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2026/10/03

戦国日本の資源戦略 秀吉・家康が求めた鉛、硫黄、硝石

 【書 名】戦国日本の資源戦略 秀吉・家康が求めた鉛、硫黄、硝石
 【著 者】上垣外憲一
 【発行所】中公新書
 【発行日】2026/08/25
 【ISBN 】978-4-12-102922-5
 【価 格】1,100円

■王直
倭寇に凝りていた明朝は硝石の日本への輸出を厳禁していましたが平戸の王直が硝石の貿易で儲けますが明朝に滅ぼされます。そこでマカオのイエズス会が硝石を日本に供給することになります。対価は銀でした。

■睦平鉱山
鉛を算出しており野田城、井代城で管理していましたが進出してきた武田信玄に奪われてしまいます。川中島の高いも米子鉱山(硫黄)の争奪戦でした。

■敵に塩をおくる
上杉謙信が日本化ルートで硝石を供給しバーター取引として信玄から硫黄を得ていた可能性があります。硝石は塩硝と呼ばれていました。

■安濃津
中国船が多数来航しており、1451年の遣明船10隻のうち2隻が伊勢の法楽舎(伊勢神宮の仏教寺院)で、伊勢湾から大阪湾への海運が盛んだったようです。
会津の上杉景勝討伐の時には安濃津から三河吉田に船で渡っています。
博多、防津の三ツに比べ安濃津は末津でしたが日本では抜きんでた貿易港でした。
中国船は阿波の椿泊から安濃津に入り硝石を東国の武将向けに販売していました。
川中島の硫黄を塩尻まで陸路で運び、木曽川、伊勢湾で安濃津まで運べば家康は琵琶湖ルートを使わずにすみました。安濃津は家康の火薬庫でした。関ケ原の戦いの前哨戦で安濃津が戦いの舞台となります。

■土木の変
明朝の1449年に河北省張家口市でモンゴル軍と戦い皇帝が捕虜となる大敗北になり、日本から日本刀1万振と硫黄の大量購入が行われました。最も多くの硫黄を運んだのが大友船で、硫黄は鬼界ケ島などからとれました。

■信長の日本海ルート
中国からの密輸ルートで硝石を取引したのが若狭あたりで、ここから越後へ行くルートと南下して琵琶湖から行くルートがあり安土をおさえたようです。

■小牧・長久手の戦い
伊勢湾をおさえていたのが織田信雄ですが秀吉と和睦してしまい、硝石を手に入れるルートがなくなってしまいました。

■関ケ原の戦い
文禄・慶長の役で弾薬の調達は武将の自前でした。硝石が輸入される港は長崎、平戸、堺で秀吉(三成)の管理かにありました。防津、口ノ津ルートもありましたが三成が硝石などを統制していたことから武将たちの反発をまねきます。
小西行長はイエズス会のバックアップもあり弾薬補給で優位でしたが加藤清正は法華宗でした。小西行長が和睦に動くと戦いたい清正は邪魔をしますが補給担当の三成が弾薬を渡さないぞと締め付けます。三成と仲の良くな武将は弾薬、硝石の怨みを三成にもつことになります。弾薬で苦労した清正は肥後で小麦を増産させマニラに輸出し軍需品を獲得する手段を獲得します。

■秀次事件
福建総督が秀吉暗殺計画の謀略をたてており後釜を秀次にする計画でした。内藤如安から小西行長、三成に伝えられたら秀吉に伝えられた可能性があります。

 

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