関ケ原 島津退き口
【書 名】関ケ原 島津退き口
【著 者】桐野作人
【発行所】ワニブックスPLUS新書
【発行日】2022/10/25
【ISBN 】978-4-8470-6681-8
【価 格】900円
■島津義弘
兄が義久で可愛がっている娘が亀寿。島津の後継者である忠恒(義弘の息子)の奥さんです。人質として大坂城にいました。伏見で関ケ原の合戦の発端となったため軍勢がいない島津勢が東軍につけば亀寿が危なくなるため西軍につかざるをえませんでした。亀寿を連れて義弘も生きて帰ることが大命題でした。義弘が死んでしまうと忠恒は後ろだてを失うからです。
ただ家康にはいろいろと便宜をはかってもらったこともあり、関ケ原の合戦前は意外と深い関係がありました。
■最初は大垣城
島津の退き口ですが伊勢街道を目指したのではなく、最初は大垣城を目指します。ところが南宮山あたりで大垣城が燃えているのを見つけ、伊勢街道を目指すことになります。
■小早川秀秋の裏切り
9月14日に行われた評定では小早川に離反の疑いがあると話されていました。小早川を呼んで人質にとるべきという話もありましたが、風邪だと言ってこなかったようです。
■中馬大蔵
関ケ原の合戦から相当の期間がたってから、鹿児島の青年が島津の退き口の話を聞きに行くと、中馬大蔵は「関ケ原と申すは...」と言ったきり涙で後が続きました。
■石田三成
墨俣の渡しを守っていた島津義弘は三成から軍議で呼ばれ呂久の渡しちかくの佐渡へ行きます。岐阜城落城の対応策を軍議しようとしたところに東軍の攻撃があり、三成は義弘に大垣城に退こうと言いましたが、墨俣の渡しに部下を残しているので分かれます。島津一行が大垣城に近づくと、水牛の角立て物の兜をかぶった三成が単騎でやってきます。義弘主従を残して大垣に退いたのをバツが悪いと思ったようです。
■琉球侵攻
関ケ原の合戦後、家康の許可をえて島津は琉球侵攻します。奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の5島を蔵入地にしました。これが鹿児島県の行政区画に受け継がれます。
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