戦国武将を推理する
【書 名】戦国武将を推理する
【著 者】今村翔吾
【発行所】NHK出版新書
【発行日】2024/03/10
【ISBN 】978-4-14-088717-2
【価 格】1080円
■秀吉
1月1日生まれとされていますが、天文6年(1537)2月6日生まれと考えられています。
武辺をば今日せず明日と思ひなば、人におくれて恥の鼻あき
(明日こそ功名をたてる、そうした考えでは人に後れをとり、人の鼻を明かすどころか恥の上塗りになってしまう。好機は今ここで掴みとれ)
金ケ崎の退き口が秀吉の大きな賭けでした。実際に殿を指揮していたのは池田勝正ですが、退き口の2ケ月後に家臣の裏切りで追放されたため歴史から埋もれてしまいました。
■関ケ原の合戦
偶然にも信康が切腹した同じ9月15日で「年老て骨の折るることかな。倅がいたらば是程にはあるまじ」と独り言をもらした逸話があります。
■信玄
およそ戦というものは、5分をもって上とし、7分を中とし、十分を下とす。5分は励みを生じ、7分は怠りを生じ、十分はおごりを生ず。たとえ戦に十分の勝ちを得るともおごりを生ずれば、次には必ず敗れるものなり
百人のうち九十九人に誉めらるるは、善きものにあらず
為せば成る成さねば成らぬ 成る業を 為さぬ捨つる 人のはかなさ
信玄が西に向かう時、天台座主沙門信玄の肩書で進軍します。信長は比叡山を焼き討ちしており大義名分になりました。
■松永久秀
出自については西岡、阿波説がありますが、有力なのが摂津五百住(よすみ)説です。
■石田三成
江戸時代初期の「一柳家記」で賤ヶ岳の戦いで一番槍の功名をあげたのは一柳直盛。大谷吉継、石田三成と書かれています。武の才能もありましたが、それ以上に文の能力が大きかったです。加藤清正は武のイメージが強いですが、小牧長久手の合戦では150名の兵しか率いておらず、後方支援をしていました。
秀吉の朝鮮出兵で撤退を進言した武将としてフロイスの「日本史」に小西行長、大谷吉継、石田三成の名前があがっています。
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