古代日本の官僚
【書 名】古代日本の官僚
【著 者】虎尾達哉
【発行所】中公新書
【発行日】2021/03/25
【ISBN 】978-4-12-102636-1
【価 格】840円
日本人は勤勉と言われていますが、遅刻、欠席、代返、職務放棄は当たり前。元日、朝賀儀という需要儀式にも官人がたくさん無断欠席していました。
■正倉院文書
淡海金弓という写経生は5日間の休暇をとり、休暇後も出仕せず、突如病気になったと欠勤届を出しています。この当時から詐病や不正休暇が多かったようです。また郡司に任用されても、すぐに辞退してしまいます。一度、郡司に任命されると辞任後を官人身分を保証されるため中央官人への抜け道になっていました。
古代からそうだったようで舒明天皇の時に出勤時間を守らないものが多いので鐘で時刻を知らせるように労務管理を始めようとした時、反対したのが蘇我蝦夷。問題するには及ばないと判断したようです。さぼったとしても多めにみることが多く、罰則が厳しくなかった世界でした。儒教などが入ってくるまでは、ゆるい考え方でした。
818年の嵯峨天皇時代には少しはましになったようですが、朝賀に出てきた官人が儀式を知らないため、バラバラの所作に。嵯峨天皇は、まず予行演習せよと命じます。元明天皇も律令を学んでいない官人が多いので勉強せよと命じています。
■天皇に対する畏怖が少なかった
桓武天皇が少納言からあがってくる奏上の紙が悪臭を放つものが多いので何とかせいと少納言を叱責しています。部下から奏上があがってきますが、とりあえず奏文さえ出せばよいと官人は考えており、天皇への畏怖などはなかったようです。
■宴席にもぐりこむ
遅れてきて宴席にもぐりこむものがいて、天皇主催だと最後に恩賜の品が出たので、これが目当てでした。そこで門に近衛府の官人が動員され不届きものを排除していました。また宴席前の儀式はさぼって宴席から出席するものもたくさんいました。守らせるためにいろいろと規制はしますが、刑罰もあまく、厳しくしても、すぐにきつすぎるという声があがってなしくずしになります。
■勤務評定(考選法)
768年(天武7年)に考選法が布告されます。官人の勤務評定と昇進を定めた法です。ただし対象は下級官人でしたが、どんなに頑張っても「大山上」を超えることはできませんでした。これが勤務評定の始まりになります。
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