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2022/11/30

新説 家康と三方原合戦

 【書 名】新説 家康と三方原合戦
 【著 者】平山優
 【発行所】NHK出版新書 
 【発行日】2022/11/10
 【ISBN 】978-4-14-088688-5
 【価 格】880円


■三州錯乱
三河を通じた関東との交通が困難となったため家康と今川氏真に対して足利義輝が停戦命令を出す。和睦の斡旋を武田信玄と北条氏康に命じます。ただ実現はせず、この時に信玄は家康を認識したようです。


■甲三同盟(甲斐と三河)
織田信長が仲介し徳川家康と武田信玄が今川氏直攻めに関する同盟。武田と今川との間に亀裂が生じた時に信長は上洛戦を始めますが、環境作りのために足利義昭は武田信玄による今川攻めを認めます。


武田信玄は家康は信長の部下のような存在と認識し、家康への不満を信長に何とかするよう要請しますが、家康は独立した存在で、できても勧告程度です。信玄は信長にも不信感を募らせることになります。


■三方原合戦
比叡山再興のために上洛するという噂が京で流布したようです。足利義昭と信長から頼まれて上杉謙信との和睦の話がすすんでいましたが合意直前でひっくり返されました。理由は朝倉義景の仲介だったらよいが信長ではダメという話です。


浜松城を攻めずに三方ヶ原に向かった信玄は祝田坂を下りると思っていたのが、方向を変えて堀江城の攻略にすすみます。浜名湖の水運を支配する拠点で、ここを抑えると物流がとめられるので浜松城での籠城ができなくなります。家康は止めざるを得ませんから攻撃をしかけますが散々にやられます。ただし敗北が決定した頃には夜になっていたため地の利がある徳川側が逃げられましたが、武田軍は取り逃がすことになります。


武田軍は吉田城と田原城を目指します。同時に武田海賊衆が三河湾に侵入して田原で放火しています。東三河をおさえることで徳川を東西に分断する戦略でした。家康は危ないところでしたが信玄の病気に助けられました。


■足利義昭挙兵
信玄上洛の動きに驚いたのが足利義昭。岐阜城にいた信長にも義昭の狼狽ぶりが伝わり、十七ケ条の意見書を送ります。義昭は武田方につくことにしますが、驚いたのが信長です。和睦に動きますが義昭は無視。信玄の父親である武田信虎が幕府に仕えていたので甲賀に派遣して軍勢を招集しています。

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