論争 関ケ原合戦
【書 名】論争 関ケ原合戦
【著 者】笠谷和比古
【発行所】新潮選書
【発行日】2022/7/25
【ISBN 】978-4-10-603887-7
【価 格】1500円
■太閤蔵入地
太閤検地を行い、大名領地に豊臣政権の直轄地になる太閤蔵入地が1万石規模で設定される。大名領の監視と得られる米や産物で豊臣政権がそちらの方面へ遠征する時の物資補給基地となる。太閤蔵入地を順々につなぐことで食料、武器・弾薬のいずれも補給できるようにしていた。朝鮮出兵では同じシステムを海外展開できないかとも考えていた。
■大砲
朝鮮出兵時、明軍との戦いで撤退した明軍が残した大砲を戦目付の石田三成が管理し、関ケ原の合戦で使われることになる。
■徳川秀忠
上杉軍が攻めてこないように長大な防御土塁を造り、混雑する東海道ではなく、また上田を攻めるために中山道をすすむことに
■徳川家康
小山評定で豊臣系武将は家康に味方することになったが、そのあとに届いたのが「内府ちがいの条々」で家康は反乱軍扱いになります。豊臣系武将が味方についた前提条件が変わってしまったため家康としては裏切られる可能性が高いため江戸を動けなくなってしまいます。豊臣家武将が岐阜城などを落としたために、ようやく関ケ原に向かいますが隠密行動ですすみました。
石田三成は家康が江戸を離れたら毛利輝元に連絡して秀頼を担ぎ出してもらうことを考えていたため、赤坂の陣に登頂してから家康は、はじめて馬印や旗を出して大垣城にアピールします。動揺する西軍を落ち着かせるため島左近が杭瀬川の戦いを起こします。
次に家康が考えたのが秀頼が来ることができないように佐和山城をおとして中山道を封鎖し、大垣城を水攻めする作戦です。これに対して石田三成らは二重引きを計画、関ケ原までまずひいて、次に佐和山城へひく作戦でしたが、山中に展開する大谷吉継を救援するために夜半に関ケ原へ出発。結局、関ケ原が決戦の地になってしまいました。
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