2008.04.21
【書 名】なぜ、江戸の庶民は時間に正確だったのか?
【著 書】山田 順子
【発行所】実業之日本社
【発行日】2008/02/25
【ISBN 】978-4-408-10729-5
【価 格】762円
江戸時代といえば時代劇を思い出してしまいますが、実際はどんな時代だったのか時代考証家による本です。
■リサイクル
トイレにたまった糞尿は肥料として高く売れましたが、紙も大切にリサイクルしていたんですね。使用済みの懐紙を貯めておくと、紙屑買いという回収業者が買いにきました。集めた懐紙は溶かされて再生紙になりますが品質が落ちます。そこで厚紙に使われたり便所の落とし紙に使われました。今のダンボールとトイレットペーパですね。江戸時代がすごかったのは、便所で使った落とし紙も残していたそうで、こちらも回収していたそうです。
■江戸から大阪まで宅配便が2日半で届く
飛脚制度が整備されていましたが「仕立」という特急便を使うと江戸、大阪間は最短2日半で書状が届いたそうです。ただし高価で70万円ほどになります。20数日で届く町飛脚ですと一通400円ほどで送れたそうです。こういった制度が既にできあがっていたので明治の郵便はスムーズに開始できました。
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2008.01.17
【書 名】戦国武将を育てた禅僧たち
【著 者】小和田哲男
【発行所】新潮新書
【発行日】2007/12/20
【ISBN 】978-4-10-603594-4
【価 格】1100円
『戦国軍師の合戦術』の続編にあたる本です。戦国武将のそばには禅僧がいて、大きな影響を与えていました。戦国時代を見る目がけっこう変わってきますね。
■大使館のような禅寺
大使館といえば治外法権ですが、これと同じだったのが禅寺でした。関ケ原合戦の後、石田三成の子である重家が妙心寺の塔頭寿聖院に逃げ込んでいますが、家康は手出しをしませんでした。重家は寿聖院で出家しました。
武田信玄が三河へ侵略した時は坊主が200人ほど軍に付き従っていました。戦勝祈願をしたり合戦の日を占ったりしますが、後は外交の使者としての役目がありました。僧侶は武士と違い無縁ですので、敵地でも殺されることはありません。そこで使者といえば僧侶が使われたそうです。
僧侶ですが、武士の家に生まれると大体一人は寺に入るそうで、「一子出家すれば九族天に生ず」という考えだったそうです。最後は戦国大名になった安国寺恵瓊は安芸武田家の後取りでした。毛利に滅ぼされた時に逃げて、寺に入っています。やがて毛利のために尽くすことになるので世の中分かりませんね。金地院崇伝も足利将軍家の家臣の家でした。
■家康の大高城への兵糧入れ
桶狭間の戦いの前哨戦で有名なのが家康の大高城への兵糧入れですが、なかなか戦略的にやったんですね。織田方の丸根、鷲津砦から攻められるとまずいので、遠い寺部城、梅が坪城に火をつけ丸根、鷲津砦から救援にむかわせ、その間に大高城への兵糧入れに成功しました。
■印
信長の天下布武という印が有名ですが、始めたのは今川氏親です。花押は元服後でないと書けませんが元服前に文章を書かないといけない時に苦肉の策で印を押したそうです。
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2008.01.05
【書 名】江戸奉公人の心得帖
【著 者】油井 宏子
【発行所】新潮新書
【発行日】2007/12/20
【ISBN 】978-4-10-610242-4
【価 格】680円
副題が「呉服商白木屋の日常」になっています。日本橋にあった白木屋日本橋店の古文書を元に江戸時代の店員の様子を描いています。なかなか大変な面もありましたが、現在とよく似ているところもたくさんあります。
本店のある京都で採用された「子ども」が11、2歳で奉公人として江戸に下ります。故郷に帰れるのは9年目の初登りです。この間に逃げ出したり、病気になったりと大変でした。初登りが終わると手代になります。ここまでは年功序列が基本ですが手代になると年に2回、人事異動があり、いろいろな持ち場を回され、実力主義で役付きになっています。
■掛は大変
お得意さんとの商売では現金取引を奨励していますが、やはり掛が中心でした。そうなると大変なのが掛金回収です。店員は手分けして長期出張に出て掛金回収をしています。またお客さんによって売掛金の限度額を管理していました。相手の経済状況によって限度額の変更も行っておりこれは今と同じですね。
■決算報告
毎年、正月3日から棚卸を行い、新しい帳面へ付け替えを行い、報告書を作成します。個人事業と同じで年単位決算だったんですね。前年末の残った掛を回収し記帳が19日に一区切りすると、これが決算報告になります。書類が出来上がると祝儀袋が店中に出されて、支配役が本店に向けて「御勘定登り」をしたそうです。
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2007.12.16
【書 名】戦国武将このすごい眼力に学べ
【著 者】小和田哲男
【発行所】知的生きかた文庫
【発行日】2007/12/10
【ISBN 】978-4-8379-7677-6
【価 格】533円
慶長3年(1598年)8月18日、伏見城で秀吉が息をひきとりますが、その1カ月前の7月4日に秀吉が重大なことを言い残していたことがヨーロッパの記録に残っています。宣教師が本国に送った書簡によると秀吉が諸大名を集め、家康に全国統治を委任することを伝え、秀頼が統治の任にたえる歳になったら政権を返してほしいという内容だったそうです。この内容をずっと信じていたのが大阪方だったんですね。
■国家安康 君臣豊楽
大阪との戦いとの発端になった方広寺の鐘銘事件ですが、この銘の作者が清韓文英という南禅寺の長老です。伊勢の生まれで、津市乙部の上宮寺にお墓があります。鐘銘事件は家康の言いがかりで、大阪方が滅びた後も方広寺の鐘はそのままで現在まで伝わっています。
■三方ケ原の戦い
武田信玄と家康が戦って、家康が負けた戦で12月に行われましたが、前哨戦が10月に天竜川で行われました。この時、天竜川の池田で渡船業を営んでいた船守たちは家康軍だけを輸送して、武田軍には船を貸さず武田軍の追撃をうけませんでした。家康はこれに感謝して、徳川軍を援護した船守たちだけに営業許可を与え、この特権が明治まで続いたそうです。こんな話があったんですね。
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2007.11.18
【書 名】点と点が線になる-日本史集中講義
【著 者】井沢 元彦
【発行所】祥伝社黄金文庫
【発行日】2007/6/20
【ISBN 】978-4-396-31432-3
【価 格】638円
歴史を学校で習いますが、泣くよ坊さん平安遷都のように何年に何が起こったというようなことばかり覚えます。そういった点と点を結んで、もっと俯瞰的に歴史を見てみようというのが主旨の本です。
戦国時代、アメリカの西部開拓時代のように皆が武装するのが当たり前の時代でした。関所が作られ、講に入らなければ自由に商売もできないカルテルも結ばれていました。
そこへ登場したのが信長です。支配地では自由に商売ができるように楽市・楽座にし、商業と流通の改善から確保したお金で、常備軍の整備を行います。天下布武とは武を行うのは信長で、民衆は今までのように戦争に関わらず商売や農耕に専念するという意味がありました。
これをさらに進めたのが秀吉で、刀狩で物理的に農村や寺社が持っていた刀を取り上げ、武士と民衆とを分けました。意識改革まで進めたのが徳川綱吉です。徳川幕府の最初の頃はまだ殺伐とした空気が残っていましたが、悪法と言われた「生類憐れみの令」を出し、これからは平和の時代だと宣言しました。「生類憐れみの令」という点だけを考えず、そこの至った時代背景(線)まで見ないといけませんね。
■穢れの思想
一番の穢れは死で、このため藤原氏の死体捨て場が宇治にあるそうですが、どこに藤原道真が葬られているかも分かっていないそうです。道長の息子が何年かたってから行ったときには、もうどこに葬ったのか分からないという記録が残っているそうです。
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2007.11.11
【書 名】将の器 参謀の器
【著 者】童門 冬ニ
【発行所】青春出版社
【発行日】2001/10/20
【ISBN 】4-413-09214-7
【価 格】543円
副題は「あなたはどちらの才覚を持っているか」です。
将たる器
・家康が見せた懐の深さ
・武田信玄 人育ては、まず人を見ることから
・加藤清正 部下の可能性を引き出す技術
・蒲生氏郷 身をもって範を示す
参謀たる器
・中間管理者としての秀吉
・安藤直次 トップに楯つくべきとき
など、事例とその解説になっています。
この解説が、いつもの童門節で、なかなか楽しみます。
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2007.11.10
【書 名】関ヶ原 誰が大合戦を仕掛けたのか
【著 者】武光 誠
【発行所】PHP新書
【発行日】2007/5/30
【ISBN 】978-4-569-65938-1
【価 格】700円
関ヶ原合戦がなぜ起きたのか、また時系列に関ヶ原合戦がどう展開したのか説明しています。
家康は石田三成が失脚させましたが、三成の息子をたて石田家の所領を安堵しましたので上杉攻めで、まさか石田三成が攻めてくるとは思っていなかったというのが、この本での説になっています。
西軍、東軍の各武将がどんな思いで関ヶ原にのぞんだかも分析されていますが、どうも論調が家康よりで、秀吉と三成は酷評されています。(笑)社長室長のような立場で家康と互角に戦ったので三成は好きなんですがね。
後半、時系列に関ヶ原を展開した部分がおもしろいです。
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2007.10.28
【書 名】伊予小松藩会所日記
【著 者】増川 宏一
【発行所】集英社信書
【発行日】2001/07/22
【ISBN 】4-08-720100-7
【価 格】660円
四国・西条市の隣に小松藩という1万石の小さな藩がありました。今は愛媛県小松町になっています。城はなく殿様が住む陣屋が城代わりでした。正式な藩士は数十人。小さな藩でしたが江戸時代から明治維新まで改易されることなく残りました。藩の公用の馬は1頭だけで、いわば公用車が1台だけという藩です。
この藩の会所日記が150年にわたって書き綴られ、当時の庶民や武士の生活が細かく書かれていました。それを紹介したのが本書です。藩が昔、借りた借金の証文をもって押しかけてきた人に対する対応、酔って喧嘩になったのが刃傷沙汰事件になってしまった時の対応、盗人を探すため隣の藩や遠くまで派遣する様など当時の様子がよく分かります。
藩の財政は厳しかったのですが、これは参勤交代などの費用などがボディブローのように効いていました。船で大阪へ出て、そこから船で伏見まで上り、後は大名行列で江戸へ向かいます。総勢110名ほどですが、藩士は30名ほどで後は荷物運搬の小者です。江戸への引越し行列のような状況でした。ちなみに加賀藩は4000名、仙台藩は3500人でした。
小さな藩でしたが、懸命に運営していたようで享保の飢饉では一人の餓死者を出すことなく乗り切っています。隣の今治藩では113人の餓死者が、大きな松山藩では5705人でした。さすがにこれは松山藩の失政と藩主は謹慎を命じられています。
黒船来航の時は海防ということで大阪の天保山に4名を送っています。その後、伝法村(大阪市西淀川区)へ持ち場を移っています。藩から勤皇の志士が出ていたこともあり、戊辰戦争では早くから官軍側でした。足軽を含めて100名ほどの藩ですが、半分の51名を新潟の長岡に派兵しています。戦死1名、重傷1名、軽傷1名と犠牲者が出ています。官軍が勝利した後、善光寺見物や買物をしながら帰った記録も残っています。
現在の感覚でいうと、考えられないような記述もあるのですが、江戸時代の庶民や武士がどんな暮らしをしていたのか人間模様がよく分かる一冊です。不倫や駆け落ちの話も出てきます。
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2007.10.16
【書 名】戦国軍師の合戦術
【著 者】小和田 哲男
【発行所】新潮文庫
【発行日】2007/10/1
【ISBN 】978-4-10-128852-9
【価 格】438円
戦国時代ですが軍師の役割といえばまず呪術でした。吉の日を選んで出陣したり、けっこうゲンを気にしていました。日が悪いと出陣の日を伸ばしたりしていました。山本勘助の頃から呪術&戦術指南に変わっていったようです。
■残念石
築城にあたって石切り場や城で石垣に用いられなかった残念石がありますが、これは運搬の途中で落ちた石だそうです。落ちたが落城につながるということで放置され残念石になりました。
■セーマン ドーマン伊勢の海人がもぐる時にセーマン、ドーマンの印を描いた手袋などをつけてもぐります。セーマンは安倍清明の五芒星で、ドーマンは九字
になります。これって、けっこう古い歴史があるんですね。
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2007.09.21
【書 名】戦国武将 名将の手の内
【著 者】小和田 哲男
【発行所】知的いきかた文庫
【発行日】2007/09/10
【ISBN 】978-4-8379-7656-1
【価 格】533円
戦国武将21名の手の内を解説していますが、企業戦略の考え方のヒントになりますね。
■捨てる
毛利元就が九州に侵攻し、立花城を奪い取りましたが大友宗麟の画策で、大内と尼子が山口や出雲へ進撃を開始しました。すぐに立花城を捨て兵を戻しましたが。この決断は見事でしたね。せっかく手に入れたものに執着してしまいがちですが常に大局から考える姿勢が必要です。
■プロジェクトの意識統一
大阪城冬の陣では3つの派閥に分かれていました
1.大野治長、後藤又兵衛、
2.木村重成、真田幸村、明石全登
3.長曾我部盛親、毛利豊前守
実際、真田丸で真田が戦っている時に毛利や後藤は応援していません。これが夏の陣では2分され籠城組と出陣派に分かれます。意見を統一してプロジェクトとして一丸となって難局を乗り切れず、分散した戦いになってしまいます。
■大敗北しなければ名将ではない
朝倉家の重鎮であった朝倉宗滴の言葉です。宗滴自身は連戦連勝のため自分は名将ではなかったと言っています。挫折の経験が人を2倍にも3倍にもするということを言いたかったようです。
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2007.08.13
【書 名】「忠臣蔵事件」の真相
【著 者】佐藤 孔亮
【発行所】平凡社新書
【発行日】2003/11/19
【ISBN 】4-582-85205-X
【価 格】740円
忠臣蔵と言えばテレビや映画のシーンが目に浮かびますか、実際はどんな事件だったのか検証しています。浅野長矩が吉良に切りつけた時に羽交い絞めにして、浅野をおさえますがこれも史実と違うそうです。また「風さそう花よりもなお我はまた春の名残を如何にとかせん」という有名な辞世の句を読むシーンがよくでてきますが、これも眉唾なんですね。
浅野家にとっては久しぶりの勅使馳走役でしたが、よく火消しの御用を勤めていて「浅野の火消し」は有名でした。討ち入りの時に火消し装束だったのにはそんな理由があったのですね。
それにしても浅野がなぜ吉良に切りかかったのかが最大の謎という点は残っています。
■医者は技術だけではない
浅野長矩に切りつけられた吉良を手当てしたのが南蛮外科の栗崎道有で、なかなかの名医だったんですね。傷口を縫って手当てをしたのですが、吉良がどうも元気がなく、重要な儀式なので朝から何も食べていないと思い、湯漬けを役人に頼みました。
血を流している吉良が食べると役人が穢れをきらうだろうと思い、役人には朝から診療で自分が腹が減っているのだといい、吉良に食べさせ元気を取り戻させました。
不思議な縁で討ち入りの後、泉岳寺から戻された首を葬儀のため胴体に縫い合わせたのも栗崎道有でした。
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2007.08.07
【書 名】関ヶ原合戦「武将」たちの言い分
【著 者】岳 真也
【発行所】PHP文庫
【発行日】2007/8/16
【ISBN 】978-4-569-66851-2
【価 格】686円
関ヶ原合戦に参加した武将達について通説とともに、事の真相と武将たちの言い分が掲載されています。
■朽木元綱
小早川秀秋の裏切りに呼応して西軍を裏切った朽木元綱です。信長が浅井長政に背後から攻められた時に信長を京都へ逃す時、朽木越えするのを助けた武将としても有名です。宇田源氏の流れを組む名門でしたが、関ヶ原合戦に参加したのは2万石でした。動員できたのは600人でした。
小早川勢1万5千が松尾山を駆け降りてきた時、大谷隊として防戦にまわればあっという間に全滅してしまったでしょう。朽木元綱にしてみれば裏切るしか方法がなかったようです。結局、領地を1万石ほど減らされましたが、家名を残し明治まで続きました。
■真田 信幸
真田幸村のお兄さんで徳川方につき、真田の名前を残しました。この真田家にはとんでもないものが伝わっていました。明治に家康から拝領した秘蔵の箱を開けてみると底に三成からの書状や徳川家に敵対していた頃の文章が出てきたそうです。
真田信幸が焼かずに、ずっと残したんですね。
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2007.07.18
【書 名】名城と合戦の日本史
【著 者】小和田 哲男
【発行所】新潮選書
【発行日】2007/05/25
【ISBN 】978-4-10-603580-7
【価 格】1,100円
城を切り口にして合戦についてまとめられた一冊です。1416年~1429年の琉球王国統一戦争から最後の内乱であった1873年の城山の戦い(西南戦争)までまとめられていますが、やはり戦国時代の話が多いですね。あまり聞いたことのないような戦いも取り上げられています。
■本能寺の変の後の3日
本能寺の変の後、光秀はすぐに安土城の接収に向かいましたが、瀬田城主であった山岡景隆によって瀬田橋を焼き落とされてしまいます。
安土へ行く道が閉ざされ、結局、光秀は坂本城に戻り、瀬田橋を復旧させました。これに3日かかってしまいました。
秀吉と山崎の合戦になりますが、この3日間が大きなタイムロスになりました。
■小牧・長久手の戦い
局地戦では家康が勝ったと言われますが、初戦では秀吉が抜け目なく戦っていました。
家康・信雄が重要視していた信雄の支城・犬山城を池田恒興が奇襲して落城させています。この時、城主・中川定成は不在でした。その前に秀吉が伊勢の峯城(亀山)を攻めさせており、織田信雄が支城の城主を伊勢に出陣させていた隙をついたものでした。
■織田秀信
関ヶ原の戦いで西軍の最前線が岐阜城となりました。ここを守っていたのが織田秀信です。と言われてもピーンときませんが、秀吉が光秀を破った後に清洲会議で押した三法師です。東軍の福島正則らに攻められ降伏し開城となりました。
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2007.06.23
【書 名】戦国の城
【著 者】小和田哲男
【発行所】学研新書
【発行日】2007/6/15
【ISBN 】978-4-05-403462-4
【価 格】780円
戦国時代の城ってすごくたくさんあったんですね。滋賀県だけでも1300ケ所、全国には5万ありました。
山城が多かったのですが、やがて小高い丘に作る平山城、兵農分離が進むと平城になります。平城ですが防御力はかなり高く、小田原城は上杉謙信、武田信玄の攻撃を籠城でしのぎました。小田原評定などと言いますが、籠城は妥当な策でした。小田原は総構えで備え、秀吉の小田原攻めでも難攻不落をほこりました。ところが目と鼻の先に石垣山城を築城するなど、秀吉らしいやり方で開城に追い込みます。
ただし有効性を認識した秀吉は大阪城では総構えにしています。図版も多く、戦国時代の城を理解するのに最適です。
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2007.05.10
【書 名】敗者から見た関ヶ原合戦
【著 者】三池 純正
【発行所】洋泉社
【発行日】2007/5/22
【ISBN 】978-4-86248-146-7
【価 格】800円
天下分け目の関ヶ原合戦。
三成を大垣城から誘い出し得意の野戦に持ち込んだ家康。最後の最後まで迷っていたが、結局は裏切った小早川秀秋など関ヶ原にまつわるいろいろな通説がありますが、本当にそうなの?という本です。実際に関ヶ原を歩いての視点ですので、かなり説得力がありますね。関ヶ原の合戦を通説は違った目で見られる一冊です。
■大阪寄りだった北政所
淀君とそりがあわず家康寄りだったというのが通説ですが、北政所の兄(木下家定)の子供、つまり甥っ子7人のうち6人は西軍で戦いました。一人だけ裏切ったのが小早川秀秋です。宇喜田秀家の関ヶ原への出陣式には北政所が名代を派遣して戦勝祈願していますので、巷の通説とはかなり違うようです。
■周到に用意していた三成
奉行職を解かれて佐和山城に蟄居していた三成ですが、かなり周到に準備していたんですね。関ヶ原が決戦場になると高さ3メートルの土塁を延々と築き、中山道、北国街道を遮断してしまいました。家康が野戦に誘ったという通説ではなく、三成に誘い込まれたのは家康の方でした。
■最初から裏切っていた小早川秀秋
松尾山は山だとばかり思っていましたが、堅固な山城になっていたんですね。三成が秀頼と毛利輝元を迎えるために築いたものでしたが、ここにいきなり入り込んだのが小早川秀秋。結局、これが勝敗の明暗を分けることになってしまいました。
いずれにしても街道一の弓取りと言われた大大名、徳川家康に一介の小大名である石田三成が互角に戦った関ヶ原合戦です。三成が凡庸な人物であるはずはありません。不思議な話が最後に載っています。三成の兄や父は佐和山城の戦いで亡くなりましたが、三成の妻や子供、一族郎党は何のお咎めもなかったそうです。
家康は敵ながら、太閤に最後まで忠義を貫いて死んでいった武士ということで三成を高く評価していたようです。三成が捕らえられた後、井伊直政が処刑まで身柄を預かっていましたが、すごく丁寧な扱いだったそうで、おそらく家康の指図だったのでしょう。
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2007.04.24
【書 名】戦国時代の大誤解
【著 者】鈴木 眞哉
【発行所】PHP新書
【発行日】2007/3/1
【ISBN 】978-4-569-65940-4
【価 格】700円
明智光秀に黒幕がいるはずがないと明解に述べた
「信長は謀略で殺されたのか」の著者でもあります。今度は大河ドラマなどでイメージづくられている戦国時代は実はどうだったのかについて書かれています。
■信長の業績 聖俗分離
あまり語られていない信長の業績が載っていました。それが聖俗分離です。一向宗や天台宗などいろいろな宗派と信長は敵対しましたが、これらの宗教勢力が世俗に対して力をもっていたことを問題視ししたからです。聖俗分離により神仏から人間が精神的に独立しすることで江戸文化が花開くことになりました。
■光秀の実像
部下思いで、あまり世間体みたいなことを感じなかった人物のようです。近江の寺に戦死した部下18名の供養を頼んでいますが、そういうことをすること自体が戦国大名では珍しかったそうです。また18名のうちの一人は名もない中間だったそうです。
■賤ヶ岳の戦い
佐久間盛政が奇襲したところを秀吉がたたいて、これで柴田勝家側が総崩れとばかり思っていたのですが、原因は前田利家の戦線離脱だったんですね。秀吉にたたかれた佐久間盛政も整然と退却しており、柴田軍に合流すれば、また秀吉とにらみあいになるはずでした。ところが突如、前田利家が戦線を離脱。奥にいた柴田勝家からは別働隊が壊滅したように見え、佐久間盛政からは本体が崩れたように見えました。これが敗走の原因になります。
でも柴田勝家は前田利家の居所に立ち寄り、うらみごとも言わず秀吉を頼んで家を守れと声をかけています。また預かっていた人質も返したそうで、すごい武将だったんですね。
→ 『戦国時代の大誤解』
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2007.03.25
【書 名】伊勢の津 歴史散歩
【著 者】横山高治
【発行所】創元社
【発行日】2007/02/20
【ISBN 】978-4-422-20465-9
【価 格】1500円
津にある別所書店で平積みになっていました。地元、津の歴史なのですが知らない話も多いですね。
■関ヶ原合戦の前哨戦
関ヶ原合戦の前哨戦といえば安濃津城攻防戦です。守るのは東側の富田信高で、攻めるのは毛利秀元です。
富田信高の奥さんが夫の苦戦を見て黒糸おどしの鎧で飛び出して槍をふるっていました。備前の豪族、宇喜田忠家の娘で、なかなか勇猛果敢です。富田信高は最後は降伏し、高野山に上がりますが、関ヶ原合戦の後は伊予宇和島へ。替わりに藤堂高虎が津城主になります。
この安濃津城攻防戦で富田と一緒に戦ったのが伊勢上野城の分部光嘉です。安濃津城近くの津観音境内で最後は16人になるところまで戦い、降伏しました。関ヶ原合戦後は近江の大溝藩2万石藩主となり明治まで続きました。
■細野藤敦
この分部光嘉の兄が細野藤敦で津市安濃町城山にあった安濃城城主でした。織田信長が北畠攻めで伊勢に侵攻してきた時に時代の趨勢を見て分部光嘉は信長に味方しましたが、細野藤敦は最後まで徹底抗戦。織田方も和睦したり、暗殺しようとしたり大変で、最後は根来寺で秀吉とも戦っています。
戦国武将の間で細野家の武名は有名だったようで松坂に入った蒲生氏郷が7000石で迎え入れていれ、やがて家康の時代となった時に、戦国乱世の世をよく真っ直ぐに生きられたと家康に声をかけられています。
■堅物騒動
鰻で有名な新玉亭近くにイチョウの大きな木がありますが、伐採すると祟りがあると昔から言われ、道路沿いに今も健在です。ここは明治になったばかりの時にあった騒動の責任をとり切腹した藤堂堅物(けんもつ)の屋敷跡です。
■東郷平八郎と連合艦隊が津へ
日露戦争の日本海海戦の後に津へ寄ったという話があり、海軍のあった佐賀の三重津造船所と思っていたのですが、津だったんですね。1905年10月13日に東郷平八郎が連合艦隊を率いて津を訪れています。これは藤堂高虎を崇拝する東郷平八郎が水軍司令で有名な高虎が津へ入国する故事を再現したパフォーマンスだったそうです。また伊勢神宮に戦勝報告したそうです。
■安濃鉄道
津新町と椋本を結ぶ軽便鉄道で、戦時の国家総動員法でレールを拠出し、休業に。会社は今も存続しているそうで、年一回の株主総会で休業を延長しているそうです。へ~え。
→ 『伊勢の津 歴史散歩』
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2007.03.06
【書 名】地形で読みとく合戦史
【著 者】谷口 研語
【発行所】PHP新書
【発行日】2003/12/3
【ISBN 】4-569-63343-9
【価 格】760円
合戦を地図から考えた本です。
例えば川名で呼ばれる戦いなら「宇治川合戦(木曽義仲VS義経)」など色々ありますが、なぜそこが戦いの舞台になったのか地形的に見てどうなのか述べられています。
例えば宇治川なら東からの京都への攻撃に対し、防衛線は瀬田と宇治の平等院あたりとなります。壬申の乱の時は瀬田川を破られ大津京が攻められました。
一夜城で有名な墨俣ですが、今ですと長柄川沿いにありますが、当時の地形では木曽三川(木曽、長柄、揖斐)が合流していたところだそうです。
天正の終わりに大洪水があって、木曽川の流れが現在の流れに変わったそうです。
→ 『地形で読みとく合戦史』
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2007.01.18
【書 名】武田信玄の古戦場をゆく
【著 者】安部 龍太郎
【発行所】集英社新書
【発行日】2006/11/22
【ISBN 】4-08-720365-4
【価 格】660円
副題が「なぜ武田軍団は北へ向かったのか?」になっています。
そういえば三河、尾張、美濃を通って上洛する力があったのに、なぜ上杉謙信と戦うことばかりしていたのか、なかなか不思議です。
甲斐の武田ということで山国のイメージが強いのですが、武田宗家は安芸、対馬や若狭の守護にもなっており一族のネットワークは海運を中心に成り立っていました。
千曲川の物流をおさえ、日本海まで進出すれば一族の海運ネットワークを使って上洛も用意でした。対する村上義清も村上水軍と同属で、単純に山国の国取り合戦ではなく経済戦争、物流戦争でもありました。
それにしても作者はいろいろな山城によく登っていますね。と思っていたら「戦国の山城をゆく」と同じ作者でした。
→ 『武田信玄の古戦場をゆく』
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2007.01.10
【書 名】小説 立花宗茂
【著 者】童門 冬ニ
【発行所】集英社文庫
【発行日】2006/12/20
【ISBN 】4-08-746106-8
【価 格】1000円
島津の侵攻で大友宗麟を見限る戦国武将があいつぐ中、立花宗茂が最後まで忠節を尽くし守りぬきます。裏切りが当たり前の戦国時代には珍しい武将でした。絶体絶命の中、秀吉が九州平定に乗り出し窮地を脱します。
この時の豊臣の恩から関が原では西軍の味方へ、ところがこれが負け戦に。当然、領地は没収です。しかし忠節をまげずまっすぐに生きる殿様に、家来が殿様の浪人生活を支えぬきます。やがて秀忠のお相伴衆に、ついには元の柳川領主に復帰します。関が原で負けた大名で、領地を没収され復帰した例は立花宗茂だけだそうです。なかなか面白い生き方ですね。
秀忠のお相伴衆になった頃、加藤清正は48歳、福島正則が48歳、黒田長政が41歳、細川忠興が41歳、前田利長が42歳と皆、同じ年代だったんですね。
→ 『小説 立花宗茂』
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2007.01.06
【書 名】名城の由来 そこで何が起きたのか
【著 者】宮元 健次
【発行所】光文社新書
【発行日】2006/12/20
【ISBN 】4-334-03384-9
【価 格】720円
■長浜城
秀吉が初めて領地をもった城として有名ですが、もともとは足利尊氏が吉野の後醍醐天皇と北陸の新田義貞の連絡を絶つために築城し、今浜氏に守らせたのが発端だったそうです。
■幻の遷都計画
秀吉は遷都を考えていたようで、大阪中の島の土地を2年間ほど温存していたそうです。ここに内裏にしようとしていたそうで、うまくいかず大阪城建築で退去した石山本願寺に寺地として与えたそうです。
■戦国時代の花壇
庭造りで有名な小堀遠州ですが、ヨーロッパの技術もいろいろ学んでいたそうで御所に日本発の花壇を作ったり、噴水までありました。また兼六園では最先端のサイフォンの技術を使って水を引き揚げていました。
■宮本武蔵の都市計画
宮本武蔵といえば剣豪のイメージが強いのですが、苦労して兵法を編み出すのにいろいろ学び、実践しています。明石の城下町の町割りは宮本武蔵が計画したそうで、かなり先見性の高いものだったそうです。
→ 『名城の由来 そこで何が起きたのか』
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2006.11.14
【書 名】信長・秀吉・家康の研究
【著 者】童門 冬ニ
【発行所】PHP文庫
【発行日】2006/11/20
【ISBN 】4-569-66721-X
【価 格】495円
1998年にPHPから出ていた「人を見抜く人を動かす」を再編集した本です。ビジネス的視点から戦国武将を分析しています。
■改革に立ちはだかる3つの壁
ものの壁(物理的な壁)
しくみの壁(制度的な壁)
こころの壁(意識的な壁)
信長が流動精神で改革していきましたが、昔も今も変わりませんね。
■小荷駄隊の廃止
長篠合戦の時に秀吉が編み出した策が紹介されています。小荷駄隊は食料や武器などの輸送部隊で、これを廃止して全員に縄や棒を持たすことにしました。ただし、なぜ運ばないといけないかを説明して納得させなければなりません。これによって小荷駄隊という組織と費用が節約されることになりました。こんな逸話があったとは初めて知りました。
→ 『信長・秀吉・家康の研究』
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2006.10.10
【書 名】太閤の手紙
【著 者】桑田 忠親
【発行所】講談社学術文庫
【発行日】2006/08/10
【ISBN 】4-06-159775-2
【価 格】1000円
けっこう古い本で、「まえがき」の日付は昭和34年になっています。1959年に文芸春秋から出た本を底本にして講談社学術文庫に入ったようです。秀吉が出した手紙に関する本です。
■秀吉と狂歌
木下藤吉郎時代に朋輩から「人は皆さし出でぬこそよかりけれいくさの時は先駆けをして」と出しゃばりなところを皮肉られました。すぐに「人は皆さし出づるこそよかりけれいくさの時も先駆けをして」と返したそうです。
■挑戦出兵は早くから計画していた
秀吉が九州攻めをしている時に書かれた手紙には高麗にも攻め入ると書かれていました。思いつきのようなことではなく、けっこう早くから計画していたんですね。
また女性にあてた手紙もよく残っていますが、秀吉は細やかな気遣いをする人物だったんですね。「人たらし」と呼ばれていましたが手紙からも分かります。
→ 『太閤の手紙』
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2006.09.28
【書 名】百姓から見た戦国大名
【著 者】黒田 基樹
【発行所】ちくま新書
【発行日】2006/09/10
【ISBN 】4-480-06313-7
【価 格】700円
村から戦国大名を見た面白い視点の本です。村通しが水や土地で争うと、領主にも加勢を要請していました。領主の方も年貢に影響しますので加勢するのですが、これがだんだん大きくなると領主同士の争いにまで発展したりしました。
村側も力をもっており土地を守れない領主などへは年貢をおさめず、新たに庇護してもらえそうな領主に年貢を送るなどしたたかですね。室町から戦国時代にかけて村の成り立ちや、日本人の「お国意識」がどう生まれてきたのか、よく分かります。
→ 『百姓から見た戦国大名』
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2006.09.21
【書 名】関ヶ原 上、中、下
【著 者】司馬遼太郎
【発行所】新潮文庫
【発行日】1974/6/20
【ISBN 】4-10-115212-8
【価 格】740円
新幹線でいつも通過するたびに、ここが天下分け目の戦が行われたところかと車窓から眺めています。
その昔は不破の関のあったところで、壬申の乱のさいは大海人皇子が本営を置きました。そこで兵士に邪気をはらうために桃を配ったことから桃配山と名付けられ、家康がその故事にならい本陣を置きました。
この本では関ヶ原の合戦に至る過程が丁寧に描かれた作品です。
後で政権をとった徳川家康側の史料が多く伝わり、石田三成については悪く言われることが多いのですが、司馬遼太郎の作品では、この石田三成がただの文官ではなく壮大な戦略を持った戦略家として描かれています。
確かに、たかだか19万5千石しかない石田三成が日本を二分する戦略を立て、北の上杉と西から攻める石田軍とで家康を挟み撃ちを考え、実際に行動に移しましたからね。単なる戦国武将では語れない人物です。
→ 『関ヶ原』
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2006.08.28
【書 名】戦国武将の宣伝術
【著 者】童門 冬ニ
【発行所】講談社文庫
【発行日】2005/12/15
【ISBN 】4-06-275281-6
【価 格】571円
戦国時代は自分をアピールしなければならない時代でありました。それで旗指物や奇抜な兜などが登場し、一目で誰か分かるような工夫もされました。
戦国武将のエピソードから、いろいろなPI(パーソナル・アイデンティティ)やCI(領主経営の宣伝)の事例を紹介しています。よく知っているエピソードもあれば、はじめて聞くエピソードも多いですね。
■フレックスタイムがあった
武田信玄の居館であるつつじケ崎の館ではフレックスタイム制が導入されていました。家庭に屈託事があれば、仕事に集中できないので、まずそれを片付けてから出て来いということで決められた時間を働けばよいようになっていました。
■法令を読むのは誰?
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」で有名な本多重次ですが、岡崎奉行になった時に法令を住民が守らないと部下から相談が、法令が書かれた高札を見ると漢字ばかりの文章が、さっそく全部かなで書き、最後に「この法律を守らぬとオニ作左が怒るぞ」と書いたら効果てきめんでした。
■関ケ原の島津の意地
関ケ原の合戦で家康本陣前を突破して逃げた島津義弘ですが、最初は徳川家康に味方するつもりだったんですね。会津討伐に向かう家康から留守の間、伏見城を守ってほしいと言われて行くと鳥居元忠が守っており、一歩も入れない。ここで意地になってしまい、入れないなら攻めるぞと言っている時に石田三成の城攻めが始まってしまいました。というようなことがあったようです。
→ 『戦国武将の宣伝術』
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2006.08.01
【書 名】戦国武将「凄い生き方」
【著 者】小和田哲男
【発行所】三笠書房
【発行日】2006/08/10
【ISBN 】4-8379-7573-9
【価 格】552円
■小田原評定
ずっと会議ばかりやっていて結論がでないことを小田原評定などと言いますが、本来はすごい先進的なことをやっており、月の2回の重臣会議で決定しており進んだ行政組織だったそうです。
上杉謙信に小田原城を囲まれても大丈夫だったことに安心した面もあり秀吉との戦いでは、これが裏目にでました。また昔から関東の地は京都から独立を志向する風土でもありました。また当初は家康、伊達とも同盟を結んでいて、ほぼ東日本をこの三家が支配し、十分に秀吉に対抗していました。
■天皇の影響
京都近くで行われる戦争では天皇から和睦の勧告等が行われました。ただ関が原と大阪の夏の陣、冬の陣では出ませんでした。家康が京都から離れた関が原で戦ったのは、そういった理由もありそうです。
→ 戦国武将「凄い生き方」
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2006.07.29
【書 名】リアルタイム日本史
【著 者】明石散人
【発行所】講談社
【発行日】1996/10/28
【ISBN 】4-06-208238-1
【価 格】1700円
日本史の有名な事件を別の視点から描いています。
例えば忠臣蔵の松の廊下。浅野内匠頭に対して吉良上野介がいじわるをしたのが発端といわれていますが、知的所有権という観点からみてみると見方が変わってきます。
吉良家は無形のしきたりなどのサービスを提供し、それで対価を得る家です。吉良家はしきたりなどを身につけるために長年の努力と費用をかけています。今風に言えば特許をとるのに時間、費用ともにかかったということです。
当然、そのノウハウを他家が得るにはライセンス料を支払う必要がありますが、吉良家からはプライドもあるので要求はしません。言わずもがなの世界です。
そこへ無形のサービスなどに金を払うことが考えれない田舎の大名が接待係となれば...サービスをタダだと考える風潮は今も続いています。
また秀吉の奥さんである「ねね」が徳川の味方をして、豊臣家は滅びますが、面白い表が掲載されています。ねねと秀吉の系譜を並べたもので、関が原の戦いの頃には秀吉の近親は秀頼だけ、ねねの近親も実家の木下家ぐらいになっていました。つまり「ねね」VS「淀君」の純粋な女性の意地の戦いの構図になってしまったようです。
→ リアルタイム日本史
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2006.07.15
【書 名】伊賀天正の乱
【著 者】横山 高治
【発行所】新風書房
【発行日】2006/3/1
【ISBN 】4-88269-310-0
【価 格】1575円
津の本屋に平積みになっていました。
伊賀神戸駅から伊賀線に乗って3駅ほど乗ると丸山駅があります。無人駅で何の変哲もない田舎の駅ですが、少し離れたところに丸山があります。ここにあった丸山城が第一次伊賀天正の乱の舞台になりました。
名家である北畠家をのっとった(北畠)織田信雄が丸山城を築城。丸山には城下町も出来、賑わっていました。最初は協力的でしたが、どうもおかしいと感じた伊賀の豪族が結束し反撃に出て、第一次は失敗に。
2年後には織田信長が軍を率いて攻め込みます。これが第二次天正の乱です。ただゲリラ戦を展開されたため、ベトナム戦争の様相に、最後は赤目近くにあった柏原城での攻防戦までもつれ和議となりました。
伊賀神戸あたりを近鉄電車を通過しながら読むにはなかなかいい一冊です。
→ 伊賀天正の乱
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2006.07.03
【書 名】近世大阪の町と人
【著 者】脇田 修
【発行所】人文書院
【発行日】1986/10/5
【ISBN 】4-409-52004-0
【価 格】2000円
江戸期の商都大阪を舞台にしています。
道頓堀の由来は安井道頓か成安道頓の二つの説がありますが、どうも成安道頓のようですね。成安道頓は大阪の陣前から道頓堀を掘り始め、大阪の陣では城中で討死します。大阪の陣の頃にはだいぶ出来ていたようです。その後、安井、平野氏が引き継いで完成させます。
安井氏というのは久宝寺の豪族だったそうですが、大阪の陣では徳川側につきました。道頓堀の南側に芝居町をつくることに尽力したため、恩義に感じた芝居小屋では安井桟敷といって安井氏のためにいつも一枡分の席をあけていました。
大阪の町人(鴻池別家の草間伊助)の面白い武士に対する批判が掲載されています。凶作や豊作で米の値段が動きますが、武士が困窮するとは何事だという批判です。町人は自分の力で稼いでいるうえに耐えているのに、年々決まった収入のある武士が困窮することは日頃の覚悟が悪いと痛烈ですね。なんか現代の公務員批判のようですが
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2006.06.27
【書 名】「歴史街道」を駆けぬけた武将たち
【著 者】横山 高治
【発行所】新風書房
【発行日】1996/08/01
【ISBN 】4-88269-339-9
【価 格】1500円
■出世払い
藤堂高虎が浪人していた頃に吉田(豊橋市)あたりを放浪していた時に餅屋で無銭飲食してしまいましたが、店主に旅費まで助けてもらったそうです。後に伊勢の津藩の藩主となり江戸に向かう途中に、この餅屋で行列を止め、お礼をして家臣一同に餅をふるまったそうで、これが「出世払い」の語源なんだそうです。
■長野工藤氏
津から伊賀上野に向かう途中にあるのが長野峠です。このあたりに長野城を築き本拠にしていたのが長野工藤氏です。曽我兄弟の仇討ちの敵役で有名な工藤祐経が全国の各一箇所の領地を賜って、子孫が移植したところで長野工藤氏の祖は工藤祐経の三男にあたります。
この一族の分部光嘉が17歳の時に信長の伊勢攻めが始まります。一族が信長と徹底抗戦しようとした時に、信長につき一族を破滅から守ります。後に伊勢上野城の城主に。
関が原の合戦の前哨戦として安濃津城の攻防戦が行われました。小西行長、宇喜田秀家などの西軍3万が津城の2千におそいかかりますが、分部光嘉は津の観音堂境内で16人の兵と激しく戦いました。多勢に無勢で和議に、この後に関が原の合戦が起きます。
後に伊勢上野城から近江の大溝に移りますが、大溝藩2万石は明治維新まで続きました。
■岩田川合戦
津の岩田川には百五銀行の本店がありますが、ここで南北朝の戦いが行われました。南北朝の和解で、双方から順番に天皇になるという約束がありましたが、これが反故に。南朝方の北畠満雅が多気から出陣し、幕府軍と岩田川で戦い戦死します。
北畠家は結局、信長に滅ぼされてしまいますが、北畠家の城主の妻が松永弾正の娘です。また大和の兵も多数派遣されていました。信長の北畠家攻撃で全員玉砕してしまいます。翌年、松永弾正が信長を裏切りますが、こんなところに伏線があったんですね。
■関氏
亀山あたりの本拠地をおいていたのが関氏です。平重盛のニ男である資盛が伊勢にいた頃に村の有力者に生ませた子供が祖になり、平氏滅亡の時に鎌倉に護送されますが、頼朝は一命を助けます。北条時政に預けられ、6代後に南北朝の頃に、現在の亀山へ戦国時代には長野工藤氏や北畠氏とよく戦っていました。
→ 『「歴史街道」を駆けぬけた武将たち』
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2006.06.16
【書 名】真説・智謀の一族 真田三代
【著 者】三池 純正
【発行所】洋泉社新書
【発行日】2006/06/21
【ISBN 】4-86248-039-X
【価 格】820円
真田一族の先祖はよく分かっていませんが、信濃の名門であった滋野氏と密接に関係があったようです。この一族は一度は没落しましたが、真田が武田信玄のもと復興、発展させ、信長、秀吉、家康の時代にわたり守り抜きました。
真田と言えば関が原に向かう秀忠軍を釘付けにして関が原へ遅参させたことが有名ですが、どうも真相は違うようです。
上杉攻めのために宇都宮あたりにいた秀忠軍に家康がすぐに中仙道を行くように伝えたため、中仙道を行軍しましたが小諸あたりで路銀が不足してしまったようです。そこで、路銀の調達に本田正信が江戸に行っている間に、目の前の上田城を攻めました。それを追い払うために真田昌幸が兵を出した程度の小競り合いでした。
ところが結果的に関が原に遅参となったため、まさか路銀の不足とは言えず、家康も秀忠の名誉のために真田に罪をなすりつけたのが真相のようです。
いずれにしても六連銭の旗印を掲げ、最強の徳川に三度も挑み、三度とも退けた真田の名前は語り継がれることになります。
→ 『真説・智謀の一族 真田三代』
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2006.06.09
【書 名】織田信長 破壊と創造
【著 者】童門 冬ニ
【発行所】日経ビジネス人文庫
【発行日】2006/05/01
【ISBN 】4-532-19346-X
【価 格】838円
日経ビジネスに1年間にわたり連載されていたものをまとめたものです。日経ビジネスですので歴史物でありながらビジネスよりの視点が書かれ面白い信長論となっています。
■槍の試合
秀吉と槍奉行の上島主水の試合。双方50名ずつの足軽で戦いました。上島は一人一人に槍の技を教えました。
秀吉は50人を3つの班にわけ、最前列の班は槍をふって相手の足を払い、二段目の班は槍で頭を殴らせ、三段目の班突き倒しました。結果は秀吉の圧勝です。個人の力でなく組織力で戦った成果でした。
■安宅船
本願寺に対する海上封鎖を突破しようとする毛利軍の目の前に現われたのが鉄で船体を覆った安宅船です。この安宅船はもともと淡路島の海賊、安宅甚五郎の造る船のことを差していたそうです。
→ 『織田信長 破壊と創造』
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2006.06.05
【書 名】江戸時代の設計者
【著 者】藤田 達生
【発行所】講談社現代新書
【発行日】2006/03/20
【ISBN 】4-06-149830-4
【価 格】740円
副題が『異能の武将 藤堂高虎』です。外様大名ながら家康の腹心として働いた藤堂高虎です。
自分の求める主君を探すためにいろいろと渡り歩き、ついにめぐり合ったのが秀吉の弟の秀長です。秀長の重臣として活躍しますが、やがて秀長が死に、甥の秀保が継いだので、盛り立てますが、この秀保も17歳の若さで死んでしまいました。もう武士をやめようと高野山に入りますが、惜しんだ秀吉が説得してまた武士に復帰します。
■大阪夏の陣、冬の陣
きっかけは方広寺の鐘に「国家安康」の文字があり、家康を呪詛するものだという難癖ですが、まず指摘したのが以心崇伝です。この以心崇伝は藤堂高虎の奥方の親戚にあたります。
また大阪冬の陣が終わった後に鐘銘を起草した東福寺の文英清韓と鐘を製作した鋳物師辻家を高虎の領地である津に迎えて保護したという後日談があります。黒幕は高虎だったんですね。
■なぜ再利用されるのか
城郭を作る際に、古い城の城郭を移築することがよく行われています。これは木材は切り出して、すぐには反って加工できないので、ある程度ねかせておく必要があるからです。そこで旧材が珍重されることになります。
→ 『江戸時代の設計者』
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2006.05.06
【書 名】考証織田信長事典
【著 者】西ケ谷恭弘
【発行所】東京堂出版
【発行日】2000/09/20
【ISBN 】4-490-10550-9
【価 格】2800円
ファミリー会東海支部で『郷土の三英傑に学ぶ』シリーズを書いていた時に活用した本です。当時はパラパラと参照しただけで、初めから読んだのは今回が初めてです。
信長を中心とした事典で巻末には索引もついています。信長の兄弟がどうなったかなど、細かいところまで記載されています。また織田家は明治維新時に四家が大名家として続き、旗本でも高家が三家など九家が幕末まで続きました。
■比叡山の焼き討ち
比叡山一帯が焼き討ちされたイメージがありますが、延暦寺根本中堂などを初めとする堂などでは焼失の痕跡が見つかっていません。比叡山山麓・坂本地区の塔頭や日吉山王神社などが焼き討ちにあったのは事実で、これが比叡山全体のようなイメージに変わってしまったよう
す。
■本能寺の変はなぜ6月2日だったのか?
『信長は謀略で殺されたのか』という本がありましたが、この本では光秀単独説をとっています。
信長は馬揃を行い正親町天皇の譲位を迫っていましたが、譲位により即位するのは、信長と親密な関係にあった誠仁親王で、また皇太子となるのは信長の養子である五の宮となります。五の宮が皇太子