柴田勝家
【書 名】柴田勝家
【著 者】和田裕弘
【発行所】中公新書
【発行日】2023/06/25
【ISBN 】978-4-12-102758-0
【価 格】860円
■賤ケ岳の戦い
秀吉にとって最大の敵は柴田勝家で、天下分け目の戦いと認識していました。勝家に不利だったのが与力の不破光治、佐々成政、前田利家で特に佐々成政、前田利家は尾張時代からの知り合いで信長の部下となり、強大な与力で掌握が難しかった点と対していた上杉景勝は御館の乱でも勝ち上がった武将と一向一揆に気が抜けない事情もありました。
■前田利家
利家が信長の同朋衆を殺して信長の勘気を被った時に助力してくれたのが勝家で恩義を感じていました。
■長光寺城
岐阜と京都の間を確保するために永原城に佐久間信盛、長光寺城に柴田勝家、安土には中川重政兄弟を在番させます。
■近江の一向一揆
信長は佐和山城、肥田城に泊まりながら志村城への攻撃を視察。攻撃したのは佐久間信盛、中川重政、丹羽長秀、柴田勝家軍。さらに南下して守山まで陣をすすめて金森を包囲し一揆勢は降伏。
■蘭奢待
信長が蘭奢待を切り取りする時に多聞山城につめていたのが柴田勝家で、十一遠長を伴って上洛し、信長と相談。勅許をえてから多聞山城に入り準備をします。
■本能寺の変
毛利氏と対していた秀吉が捕虜となり助けにいったものの秀吉が殺された。信長が退去したところ甥の織田信澄が謀反を起こして信長が切腹したなどの誤報が伝わっていたそうです。柴田勝家は本能寺の変の情報を宮崎城で得たようで北庄城までの約200kmを強行軍で戻ります。これは秀吉の中国大返しよりも速く。秀吉が戦っていた備中高松城から京都までの距離に比べて1.5倍ほどあったのが明暗を分けました。
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