日本史の裏側
【書 名】日本史の裏側
【著 者】河合敦
【発行所】扶桑社新書
【発行日】2023/05/01
【ISBN 】978-4-594-09455-3
【価 格】950円
■徳川家康の遺訓
人の一生は重荷を背負いて遠き道を行くがごとし。...徳川光圀の言葉を参考に幕臣が創作したもので、明治になってから旧幕臣の高橋泥舟が一般にひろめました。
■榊原康政
伊勢国の守護である仁木氏の流れをくみ、清長の時代に三河国額田郡に住します。もともとは一志郡榊原から移ったという説があります。
三成側が伏見にいる家康を襲う噂が流れた時、江戸にいた榊原康政は東海道を下り,勢多へきたときに家康の無事を確認。勢多に関所を急遽、作って3日間、旅客や荷物をとめました。そこへ遅れていた徳川軍が江戸から届いたところで関所を開放。とめられていた旅客が京都に入り、何万もの徳川軍がきたと吹聴しました。さらに十万の徳川軍が到着したので食料がたりないと京都で買い集めさせます。三成側への情報戦略でした。
■清
日本独自の暦を作ろうとした背景に漢民族の明が滅んで満州族の清が平定したため知識人は華夷変態(中華が蕃夷に変わってしまった)と呼び、日本こそが中華だという自国中心主義が広まることになります。
■田中芳男
器用だったので幕府の開成所物産方に勤務。昆虫の標本も見様見真似で作り、パリ万博に出展することに。本人も行かされることになり同じ船には柳橋の芸者3人もいて、日本パビリオンの茶店で茶をもてなし大評判になります。現地で博物館の重要性を認識し、東京国立博物館設立などにかかわり、伊勢神宮の農業館を設立します。
■古鉄回収(江戸)
「とっけえべえ」と連呼しながら町中を巡回。作った飴と古鉄を「とりかえよう」と連呼したのが始まりと言われています。
■市木正和(薩摩)
斉彬の密命で琉球王国へ。軍艦の購入、水軍教師の雇い入れ、銃器の購入、薩摩の若者を琉球人として留学させるで、ある程度、進んでいましたが斉彬の急死で頓挫してしまいます。
■廃仏毀釈
寺の跡地を学校に転用することがあり、開智小学校も全久院を廃したあとでした。
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