【書 名】戦国大変
【著 者】乃至政彦
【発行所】日本ビジネスプレス
【発行日】2023/06/30
【ISBN 】978-4-8470-7319-9
【価 格】1700円
■大内義隆
誇張がちなフロイスの影響もあって低評価な大内義隆ですが、大友家などの紛争が終わった後、筑前一国の関所廃止を織田信長の30年も前に実施していました。宣教師の布教もいち早く認めていました。
■徳川家康
桶狭間の合戦では大高城へ兵糧入れをしましたが赤武者の派手な格好をしていました。
■兵糧調達
基本的に現地調達していたようで、強奪したのではなく金銭を支払っての調達だったようです。現地調達できないところは配給制にしていたようで一人一日に米7.5合が相場でした。
■信長の勝機
武田信玄が三方ヶ原で家康を破り、西に向かった時、上杉謙信は信長が比叡山を再興すれば信玄は大義名分を失い手詰まりになるとよんでいました。京都の離宮八幡宮が信長に禁制を求めた時に武田軍の動きを探るように依頼した可能性があります。離宮八幡宮は朝倉家とも縁が深く、信玄上洛を待ち望むと伝えたので武田軍もむげにはせず迎え入れましたが、信玄の病状悪化によって、上洛中断を伝えて使者を返したようです。信長はさっそく謙信に武田が撤退していると伝えます。ただ使者も病状まで信長に伝えなかったようで離宮八幡宮のある大山崎は信長から特権を与えられることはありませんでした。
■小旗(こはた)
明に小旗(しょうき)という軍官がいて10人の集団で引率の仕事をしていました。これが転じて大きな旗を背負う徒士に小旗の名前が普及したようです。映画などで雑兵が家紋の旗を背負って戦っていますが、あれはフィクションだそうです。
■上杉謙信と近衛前久
戦国を終焉させるよ世づくりを考えていましたが喧嘩別れ。上杉景勝の時代になった時に20年ぶりに近衛前久から連絡があり、先の筋目(戦国終焉)のやり直しで説得し、豊臣秀吉へ上杉義景勝が参画することになります。
■関ケ原の戦い
三成は家康との関係は問題なく、佐和山城に隠居した時に息子を家康に人質として出しましたが、家康も息子を佐和山城へ送っています。関ヶ原の戦いで三成がいたのは自害峰のようです。野心家の毛利輝元と大谷吉継がむずびつき佐和山城へ説得して三成を引き込んだという説もあります。輝元が天下をとると自分の居場所がなく、公私の区別をする人物がいなくなるのを配慮した可能性があります。
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