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2024/03/23

新説 徳川家康

 【書 名】新説 徳川家康
 【著 者】野村 玄
 【発行所】光文社新書
 【発行日】2023/11/30
 【ISBN 】978-4-334-10131-2
 【価 格】1240円

■上杉攻め
島津義弘を伏見城城番にすることを考えていましたが、島津義弘は公儀の命令と受け取っていました。
家康は朝廷の承認を得て会津攻めをしており頼朝の奥州合戦をなぞったものと考えられています。頼朝は前九年の役の追体験を鎌倉武士にさせ権威を高めるところにありました。家康は鶴岡八幡宮を参拝し源氏の頭領として振舞おうとしていました。

■秀吉の失敗
豊臣英次に関白職とともに豊臣氏長者も渡してしまい失敗したのをみていた家康は秀忠に将軍職は譲りましたが源氏長者は保留しました。
片桐且元に伝えられていたのは秀頼が15~20歳になるまでの間、秀頼に天下を治める器量があれば秀頼に天下を渡してほしいというものでした。家康が書いた起請文は秀吉の御棺におさめられました。大坂の陣が終わってから豊国社を封鎖しますが、廟所を破却することはできないが存続するのも困るので破却にちかい形にしたようでう。

■秀吉の遺言
秀頼を伏見城から大坂城へ移し、15歳になっていたら大坂城を出るように遺言していました。

■関ケ原の合戦
秀忠への当初の命令は上田攻めで途中で方針が変わりましたが命令を伝える使者が適切な時期に到着しませんでした。
三成と大谷吉継が決起した時、淀と三奉行は家康に上洛するように求めています。
大垣城には兵糧がなく小早川秀秋の野心が伝わり、籠城戦は無理ということで関ケ原へ移動することになります。吉川広家が評定に参加すると三成らは佐和山までひくとのことで吉川広家は関ケ原の戦い以前に家康に降伏することになります。
小早川秀秋隊は山中で大谷吉継隊と戦い撃破した後に関ケ原の戦線に加わります。

■伏見城
焼けた伏見城を再建し家康が入ります。将軍任官を目指し新政権樹立のためですが、これで秀頼の居城と領地が確定されます。淀が羽柴家の女主人としていろいろな問題に対処せざるをえず、結果的に秀頼親子を追い詰めることになります。

■伊達政宗の提言
秀頼を大坂城から出して江戸か伏見におき、2、3ケ国を与えるのがよいと提言しています。でないと秀頼を担ぎだものがでて切腹させるようなことになれば秀吉に顔向けできないという内容で、政宗が予言したとおりになりました。

→ 新説 徳川家康

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