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2022/06/15

戦国ラン

 【書 名】戦国ラン
 【著 者】黒澤はゆま
 【発行所】インターナショナル新書
 【発行日】2022/06/12
 【ISBN 】978-4-7976-8102-4
 【価 格】880円


■大坂夏の陣
鵜川宗宥(毛利勝永の先鋒 浅井周防守の家臣)が大坂夏の陣後に体験話をしていた時、東軍に属していた侍がいて、鵜川が打ち取ったのは本多出雲守(忠朝)という話に。本多忠朝は本田忠勝の次男で上総大多喜5万石の藩主。忠朝の兄である姫路15万石城主の本多忠政の耳にも、この話が入り、調査が行われ争った場所も絵図で残されました。毛利勝永は結局、2名の大名を倒し、2名の大名を重傷にさせ怪我が元に死ぬことになり、4名の大名を倒したことになります。本田忠朝は大坂冬の陣で家康から叱責されており、名誉挽回の意味もあって突出したようです。


松本忠直(家康の息子)が八尾・若江の戦いで軍令を守って味方を助けなかったことから家康が「朝寝でもしておけ」と叱責。そこで翌日は軍令を無視して宿陣した四条畷から西に進み天王寺を目指します。奈良街道、熊野街道、庚申街道を味方が北上しているところを横合いから突っ込むことになります。これが西軍には挑発しているようにみえたようですが、その以上に徳川軍が大混乱になりました。


東軍の進軍がグチャグチャになったため家康は熊野街道ではなく庚申街道を通って台地の東の麓から駆け上がりました。毛利勝永にも家康の旗印が見えたはずで、西軍では熊野街道をすすむ家康を迂回した明石全登が奇襲する計画ですが破綻したことになります。そこで毛利勝永は和気清麻呂の堀を超えて家康本陣に突撃を開始します。混戦になった模様で真田信繁と家康が激突したのは四天王寺のすぐ南にある庚申堂。つまり堀あたりではと大久保彦左衛門の「三河物語」などから本書では推測しています。


■石川丈山
詩仙堂で有名ですが枚岡からたった一人で西に向かい玉造口へ攻めかかります。首をあげて一番槍を主張しようと徳川秀忠のもとへ行くと「そもそも軍法違反だ」と叱責されてしまいます。


■本能寺の変
侍の報告書といえば「二つめの谷」など、どこを起点にした谷などを書かずに思いついたような報告ばかりのなか、明智光秀はしっかりと分かりやすき報告書を書いており、信長が「現地を見ているようだ」と評価していました。


■沓掛
街道沿いの峠の麓の地名。坂道がはじまるので沓を変える場所という由来です。


■一向宗
三好元長(三好長慶の父)の勢力拡大を恐れた細川春元が一向宗をたきつけて自害に追い込みます。この一向宗は先鋭化して細川春元も制御できず興福寺の17の坊を焼き払ったりします。脅威を覚えた細川春元は法華宗と組むことになります。法華宗の幹部は土倉(高利貸し)も多く、一向宗による徳政一揆を恐れていて一向宗の本拠地であった山科を襲います。法華宗だけでなく延暦寺、将軍足利義晴、六角定頼も加わりました。


石山本願寺との戦いで窮地に陥った天王寺砦(月江寺)を助けに若江城から信長が助けにいきますが、萱振環濠、久宝寺環濠などを避けて進み、住吉から北上しました。


■平野
坂上田村麻呂の次男・広野麻呂の荘園からスタート。信長と本願寺は正親町天皇の勅命講和で幕をとじますが、裏方で尽力したのが広野麻呂の子孫である末吉勘兵衛利方という人物でした。


■桶狭間の合戦
中島砦から50騎あまりで突撃したなかに信長の武将で熱田大宮司の千秋季忠がいて戦死。信長は千秋家で3人も戦死者が出ているので、子孫に刀とともに野並村を与え、以後は神職に専念するように伝えます。

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