【書 名】影の日本史にせまる
【著 者】磯田道史、嵐山光三郎
【発行所】平凡社新書
【発行日】2025/05/15
【ISBN 】978-4-582-86082-5
【価 格】1,000円
■曳馬
伊那から来て静岡の浜の津に出ていくから浜馬津が「はままつ(浜松)」に変化したと言われています。浜松はスズキ自動車が来る前から乗り物の町でした。榛名山の噴火で亡くなった古墳時代の王族は伊那谷出身だったようで馬を生産するために移ってきたようです。
■西行
もともと北面の武士であり清盛とは知り合いで高野山に課せられた税金の免除を清盛に頼んでいます。
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」で予告通りに亡くなりましたが、毒薬でコントロールしながら自死したのではとも言われています。
■流通を重視した平氏
音戸の瀬戸-厳島の横の島の岬を切り開く
敦賀から琵琶湖まで運河を通そうと計画
貨幣経済となり1650年頃、江戸幕府ができてから50年ほど清盛が輸入した宋銭が使われていました
■連歌
全国の情報が連歌師によって運ばれ戦のときには軍使にもなりました
■芭蕉
「世にふるは苦しきものを槙の屋に 易くも過ぐる初時雨かな」二条院讃岐
↓
「世にふるもさらに時雨の宿りかな」宗祇
↓
「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉
「ふる」には時間がたつことが隠れています
芭蕉の父親は柘植の出身で福地家一族です。信長の伊賀攻めで道案内したため、いずらくなり福地家は改姓して松尾となり静岡県下河原へ転居します。芭蕉は上野の赤坂で生まれ藤堂家も伊賀上野のよそ者だったので奉公することになります。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」は亡き蝉吟への追悼句になっています。
■竹千代(家康)
父の松平広忠 「神々のながきうき世を守るかな めぐりは広き園の千代竹」
神々は長く続くこの心配な世の中を守ってくれるんだなあ、周囲が広いお庭の永久に青々と茂っている竹垣を」
ここから竹千代と名付けられます
徳阿弥が連歌でうまく取り仕切り松平家の婿となり松平家にも酒井家にも子をつくり松平郷から三河国へと拡がっていきました
菩提寺には将軍の寺を意味する大樹寺と名付けます
■版権
版木は摩耗するので売ってしまいます。「貝おほひ」の板木も六刷ぐらいで版木ごと売られました。
■蓑虫庵
枕草子に「ちちよ」と鳴く蓑虫の話が出てきます。ここから英一蝶が「蓑虫の音を聞きにこよ草の庵」とよみ、芭蕉が土芳が伊賀に開いた庵にこの画賛を贈りました。ここから「蓑虫庵」と名付けられます。
→ 影の日本史にせまる
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