徳川家康 弱者の戦略
【書 名】徳川家康 弱者の戦略
【著 者】磯田道史
【発行所】文春新書
【発行日】2022/2/20
【ISBN 】978-4-16-661389-2
【価 格】800円
■徳阿弥
諸国を遍歴していた時宗の僧だったようです。三河の大浜郷の酒井という家の娘との間に子供ができましたが、徳阿弥は追い出されてました。山奥の松平郷でも同じように松平家の娘との間に子供ができましたが松平家は追い出さず徳阿弥は松平親氏と名乗って勢力を拡げていきます。家康のご先祖になりますが、追い出した酒井家では徳阿弥の子供が続いて徳川四天王の一人、酒井忠次となります。
■卯年生まれの家康
寅の年、寅の日、寅の刻に生まれたと宣伝していますが実際は翌年の卯年生まれだったようです。家康が征夷大将軍を拝命する時に天曹地府祭という陰陽師が征夷大将軍を呪術的に防御する儀式がありますが、この時に生まれ年を書く必要があり、卯年生まれと家康自身が記載した書類が宮内庁に残っています。
■棲み分け
信長との同盟で家康は東を目指す、信長は西を目指すと共存共栄にしました。武士が朝廷の官位をもらうようになると人数制限もあり公家が困ってしまいます。そこで家康は公家と競合しない征夷大将軍だけで、武士がもらう官位は「当官の外」と別建てにしました。
■今川氏真
家康が今川から離反しようとした時に足利義輝に働きかけ「駿河三州で戦が始まった。関東への進路が不便になるので何とかせよ」と周辺大名に送ります。これで武田信玄が介入してくることになります。
■武田家
八幡太郎義家の三男である新羅三郎の子孫。ひたちなか市にある武田に居を構えますが争いに敗れ甲斐に流されます。これが甲斐武田家になります。新羅三郎の家として御旗という日の丸の旗と楯無という鎧が代々伝わります。楯無は清和源氏に伝わる源氏八領の一つ。
■今川分割
信玄が駿河、家康が遠江を分割することで盟約しましたが、証人として人質を交わしますが、武田は出さず家康は異父弟である松平康俊を送ります。信玄との間が悪化した時に救出作戦を慣行し、生還しましたが凍傷にかかって両足の指を失ってしまいます。
■暗殺計画
武田信玄から庄之助という美男子を送り込んで家康の寝込みを襲わせましたが失敗。伝説とも言われていますが、あながちそうも言えないような状況だったようです。武田が滅ぶと、武田の最強軍団をリクルートし井伊直政に預け自軍の中核にする大胆な軍事改革をしました。これは信長や秀吉もやらなかった人事です。
■土屋家
武田勝頼に最後まで付き従ったのが土屋惣蔵昌恒という武将です。6年後、家康が土屋の遺児を見つけて秀忠の近習にしました。この土屋家は忠臣蔵で吉良邸の隣にあり提灯を掲げて赤穂浪士を助けたことで知られています。
■調査なくして発言権なし(毛沢東)
酒井忠次は忍びを使って調査し、相手の計略をつかんで策を講じていました。
■武田の諜報
いろいろな離間策を講じています。一説に武田と気脈を通じていた明智光秀を穴山梅雪が露見するのではないかと恐れ本能寺の変が起きたという話がある。
■江戸
秀吉が家康に江戸を拠点にするようにしますが軍役をしてもらうことを期待していました。物資や兵を船に乗せて海上輸送するには湾内にある江戸が最適で鎌倉や小田原では無理でした。
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