秀吉と海賊大名
【書 名】秀吉と海賊大名
【著 者】藤田達生
【発行所】中公新書
【発行日】2012/01/25
【ISBN 】978-4-12-102146-5
【価 格】760円
■河野氏
道後温泉のすぐ近くに湯築城があり、本拠においていたのが瀬戸内海の海賊大名だった河野氏。長宗我部、毛利、秀吉などに翻弄されて最後は滅びます。四国出身の大名で生き残ったのは来島氏(豊後森藩)だけでした。本貫は風早郡河野郷(松山市)で伊予を代表する名門武士。被官だったのが村上氏です。
■真鍋氏
本貫は備中にある小田郡真鍋島で備中守護である細川氏の被官でしたが細川氏の分郡がある和泉や伊予にも進出します。淡輪にも移住し円墳がある真鍋山として地名が残っています。淡輪付近に海関を設けていました。細川氏が没落すると三好氏に従い、織田信長が入京すると和泉国衆は織田に従うことになります。真鍋貞友は木津川の戦いにも参加し討死しています。
■湯川氏
信長に敗れた足利義昭は紀伊に移ります。幕府奉行衆だった湯川氏を頼ることになります。長篠の合戦で武田勝頼が破れ、信長と石山本願寺が和睦することもあり、次に毛利をたのむことになります。毛利輝元は副将軍という立場となり家格があがります。単なる戦国大名ではなく公儀の一翼として諸大名と交わることができるようになります。
■鞆の浦
豊後水道から伊予灘へ向かう海流と紀伊水道から播磨灘に向かう海流がぶつかる中心地。干満差を利用して船が集散するため情報が集まりました。足利義昭が鞆幕府を作った時、北畠具親(伊勢国司)、仁木義政(伊賀守護)、武田信景(若狭守護)、内藤如安(丹波守護代)、六角義治(近江守護)が亡命してきています。
■本能寺の変の遠因
織田政権で中国・四国政策の中心だったのが光秀で信長自身も毛利との和平を考えていたようです。光秀は長宗我部とも結んでいました。秀吉といつ裏切るか分からない宇喜田をはずして直接、毛利と交渉していました。毛利と戦うという主戦派の秀吉と宇喜多直家は織田政権では少し浮いた存在です。まずいと思った秀吉が目をつけたのが四国、三好康長と結んで長宗我部と戦い東瀬戸内地域を織田政権側にします。これで織田信長の政策が変わります。光秀は秀吉に破れた形になります。
■高松城の水攻め
信長は毛利との直接決戦を考えていましたが長宗我部の後詰をおそれて中止しました。長宗我部を攻める時に毛利の後詰が問題になります。そこで水攻めにして高松城に毛利軍を引き付けて長宗我部への援軍をできないようにした背景があります。
■国替え
信長、秀吉が考えたのが預治(よち)思想。鎌倉武士いらいの一所懸命ではなく天下人から領地、領民、城郭を預かる形になります。本領を守り抜くという中世武士の価値観こそ戦国動乱を長期化させ泥沼化させた原因だと考えていました。信長は海外から植民地化されないよう適材適所の統一国家をつくらなければと思っていたようです。本格化するのは江戸時代で隣の大名との戦争は起らなくなりました。
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