戦国武将の叡智
【書 名】戦国武将の叡智
【著 者】小和田哲男
【発行所】中公新書
【発行日】2020/05/25
【ISBN 】978-4-12-102593-7
【価 格】820円
■勝って兜の緒を締めよ
天文10年(1541)年の北条氏綱の遺言状「北条氏綱公御書置」に「勝て甲の緒をしめよという事、忘れ給うべからず」と出てきます。冒頭には「大将によらず、諸侍ども、義を専らに守るべし」とあり、「末世に後ろ指ささるる恥辱」は当時の武士にとっていやなものでした。
■柴田合戦記
秀吉は広報宣伝がうまく明智光秀に勝った時は「惟任退治記」を出し、北庄城で柴田勝家に勝った時に書いたのが「柴田合戦記」です。柴田勝家の最後も詳細に書かれていますが、これは柴田勝家が老女に状況を目撃してから敵に語るように命じたからです。また秀吉は縁がない諸将にも戦勝報告をしており、いわばダイレクト・メール作戦です。
■築城
地選(ちせん) 城地の選定
経始(けいし) 縄張
普請 堀、土塁などの土木工事
作事 建物、門、櫓なのの建設工事
■名称の条件
朝倉宗滴によれば名将とは一度大敗北を喫したものをいうとあります。武田信玄も七分勝ちが最高の勝ち方と言っておりました。
褒め上手だったのが加藤清正で重臣に飯田覚兵衛がいて、戦に出ていやだと思うところに清正が来て褒めるため、ずっと戦い続け、「一生、清正にだまされてきたようだ」と述懐しています。
■釈迦の間の異見会
黒田長政が武士であれば足軽でも月に3日、長政が部屋に詰めているので直接、意見を言いに来いと決めていました。お釈迦さんの絵が飾ってあったので釈迦の間の異見会と言われました。
■最上と伊達
国境に近い中山近辺で最上義光と伊達政宗が対立した時、伊達政宗の母で最上義光の妹だった義姫は中山へ行き、和議がなるまで動かないと実力行使に出ます。80日間も動かなかったため最上義光が根負けし和議となりました。
■首供養
戦とはいえ首を取られた側は祟ると考えられていました。そこで行われたが首供養。大将首は別ですがそれ以外は33ごとに供養するのが基本だったようです。僧侶が陣僧として従軍していたので読経してもらい、首供養が終わると集めて首塚が作られました。
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