【書 名】戦国、まずい飯!
【著 者】黒澤はゆま
【発行所】インターナショナル新書
【発行日】2020/02/12
【ISBN 】978-4-7976-8048-5
【価 格】840円
戦国時代の足軽たちが実際に何を食べていたのか再現する一冊です。赤米、芋がら縄、干し飯などが紹介されています。
■片荒らし
水田がずっと続いている風景というのは最近の話で、古代は焼き畑を伴った陸田や水田が混在していました。これを片荒らしというそうで、施肥と治水の問題からでした。太閤検地の頃まで続いていたようです。
■井伊家
保元物語では源義朝に従う8人の兵が記載されています。その一人が「井の八郎」で鎌倉時代には遠江介に任官され井伊介と自称していました。出羽の秋田城介、相模の三浦介、下総の千葉介、上総の上総介、伊豆の狩野介、加賀の富樫介、周防の大内介と並んで八介と総称されていました。かなり格式が高い家だったようです。
■式年遷宮
大宝令時代からあった倉庫令に干し飯を20年、倉に貯蔵しろという記載があります。伊勢神宮の式年遷宮の20年はここからきているという説があります。米の命が続く限界を国の命の限界とみなし、死と再生の祭りを行うことになり式年遷宮となったという説です。
■焼酎
蒸留酒がインドネシアから琉球に伝わり泡盛になります。これが日本に伝わり焼酎となります。永禄2(1559)年に鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社で大工が本殿の柱に「神社の座主がケチで焼酎をふるまってくれない」と愚痴が書いてあります。これが焼酎という言葉の初出ですが、庶民にまで広まっていました。
真田信繁が九度山から左京に焼酎を送ってくれという手紙が残っていますが、この左京という人物は西山左京至之で足利義輝の孫でした。足利義輝が殺された時に側室が命からがれ逃げて生んだ子供の子供で、左京は細川氏に仕えていましたが生まれが生まれですので客将のような立場でした。この左京と真田家は家族ぐるみの付き合いだったようです。
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