります。


■堺
鎌倉時代、大小路をはさんで堺北荘、堺南荘が成立。戦国時代に向けて環濠都市が登場していきます。

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