戦国の大敗 古戦場を歩く
【書 名】戦国の大敗 古戦場を歩く
【著 者】黒嶋敏
【発行所】山川出版社
【発行日】2022/10/15
【ISBN 】978-4-634-59129-5
【価 格】1,980円
■桶狭間の戦い
鳴海城の南に黒末川の河口部で入海になっていました。ここを挟んで鳴海城と大高城がむかいあっているため信長は鷲津砦と丸根砦を置きました。家康による大高城への兵糧入れが5月19日朝になりましたが、ちょうど満潮で船が近づけました。尾張・荷ノ上の服部友貞が軍船1000で今川方に味方していましたので兵糧入れも手伝ったようです。
丹下砦-畠山氏が短期間に尾張守護をつとめており家臣の丹下の屋敷があったのでは
鳴海城-応永年間(1394-1428)に安原宗範が成海(なるみ)神社を移転させて築城
清州城下の須賀口に義元塚を築き、供養しましたが自身の武功と清州城下を守る存在として誇示する狙いもありました。
■三方ヶ原
和地、都田、祝田の三方が入会権を持つ原が由来。南北朝時代には南朝の宗良親王と北朝方の今川範国が三方ヶ原で戦しました。周囲の村にとって宝の山になっていて、郷人が武田方について礫を台地にあがってきた徳川軍に投げたことにより、なし崩し的に開戦につながったようです。信玄の目的が三方ヶ原の支配を狙っていたようです。
■長篠城
周りを囲まれており高台に登ると城の中が丸見えという欠点がありました。武田軍の襲来に高台を選択できなかったので武田軍に砦などを築かれてしまいました。長篠の戦の後、秘されていましたが信玄の死が確実視されるようになったため戦死者の塚を作り信玄塚とし、アピールしました。
酒井忠次が奇襲しますが、通ったのがホボ祖父山で「保ぼう示」がなまったものようです。「ぼう示」は領地の境界に建てた杭などの標識のことで「保」は荘園と同じような国衙領のこと、境界だったようです。
戦が終わったあとに信長が派遣した西尾吉次(東条吉良氏)を奥平信昌がコロミツ坂へ向かいにいきます。寒狭川を渡ったところの坂道で領域の境界まで目上の者を迎えに行く境迎という儀礼でした。信長を迎えるために貴族も逢坂の関まで迎えにいっていました。
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