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2024/11/20

吾妻鑑 鎌倉幕府正史の虚実

 【書 名】吾妻鑑 鎌倉幕府正史の虚実
 【著 者】藪本勝治
 【発行所】中公新書
 【発行日】2024/07/25
 【ISBN 】978-4-12-102814-3
 【価 格】1000円

承久の乱に際し、北条政子が演説しますが頼朝以来の系譜が政子を介して北条泰時に接続することがテーマになっています。そのために都合が悪いことは記載せず北条に有利なように記載されています。

■富士川の合戦
頼朝が官軍と対峙したが、水鳥の飛び立った羽音に驚いた平家方がパニックになって平家勢は戦わずに逃げたと吾妻鑑にでてきます。頼朝は合流できず甲斐源氏単独で戦に臨んだようです。平家方は富士川近くに宿泊しますが逃亡や武田方に寝返る兵が続出して戦わずに撤退したようです。

■生田の森・一の谷の合戦
源範頼が福原まで攻め込み、山手は多田行綱が攻め、搦手を義経が担当します。後白河院が糸をひいていて平家方には和平をもちかけ、だまし討ちをすることになります。

■屋島攻略
義経は出陣1ケ月前から兵糧を集め、渡辺党、熊野水軍、河野氏水軍を組織し四国の反平家勢力に連絡をとって入念に準備をしていました。壇ノ浦でも瀬戸内海の制海権をおさえ、源範頼が彦島を包囲する着実な事前工作を行っていました。

■腰越状
実際は義経は頼朝と鎌倉で会っているようです。黒幕は義経が追討されると一番得をする北条時政が手を回したようです。

■実朝暗殺
北条義時が体調が悪いと行列に供奉せず源仲章が間違えて殺され難を逃れたという話になっていますが、公卿・殿上人のみでの儀式で低身分の義時らは中門に留まっていました。また三浦義村が黒幕という説がありますが、北条も三浦も実朝を暗殺するメリットはなく公暁による単独犯のようです。

実朝が唐船を作ったが浮かばなかったと書かれていますが、実際には宋に向けて使者を乗せて船出しています。

■承久の乱
後鳥羽上皇の意図は倒幕ではなく、北条から三浦にすげかえることことを狙っていたようです。

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2024/11/15

宗教の日本史

 【書 名】宗教の日本史
 【著 者】本郷和人
 【発行所】扶桑社新書
 【発行日】2024/11/01
 【ISBN 】978-4-594-09770-7
 【価 格】900円

■密教流行の理由
顕教は修行者が一つ一つ教えを積み重ねる必要がありますが密教は仏の血からを借りて短期間で悟りに達するため貴族は歓迎しました。

■院家
独立した財産や建物をもつ寺院で比叡山や東寺といった寺院の支院として機能する寺院。トップが院主となり院家のなかで格が高くなると門跡と呼ばれるようになります。

■懺悔
夏の修行中に僧侶同士で行いました。自分の問題点や罪をさらけだし互いにそれを乗り越えるために助け合います。民衆は対象外ですがキリスト教が入ってきたときに懺悔という言葉であらわされるようになります。キリスト教ではデウスを大日如来といっていたので仏教界も問題にしていませんでしたが、お稚児さんのような男色文化を宣教師などは認めず、反目しあうことになります。

宣教師は殉教することを覚悟して遠い異国に布教にむかいますが、殉教は文化や文明がしっかち確立された場所でないとダメです。戦国時代で条件にあうのは日本だけでした。

■十方住持制
全国各地の禅寺をまわって経験を積んでいく修行ですが、度弟院(つちえん)という師匠から弟子と受け継ぐ仕組みです。これを痛烈に批判したのが一休禅師です。

■長養
悟りをえたら修行が終わりではなく、悟りを開いた後も状態を維持するために不断の努力が必要になります。

■辛酉(しんゆう)
「かのえとり」とも呼ばれ天命が改まると考えられました。
60年ごとに訪れる辛酉の年が21回めぐる1260年ごとに、この世を揺るがす大革命が起きる考え方があります。明治になって考え601年が辛酉の年で推古天皇と聖徳太子の時代でした。さらに1260年を遡った紀元前660年を神武天皇の即位としました。これが皇紀になります。

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2024/11/13

嘘だらけの日本中世史

 【書 名】嘘だらけの日本中世史
 【著 者】倉山満
 【発行所】扶桑社新書
 【発行日】2024/11/01
 【ISBN 】978-4-594-09896-4
 【価 格】960円

■上皇
天皇にならなくてもなれた事例-承久の乱の後、北条泰時は後堀川天皇を擁立。ただ9歳なので父親の守貞親王(出家していた)が院政を行うことになります。不登極帝の初例となります。北条泰時は御成敗式目を制定しますが、現在の民放にある20年時効ルールに引き継がれています。

■元寇
北条時宗-7代将軍である惟康王を臣籍降下させ源康王にします。モンゴルと戦うために源氏の征夷大将軍を担いで北条氏が代行する形が必要でした。ことが終わると源康王は皇籍復帰して親王に戻ります。反対派は二月騒動で排除し、備えます。時宗はいざとなれば天皇を鎌倉に移して戦う覚悟です。

■天下一同の法
北畠親房が京都・鎌倉を同時攻撃し三上皇などを南朝に拉致してきます。北朝は機能停止となります。この時に弥仁王の出家を辞めさせ親王もふっとばして天皇としますが、三種の神器が南朝にあり治天の君がいないと儀式ができません。そこで上皇の母親だった広義門院に頼み込みます。取り仕切ったのが佐々木道誉です。天下一同の法は正平一統以後の法令のすべてを無効にしそれ以前に戻すとんでもない宣言。これで北畠親房のたくらみは無効になります。南朝は3人の上皇などを養えず京都に返してきます。

■比叡山焼き討ち
1435年 足利義教、1499年 細川政元、1571年 織田信長

■五世の孫の原則
律令では皇位を継がない系統の皇族は5世以内に皇室を離れます

■後花園天皇
男子が生まれ後土御門天皇になりますが、他に皇族がいないため傍系継承する寸前でした。そこで弟の貞常親王に命じて伏見宮家を永世皇族にしました。明治には十一宮家となり昭和になって臣籍降下し旧皇族となりますが全て伏見宮家の子孫になります。

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戦国の山城をゆく

 【書 名】戦国の山城をゆく
 【著 者】安部龍太郎
 【発行所】集英社文庫
 【発行日】2024/10/25
 【ISBN 】978-4-08-744704-0
 【価 格】660円

■岩村城
頼朝は加藤景廉(伊豆出身)を遠山荘の地頭職に任じます。伊豆は造船用の木材の供給地で木曽の木を供給地にするためです。兄の加藤光員が伊勢の地頭に任じられ木曾の木材を水運で伊勢湾に流します。加藤景廉自身は鎌倉にいたので代官を派遣し、岩村城を拠点にしました。加藤氏が遠山氏になります。

■朝倉氏
但馬国朝倉荘(兵庫県養父市)を名字にします。

■洲本城
安宅氏ー紀伊熊野安宅荘の出身
秀吉の中国大返しでは秀吉が淡路島の北にある岩屋城を確保し、淡路島をおさえます。これで長曾我部軍は光秀のために出兵できなくなりました

■賤ヶ岳合戦
柴田勢は伊勢の滝川一益を助けるための後詰であり、持久戦で先に動いた方が負けとみた秀吉は播磨へ移動して、おびきだす作戦をとることを秀長に伝えていました。ところが織田信孝が動いたため播磨ではなく岐阜へ向かうことになります。

別所山にいた前田勢が最前線の茂山に移動。尾根伝いに神明山、堂木山を攻め包囲網の一角をせめ、あわせて柴田軍が東野山に攻めかかる作戦だったようです。佐久間盛政は後詰のはずが、行市山から集福寺坂を迂回して前田勢を追い越し、権現坂と下って余呉湖の湖畔に出て中入りを行います。軍令違反でした。用意していた秀吉軍は退却に手間取っている佐久間勢を攻撃します。

前田利家が敵前逃亡したという噂がたちますが、秀吉は府中城へかけつけて利家を説得したのではないかという説です。秀吉は右腕が必要なので最初から秀吉と話を通じていたことにしないかともちかけます。利家は家の安泰と加増に決断せざるをえません。結果をみて世間は最初から話ができていたと考え、敵前逃亡のうわさが流れます。

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2024/11/10

戦国時代を変えた合戦と城

 【書 名】戦国時代を変えた合戦と城
 【著 者】千田嘉博、平山優
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2024/10/30
 【ISBN 】978-4-02-295276-9
 【価 格】1273円

徳川家康を中心に桶狭間から大坂の陣までに対談です。

■大高城
松平元康が1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで大高城へ兵糧を入れたと有名ですが他の記録では永禄元年や永禄二年と記載されています。陸路ではなく船運を使っていたはずで、また鳴海城には大高城にいれた兵糧をまた船で運んだ可能性が高そうです。

■三方ヶ原の戦い
三河からの陸路が3つあり、東海道、姫街道、鳳来寺道がありますが鳳来寺道は武田信玄によって塞がれます。姫街道も危ない状況で東海道が残っていますが浜名湖は水運になっています。三方ヶ原にあがった武田信玄は水運を握る堀江城に向かいそうなため、攻撃せざるをえなくなります。

■長篠の合戦
最初は互いに鉄砲を使った戦いですが経済封鎖にあっていた武田方の弾がきれるロジスティックスの格差がありました。長篠がある奥三河には睦平鉛山があり、徳川側の弾の原料である鉛に使われていたようです。この鉱山の取り合いでもありました。武田方の武将は撤退時に討ち死にが多く、勝頼を逃げさせるために身代わりになっていたようです。

■後継者教育
自分でできてしまうため権限移譲などができず上杉謙信、武田信玄などうまくいきません。家康も晩年になって、ようやく後継者教育ができるようになります。うまく代替わりできたのは北条氏ぐらいです。

■江戸時代の町屋
日本橋に江戸橋と同じ三階建て白漆喰の町屋を作らせていますが、費用は町人もちです。その代わり正月に江戸城で将軍に挨拶にいける得点がありました。

■名古屋城
釘や金具の発注で家康は入札制度を導入していました。

■関ケ原の合戦
南宮山の山頂には小規模な砦が2つしかなく、毛利秀元軍は山麓に布陣していたようです。竹中重門の菩提山城も東軍に寝返っていましたので難なく家康は関ヶ原へ進軍できました。

■大坂城
千畳敷が懸造という説がありましたがオーストリア・エッゲンベルク城所蔵の豊臣期大坂図屏風には描かれていません。

→ 戦国時代を変えた合戦と城

 

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2024/11/08

大使が語るリトアニア

 【書 名】大使が語るリトアニア
 【著 者】オーレリウス・ジーカス
 【発行所】星海社新書
 【発行日】2024/09/24
 【ISBN 】978-4-06-536720-9
 【価 格】1300円

■ハロウィーン
ケルトとサウィンがハロウィーンになりますが亡くなった親族を思い出し、彼らに食事を備える行為です。リトアニアではヴェーリネスという使者の日があります。

■リトアニア
一番高い山が標高294mしかない草原や森林が続く国です。有名な日本人が杉原千畝ですが在ウラジオストク日本国総領事館の根井三郎がシベリア鉄道の長旅を終えた難民に手を貸しました。
小国なので言語教育に力をいれ人口の78.5%は少なくとも二ケ国語ができます。

■蜂蜜
中世のエネルギー資源は薪と蜜蝋で蜂蜜は照明器具として使われました。

→ 大使が語るリトアニア

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2024/11/05

伽耶/任那

 

 【書 名】伽耶/任那
 【著 者】仁藤敦史
 【発行所】中公新書
 【発行日】2024/10/25
 【ISBN 】978-4-12-102828-0
 【価 格】900円

副題が「古代朝鮮に倭の拠点はあったか」です。日本史で任那日本府と倭の拠点があったと習いましたが、どうも違うようです。

■馬韓、辰韓
313年に楽浪郡が高句麗によって滅ぼされ翌年には帯方郡が滅亡します。朝鮮南部では自発的な国家設立となり馬韓からは百済が辰韓からは新羅が生まれます。伽耶諸国の台頭もこの頃で中心となる金官の前身は狗邪韓国である。

■神功皇后
魏志倭人伝に卑弥呼や台与と記載されているため神功皇后の在位期間を120年さかのぼってあわせたようです。

■任那日本府
倭系の人々の総称のようで吉備氏らが伽耶諸国に居住していました。百済は地方官僚に倭系百済官僚を任命していたようで、未服属地域には倭系豪族の軍事力に期待して任命していました。韓国にある前方後円墳はこの豪族の墓のようです。日羅は九州の豪族の子で百済官僚でもありました。

■任那四県の割譲
大伴金村が責任をとらされますが、実態は百済が南韓へ侵攻し、日本としては進出する前から割譲した形で辻褄をあわせたようです。

■任那の調
任那はなくなりましたが百済・新羅が任那から任那の名前で調をおさめさせます。これも建前です。

→ 伽耶/任那

 

 

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2024/11/02

あの日、小林書店で

 【書 名】あの日、小林書店で
 【著 者】川上徹也
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2024/10/15
 【ISBN 】978-4-569-90446-7
 【価 格】900円

JR立花駅北側商店街のはずれにあった小林書店をモデルとした小説。書店は2024年5月末に閉店しました。

■話題のあの傘あります
本以外の販売ということで傘にめをつけましたが。その時につけたキャッチコピー。

■感謝
店主の夫が注文された本をポストに入れた時に家に向かってお辞儀をしていました。理由はたくさんの本屋があるなかで小林書店を選んで買ってくれたんや。自然と「ありがとうございました」と頭が下がるやろう。

■フェア
百人文庫
書店の常連などに選書してもらい実名やプロフィールと選書した理由を発表

推し本トーク
ホンコン-書店で本の合コン

→ あの日、小林書店で

 

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