教科書に載っていない日本史のおカネの話
【書 名】教科書に載っていない日本史のおカネの話
【著 者】丸山淳一
【発行所】中公公論新社
【発行日】2026/03/25
【ISBN 】978-4-12-006012-0
【価 格】1,700円
■永楽通宝
信長が黄色地に永楽銭の入った幟を使っていたと島津家久の状況日記に記録として唯一残っています。織田軍の傭兵募集「足軽募集中 織田軍で手柄をたてて稼ぎませんか」という広告塔だったという説もあります。
■京都の地子銭
光秀は地子銭を永久免除にしましたが、光秀を討った秀吉は無効にしましたが民衆の突き上げがすごく天正19年(1591)に永久免除を認めます。関ヶ原後も免除され、家康はさらに江戸の地子銭を免除し、家光が京都の洛外と堺、大坂、奈良にも免除を拡大しています。ただ秀吉、家康、家光は宣伝しておらず京都の税の免除は不本意な譲歩のようです。後に荻生徂徠が吉宗に「主殺しの明智の恩徳を末代まで人々に有難がらせるとはどういうことか」と進言しましたが既得権益は打破できませんでした。
■町奉行
明治維新までの約300年で南北あわせて約100人が町奉行を勤め、平均在職期間は5~6年ほどで、なかには過労死する町奉行もいました。
■萩原重秀
幕府財政の立て直しのため元禄8年(1695)から貨幣改鋳を行います。新しい元禄小判は純金の含有量を85%から57%に減らし、代わりに銀の含有量を増やしています。改鋳にあたっては世間の金銀を増やす、マネーサプライの拡大とアナウンスをし、改鋳で損をしたのは庶民ではなく富裕層でした。慶長小判を元禄小判に交換する時に目減りし、富裕層に対するステルス増税となります。富裕層は小判をためるのではなく投資するようになり「貯蓄から投資」へ経済活性化効果もあがります。ところが経済をゆく分かっていない新井白石が批判をしたことから萩原重秀のイメージダウンになります。
■吉原
元吉原、新吉原をあわせて27回も火事にあっています。明暦の大火では全焼したため新吉原に移転します。
■小栗上野介
上司に忖度せず抜本的な改革を進言し、却下されると職を辞しますが、他の人材にはつとまらず上層部からすぐ呼び戻され、「小栗さんのお役替え70回」といわれています。
幕末、金貨の国外流出が問題となしますが内外の金銀比価に大きな差はなく、問題は一分銀とドルとの交換レートにありました。一分銀は紙幣のような名目貨幣ですが領事のハリスが計量通貨だと言いだし、1ドルを一分銀3枚と交換せよと日米修功通商条約で決まってしまいます。どうもハリスは京での開市を求めていたようで、そんなことをすれば尊王攘夷派が暴発するので要求をのんだようです。これで小判が流出してしまいインフレを起こしてしまいます。
万延元年に日米通貨交渉が行われれワシントンで小栗が顛末を説明し、新たに発行した安政二朱銀と1ドルを交換する交渉しますがアメリカは認めませんでした。小栗の主張は理解していましたが、認めるとアメリカが日本の国益を害したことになり賠償金の問題もでるため、無視したようです。もし案が通っていたらインフレは終息し、倒幕勢力を抑えられた可能性もあります。
■江戸―横浜間の鉄道
アメリカが収益を独占するという許可状を幕府にのませていました。驚いたのは新政府で大隈重信は王政復古の号令がでた後の日付なので幕府に許可を出す権利はないと無効にして建設することになります。ただ大隈重信が「一生の不覚」と悔やむのが狭軌を採用したことです。
■第一回国勢調査
明治38年(1905)、ふだん住んでいる場所ではなく十月一日午前0時にいた場所で調べたため、当日は旅行や外出を控える人が続出しました。統計の重要性を重視していたのが大隈重信で統計院を設立しています。福沢諭吉に協力を求め慶応技術から統計院に人材を送り込んでいました。
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