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2020/11/28

南朝研究の最前線

 【書 名】南朝研究の最前線
 【著 者】日本史史料研究会
 【発行所】朝日文庫
 【発行日】2020/11/30
 【ISBN 】978-4-02262034-7
 【価 格】840円

信長、秀吉、家康に続き最新の研究をもとに南朝の実像について書かれています。洋泉社から出ていましたが絶版になっていたため朝日新聞出版から文庫本として出ました。

南朝といえば鎌倉幕府を滅ぼし建武の親政がはじまったが、公家中心の政権だったため、不満をもった武士が足利尊氏を中心に集まり、後醍醐天皇に対立し室町幕府を成立させたというイメージですが、最新の研究では全然、違うそうです。

■足利尊氏
建武の親政は公家中心の政治ではなく、武士よりの政権で反対に公家の方が不満をもらしています。後醍醐天皇は御家人制を廃し陪臣扱いではなく天皇直属にすることで武士の栄誉としようともしていました。足利尊氏も反旗をひるがえすつもりがなく、どちらかといえば場当たり的に対応していて、最終的に後醍醐天皇と対立するところへ追い込まれます。

武士は大義などよりも、まずは自分の利益を考えて動きますから、複雑な歴史の動きになってしまいます。武士には恩賞の不満があったと言いながら、最初から討幕ではなく幕府が負けそうになってから寝返ったものも多く本領安堵がやっとでした。足利尊氏は迅速な恩賞を与えることが武士を掌握できる手段と認識していたため九州に逃げる時、四国や中国地方に配置した大将に現地で恩賞を与える権利を与えています。

■新田義貞
新田義貞は当時は足利一族と考えられていたようで、いつのまにか足利氏と肩を並べる新田氏というイメージができあがりました。

■楠木正成
また記録所で登用されていたのが名和長年や楠木正成で、軍事面だけではなく官僚的な実務能力が高い存在でした。楠木正成の本貫は駿河国にあった楠木村のようで、当時の公家の日記に楠木の根っこは鎌倉なのに、なぜわざわざその枝を切りに出かけるのだろうと楠木正成攻めに手こずる幕府軍を皮肉っていますが、楠木正成は幕府側の御家人と認識されていたようです。

■中先代の乱
北条氏ー先代、北条時行-中先代、足利氏-当御代

■南朝と伊勢神宮との関係
大覚寺統では天皇の代替わりに際して斎王が選出されましたが、持明院統では一人も派遣されなかったため大覚寺統の系譜である南朝側の北畠は伊勢に受け入れられたようです。

室町幕府が発足すると敵の敵は味方ということで北条氏の生き残りと南朝が組んだりもします。南朝が陸奥や遠江へ拠点をつくろうと伊勢の大湊から出港しましたが暴風雨にあうなど苦難を伴いました。

北条時行は義良親王と行動を共にして遠江の井伊に入ったそうで、大河ドラマ「井伊直虎」の検地のシーンで川名の隠し里が見つかり、「南朝の御子様が隠れてお住まいになった場所です。なので、井伊の領地であって、井伊の領地ではない」と返答しますが、このことだったんですね。

■征西将軍府
この時、懐良親王が九州に入り、ここだけは成功し、九州一国が南朝方となり征西将軍府が成立します。もう少しで室町幕府とは別の国家ができた可能性もあったようです。伊予忽那島を本拠にした忽那氏は水軍であり、海上交通圏を握っていたのが強みでした。

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