【書 名】シン・関ヶ原
【著 者】高橋陽介
【発行所】講談社現代新書
【発行日】2025/10/20
【ISBN 】978-4-06-541617-4
【価 格】1000円
■秀吉は家康に後をたくした
秀吉は亡くなる前に義弟である家康を後継者に指名しており、関ヶ原の合戦以前から天下人だった
■会津征伐
上杉景勝は8/1に大坂に出仕すると言ってきているが不履行になってから出発すると9月となり、会津攻めの最中に冬になってしまう公算になるため、江戸に出立し、景勝が約束を守れば、そのまま徳川秀忠と大坂へ向かわせ家康自身は半年ほと江戸に滞在する予定でした。既に58歳と高齢だったので、秀忠に半年でもよいので天下の仕置きをさせる実績をつませる意図があったようです。
■警戒していたのは前田と加藤
家康は増田長盛、小西行長、島津維新らを信頼しており、前田利長や加藤清正らを警戒していましたが、実際は逆になりました。
■兵糧
兼松正吉(1000石の領主 軍役は100石あたり4名で40名を揃えていました)が東海道を進むときに草津で2日分、亀山で2日分を渡すなど細かく決まっていました。ただし日が決まっているので、その日に行かなければなりません。
■偽情報
増田長盛、長束正家、前田玄以の三奉行は東下した諸将に「上杉景勝は上洛することになった」と偽情報を流し、領地に戻った領主も多くいました。家康に対して挙兵したのは石田三成でなく三奉行で、毛利輝元が安国寺恵瓊を通じて諸将にクーデターに参加するよう呼びかけます。
■田辺攻め
人質をとる過程で細川ガラシャが自害してしまったため、クーデター政権にとっては信頼をなくすことになります。そこで細川忠興に落ち度があったことにして田辺攻めをはじめます。
■家康の認識
石田三成と大谷吉継が反乱を起こし、毛利輝元は安国寺恵瓊に担ぎ出されたという認識で、味方の三奉行に佐和山を攻撃するよう依頼します。
■大柿城(大垣)
大垣ー佐和山間の通路が東軍で遮断されてしまい、近江からの増援や兵糧を受けられなくなってしまいます。東軍に攻撃をかける予定だったのが小早川秀秋が東軍についたという噂が入ったため、秀秋を攻撃するために山中へ向かいます。最後に出発したのが大谷吉継勢になります。ところが秀秋が裏切ったという情報を知らない諸将は家康が着陣したので撤退したようにみえました。
■関ケ原の戦い
大谷吉継と藤堂高虎との間で戦がはじまります。石田三成は吉川広家が家康と和睦を結んでいることを知らず、また秀秋の兵力も過小評価していたようです。結局、西軍は敗れてしまいます。
→ シン・関ヶ原
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