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2023/06/21

謙信×信長

 【書 名】謙信×信長
 【著 者】乃至政彦
 【発行所】ビジネス社
 【発行日】2023/05/29
 【ISBN 】978-4-569-85471-7
 【価 格】1350円


■武田信玄
德川と武田は、自分だけで今川や北条と講和しないと取り決めしたいましたが、家康は掛川城に逃げこんだ今川氏直と和睦し、あわせて北条氏と和睦をしてしまいました。これが三方ヶ原の戦いの遠因になります。
足利義昭は信長と二人三脚で進んでおり、三河に布陣していた信玄に信長・家康と講和するように呼び掛けた時に反対に説得されて、信長と対立することになります。
自身が亡くなる時に後継者を勝頼にしますが陣代にし、風林火山の旗の使用を禁じますが、信長・家康の敵意を信玄だけにして勝頼には講和するように考えていたようです。


■上杉謙信
小田原城を攻撃している時に今川氏直が援軍を送ってきました。ここで謙信は小田原城の包囲をとき鶴岡八幡宮で関東管領職に就任するイベントを行います。余力がない今川氏直が東に派兵したため、家康は信長と同盟を結ぶことになります。
車懸りの陣-旗隊が左右に分かれると鉄砲隊の砲撃が始まり、次に弓隊が弓を放ち、槍隊がすすみ、混乱したところへ騎馬武者が奥深くへ乗り入れる戦法。村上義清が編み出し信玄を苦しめました。信長時代は各部隊がいろいろな戦法で戦っていて、まだ試作の状況でした。村上義清の先鋒がひろまり、豊臣軍の朝鮮出兵で威力を発揮します。大名行列の形で残りました。


■織田信長
那古野-尾張今川の支配する土地だが衰微していたので駿河守護・今川義元の末弟である今川氏豊が派遣されていました。ここを陥れたのが織田信秀。氏豊は京都へ逃げます。
桶狭間の合戦の前年(1559)に信長と斯波義銀は三河の吉良義昭と停戦協定を結びます。今川と吉良による三河平定に危機感をいだいた信長は砦を築いて対抗します。そこで尾張侵攻を計画しますが吉良氏から斯波義銀へ事前に知らされたようで義元に味方することを決め、今川軍を領内にいれようとしますが発覚し、信長は義銀を追放します。信長記を書いた太田牛一は斯波義銀に仕えていましたが、ついていけなくなり信長に密告したようです。
足利義昭-挙兵した時に信長側は交渉しようとしましたが蹴ったのが義昭側で将軍追放となりました。ただ京都へ戻るように画策していたようで毛利のもとに秀吉を派遣しますが、義昭が信長に人質を出すように要請していることから秀吉は独断で交渉を打ち切ってしまいました。
長篠合戦-勝頼は精鋭部隊を編成して正面で戦ったいる高松山の後方にまわらせて挟撃を考えていましたが信長本陣や松平信康本陣はさらに奥の山にあり、ここで鉄砲による攻撃で武田軍は壊滅状態になります。精鋭部隊が崩れたことが大敗の原因だったようです。


■手取川の戦い
秀吉が柴田勝家と喧嘩して勝手に帰ったと認識されていますが、どうも戦場に最後まで残って上杉軍と戦っていたのは秀吉軍だったようです。上杉軍が迫っているのが分かり前田利家、惟任長秀の部隊が崩れ始め、増水していた手取川で溺死者が続出します。上杉軍が迫った時に残っていた秀吉軍が戦いました。敗因は前田利家、惟任長秀による総崩れでしたが信長記には抜けています。太田牛一が惟任長秀の右筆で信長と長秀が亡くなってからは前田領に住んでいたので忖度したようです。

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