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2023/01/21

武士とは何か

 【書 名】武士とは何か
 【著 者】呉座勇一
 【発行所】新潮選書
 【発行日】2022/10/25
 【ISBN 】978-4-10-603890-7
 【価 格】1500円


■源頼朝の助命
清盛の継母である池禅尼が頼朝の助命を願いますが、頼朝の母の実家である熱田大宮司家が上西門院統子(後白河上皇の姉)に奉仕しており、頼朝も奉仕をしていた。池禅尼も上西門院と関係があり、頼朝の母方の縁者から働きかけがあったようです。


頼朝は都で官職を得て朝廷で活動していたこともあり知名度が高いため、反乱の中心は頼朝という認識があり、木曽義仲や武田信義も頼朝傘下という扱いでした。


■腰越状はなかった
義経が検非違使になり宮廷に出仕するために大江広元の家臣が作法を教えていたので頼朝は了承していました。また吾妻鏡に腰越状が出てきますが、北条氏の正当化の面も強く創作も多くなっています。義経が待たされていたのは腰越ではなく酒匂宿なので腰越状も存在しないことになります。


挙兵に失敗した義経と行家は九州を目指すため大物浦から船出しましたが暴風雨で難破してしまいます。


■明応の政変
足利義稙、畠山政長が出陣のために京都を留守にしたところで細川政元がクーデターを起こし足利義澄を擁立し、これが実力主義の機運をうみ戦国時代に突入していきます。


■秀吉
出自がよく分かっていませんが小田原征伐の時に「秀吉若輩之時、孤と成て、信長公の幕下に属す」という言葉をいれた朱印状を出しています。若き日に故郷を飛び出し、徒手空拳から成りあがったことは事実のようです。


■関ケ原の戦い
家康が遅れて到着した秀忠を叱責しますが、遅れたことではなく、急ぐために軍勢をバラバラにして手勢だけひきいて西上したことです。合戦に負けた時に軍勢を整えて弔い合戦をしなければならず、秀忠と徳川軍さえ残っていたら家康が死んでも、まだなんとかなると家康は考えていました。

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