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2020/06/07

キリシタン協会と本能寺の変

 【書 名】キリシタン協会と本能寺の変
 【著 者】浅見雅一
 【発行所】角川新書
 【発行日】2020/05/10
 【ISBN 】978-4-04-082338-6
 【価 格】900円


信長、光秀の両方に会っていたのが宣教師。報告書を日本人は読めませんので忖度する必要はありません。「信長の死について」書かれたフロイトの書簡から読み解いています。


■天正4年(1576) 安土城築城
信長はオルガンティーノに土地と資材までも与え教会作りを支援
天正9年に巡察師ヴァリニャーノがセミナリオ建設を指示し翌年に完成


■天正10年(1582年)
2月14日(西暦3月8日)夜10時に東の空が明るくなり安土城の上が赤くなる。朝まで続き豊後でも目撃された模様。信長は意に介さず武田攻めへ
5月14日(西暦4月22日)夜9時に彗星があらわれる 数日間続き 数日後の正午に安土に空から彗星のような物が落下
6月2日(西暦6月21日)本能寺の変 未明に発生し安土に伝わったのは正午頃


明智光秀は高山右近やオルガンティーノが自分に味方しないことは分かっていたようですがキリスト教とは近い関係がありオルガンティーノは坂本城で光秀の息子(十五郎)とも会って便宜をはかってもらっています。


6月12日(西暦7月1日)山崎の戦い 中川清秀が山上、池田恒興が淀川沿いを進軍。高山右近軍が山崎にいたところ偶然、光秀軍と遭遇した模様で中国大返しをしてきた秀吉軍は疲れていて到着できなかった模様。敗走した光秀軍は長く京都の教会では全部、通過するのに2時間かかったと記録されています。


■本能寺の変
光秀の妹で信長の側室だった御ツマキが天正9年8月に亡くなったこと、明智十五郎(嫡子)に対するなんらかの処分を避けるためではないかという説に言及しています。

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