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2022/06/04

日本史サイエンス弐

 【書 名】日本史サイエンス弐
 【著 者】播田安弘
 【発行所】講談社ブルーバックス
 【発行日】2022/05/20
 【ISBN 】978-4-06-528082-9
 【価 格】1000円


■翡翠
フォッサマグナの西側の北端にある糸魚川ではフォッサマグナによる圧縮と日本海の海水による冷却で翡翠が生まれました。この翡翠が朝鮮半島の鉄と交換するための交易品となります。日本海側ルートを通じて半島に運ばれました。ところが弥生時代中期の5~6世紀になると中国でガラスビーズが登場し翡翠は使われなくなっていきます。1938年に糸魚川で翡翠が見つかるまで忘れられた存在になりました。


■半島との航路
釜山から対馬の韓崎に到達し、そのまま南へ向かうと対馬海流にのって山陰の益田や浜田にすすみます。三瓶山や大山が目印になりました。九州から出発する場合は唐津や平戸から出て壱岐に到達し、対馬経由で半島にわたります。


瀬戸内海は静かな海というイメージですが、そんなことはなく平清盛が瀬戸の開削と神戸港の整備をしてから一般的に使われるようになります。ただ弥生時代に水先案内した島が発見されていて、瀬戸内コースも一部では使われていたようです。日本海ルートが中心と考えると円山川をさかのぼって豊岡から上陸して姫路を目指すコースが有望です。アメノヒボコ伝説もあります。


■247年3月24日
卑弥呼が没した年に皆既日食が起きましたが、日中に起きた可能性が高いのが九州。大和は日没後だったようです。魏志倭人伝に邪馬台国は7万余戸と記載されています。1戸に4人住んでいると約28万人になります。弥生時代の日本の人口は約59万人ですので半数が邪馬台国に集中していたようです。


■鉄甲船
信長の鉄甲船が有名ですが高木文書(美濃在住の豪族)に船を鉄板で囲んで防御力をあげた船の絵が見つかり、どうも実在していたようです。大坂冬の陣で九鬼守隆が大坂城へ鉄砲を撃ちかけるのに使ったという記録もあります。


■小西行長の行軍
文禄の役で小西行長が釜山から漢城府まで19日で到達し1日あたり24km移動した記録がありますが、中国大返しなみのスピードを異国で実現したことになります。一番隊は1万8800人で一人あたり1日20個のおにぎりがエネルギーで必要です。約20日分で800万個のおにぎりが必要ですが、どうやって調達したのでしょうか。秀吉の朝鮮出兵ですがスペインが植民地化を考えていたため、対抗できる力があることを示したという理由が近年、注目を集めています。


■日本海海戦
バルチック艦隊を運用するには石炭が必要ですが問題は補給です。日英同盟を結んでいたので英国がおさえていた港は使えませんでした。また長い航海でフジツボなどがつき速度低下になります。途中の港にドッグに入ることも英国の影響でできずハンディーをかかえて日本海に向かうことになります。

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