古代日本の宮都を歩く
【書 名】古代日本の宮都を歩く
【著 者】村井康彦
【発行所】ちくま新書
【発行日】2023/10/10
【ISBN 】978-4-480-07564-2
【価 格】1200円
■田身嶺(たむのみね)
多武峰ではなく酒船石がおかれた嶺ではないかという説があります。両槻宮もこちらにありました。
■難波長柄豊碕宮
孝徳天皇が遷都した難波宮ですが上町台地ではなく梅田の北にある豊崎神社があるあたりではないかという説があります。
■御薪(みかまき)の宴
初位以上の官人が薪を持ち寄って催した酒宴で壬申の乱の後、飛鳥浄御原宮で初めて行われました。
■出身(みやこつかえ)の法
天武2年(673)畿内豪族を対象に実施。豪族の子弟を大舎人に任じて出身(出仕)させ、その中から才覚のある者を選抜して当職(かなわむつかさ)【才能に応じた役所】に配属します。豪族が官人として出仕する道が開けます。
■羅城
ラジョウは呉音で古くはラセイと漢音で呼んでいました。また羅城門があったのは平城京と平安京の2つだけです。
■交野
桓武天皇がしばしば訪れた場所で母にゆかりがある百済王氏の本拠地でした。革命思想を重視しており即位した天応元年(781)は物事があらたまる辛酉(しんゆう)の年だったのがきっかけになった模様。長岡遷都が甲子の年、平安遷都は辛酉の日を選んでいます。
■桓武天皇の遷都
廃止 造営省、勅旨省、造法華寺司、鋳銭司
ただし鋳銭司は8年後に再設置
■伊勢斎王の禊
葛野川から賀茂川に変更されたのは賀茂斎王の制が始まったことが影響した模様。薬子の変に対して嵯峨天皇が賀茂社に事件の終息を願い、賀茂社に奉仕する斎王を決めたのが最初。これ以降、賀茂斎王、伊勢斎王とも賀茂川で禊をすることになりました。
■女御と更衣
女御から皇后にすすむ道があったが更衣の息子には天皇になるチャンスはありませんでした。光源氏の母親は桐壺更衣だったので光源氏は帝になるチャンスはありませんでした。
■鴨川唐橋
九条坊門通りの唐橋は守る人を2人手配するほど重要視されています。橋を渡った道を南下すると平城旧京へ行け、当時は大和大路の起点だった模様。
■和気広世
和気清麻呂の息子。唐から帰った空海を高雄山寺で世話していたようです。嵯峨天皇から東寺をまかされるまで高雄山寺にいました。
■遣唐使
菅原道真が廃止したことになっていますが実際は唐が混乱しているので長安までたどりつくのが困難と判断して今回の派遣を中止しただけで、遣唐使自体の廃止はしていません。実際、10年後に唐は滅びます。その代わりに唐商船がきており、遣唐使も唐商船で帰ってきたりしています。竹取物語でも火鼠の皮衣を求められ唐商船での交易が前提とした物語になっています。
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