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2020/09/17

女たちの本能寺

 【書 名】女たちの本能寺
 【著 者】楠戸義昭
 【発行所】祥伝社新書
 【発行日】2020/09/10
 【ISBN 】978-4-396-11610-1
 【価 格】860円


■濃姫
「麒麟がくる」で濃姫は土岐頼純と結婚していたが齋藤道三に殺されたため信長と再婚したと描かれていましたが、寛永諸家系図伝などに、どの齋藤家の系図に出てこない道三の娘がいて土岐頼純夫人で濃姫とみられています。濃姫が鷺山殿と呼ばれるのは土岐氏に嫁いでいたからと考えられます。


齋藤道三は信長に美濃を譲ると遺言しますが、これは京都の妙覚寺に入れた末っ子の勘九郎に託しました。妙覚寺は道三の父親である長井新左衛門が出家した寺で、勘九郎が上人になった時に妙覚寺を優遇し宿として18回、使っています。


■妻木煕子
明智光秀の室です。齋藤龍興の攻撃で明智城を追われた光秀一行は丸岡町の長崎称念寺に落ち延びます。光秀の母の侍女の叔母が称念寺の庵主だったようで、門前に住んでいたようです。細川藤孝に仕えましたが、わずか80石で、すぐに信長に乗り換えたという説があります。また近くに朝倉義景の家臣が住んでおり、知り合いになった頃に加賀の郷民の一揆があり参陣。鉄砲で敵を討ち果たす成果から朝倉義景の感状をもらい仕えるようになったようです。


愛宕山での光秀の発句「ときは今天が下しる五月哉」は有名ですが百番目の結びの句は明智光慶(息子)の「国々は猶のどかなるころ」です。


■御妻木
齋藤利三の兄が幕府奉行衆・石谷光政の養子
長曾我部元親の妻が石谷光政の娘
齋藤利三の妹婿は土佐に下向していた幕府政所執事・蜷川親長で元親の相談役


ところが信長は信孝を三好康長の養子として讃岐を信孝、阿波を康長に任せ伊予・土佐は信長が後で決めると方針転換
本能寺の変の要因となります。


■お鍋の方
生まれたのは近江八幡の小田城。高畠新二郎の娘で本家の小倉賢治に嫁ぎます。夫が浅井方に味方したことから六角氏配下の蒲生賢秀に攻められ夫は切腹、二人の息子は日野城に連れていかれます。この時に頼ったのが信長です。信長が桶狭間の合戦以前に将軍・足利義輝に謁見しますが、通ったのが伊勢から八風街道を超える道で助けたのが小倉賢治でした。やがて信長が足利義昭を奉じて上洛する時、六角氏を追い出し日野城を開城させ二人の息子を助けます。本能寺の変で息子の一人が森蘭丸らとともに亡くなっています。


小田城は安土城の近くでしたが小田神社があり楼門が高く馬でも通れるので気に行った信長が安土城へ移すと言い出します。そこでお鍋の方や氏子は楼門の周囲に1メートルもの土を持ってかさ上げしました。昭和16年に楼門の修理が行われ発見されました。


信長と秀吉に仕えた後、北政所の侍女になっていたようで醍醐の花見に参加しています。同じように侍女として参加していたのが「のぼうの城」で有名な忍城の甲斐姫のようです。

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