関ケ原大乱、本当の勝者
【書 名】関ケ原大乱、本当の勝者
【著 者】日本史史料研究会
【発行所】朝日新書
【発行日】2020/06/30
【ISBN 】978-4-02-295080-2
【価 格】910円
関ケ原合戦、本当はどうだったのかに焦点をあてた一冊です。
■家康の天下取り
秀吉が死んでわずか3ケ月後に伊勢に潜伏していた宣教師が捕らえられ伏見で家康が面会しています。宣教師は家康を新しい国王と書いており当時はそんな認識だったようです。家康はスペインとの貿易を考えてもおり秀吉が存命中から、いろいろと構想していたようです。
■家康の前田利長攻め
前田利長が大坂から北陸へ戻った時に政変が起きます。家康が伏見から大坂へ移動し、徳川秀忠正室(三姉妹)の江戸下向、譲位して後水尾天皇の誕生、宇喜多秀家の大坂から伏見への移動の3つが要求されました。この時に排除されたのが宇喜多秀家だけではなく前田利長と加藤清正に対して上洛無用としました。家康が行ったのは上洛の制止で加賀征伐というようなものではありませんでした。
母親である「まつ」が江戸へ行くことで講和しますが、代わりに大坂で人質だった前田利長正室と弟の利政が北陸へ戻りました。前田利長にとっては豊臣政権で人質として二人を送っているうちに一人が国許に帰り、一人が江戸に移っただけで利がある講和でもありました。
■山中
実際の合戦は山中と関ケ原で行われたようで宇喜多秀家、島津義弘、小西行長、石田三成と戦ったのは山中のようです。こっちが西軍の主力でした。また大垣城から出て「山にあがった」という表現があるので平地の関ケ原ではありませんでした。小早川秀秋は関ケ原で戦っており開戦時には松尾山にいなかったようです。関ケ原での戦いが先に始まったので関ケ原合戦という名称になったようです。
吉川広家には毛利の全てを譲るという約束でしたが、それはあんまりなので半分で手を打ったという話が伝わっています。
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