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2020/04/11

戦国時代を読み解く新視点

 【書 名】戦国時代を読み解く新視点
 【著 者】歴史街道編集部
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2020/3/26
 【ISBN 】978-4-569-84664-4
 【価 格】900円

■中国大返し
毛利は摂津へ向かう秀吉を背後から襲うことができましたが実際はできなかったようです。秀吉は毛利氏重臣に手を伸ばしていて秀吉に通じていない重臣は5人しかいない状況だったようです。村上水軍などにも手をのばしていて、陣中では重臣離反の噂などが流れていました。

■長篠の戦い
信長&家康が武田勝頼を破った戦いですが、高天神城の戦いで家康から援軍を求められた信長は結局、間に合いませんでした。今度も遅れると家康が離反するので遅れるわけにはいきません。また絶対に負けないように武田軍の倍の兵力をかき集めて臨みました。また鉄砲の活用が有名ですが鉄砲の装備率を見ると武田勝頼と信長との差はあまり、ありませんでした。問題は弾で信長、家康軍はタイから輸入した鉛を使っていました。武田領に金山はありましたが鉛山はなく、武田軍は最初に鉄砲を討った後に弾が少なくなるため突撃したようです。

信長は経済封鎖も行っており、伊勢商人にも東国に物資を流してはいけないと圧力をかけていました。神社に賽銭の中の悪銭を上納させて弾にしようともしていました。

■上杉謙信
武田信玄が攻めてきたため村上義清など北信濃の国人衆が謙信に助けを求めましたが、北信濃は越後守護の管轄下だったようで越後守護の上杉定実が亡くなっていたことから守護代の謙信が国主の立場にありました。そのため北信濃の国人を助け川中島の戦いへとなっていきます。信玄も大義名分を得るために幕府に近づいて信濃守護となります。謙信はさらに上を目指して関東管領となり格式が信玄よりも上になりました。信玄はずっと長尾謙信などと言い、決して上杉謙信とは言いませんでした。

■光秀と信長
足利義昭から信長に最初の上洛要請があったのが永禄9年(1566)でしたが信長は約束を破って休戦していた美濃へ攻め入ったりしました。話が流れてしまい足利義昭は越前へ向かうことになります。最初の取り持ちをしていたのが細川藤孝のようです。永禄11年に信長が美濃を平定して上洛の打診をした時に不信感を持っていた足利義昭側は細川藤孝を表立って使うわけにはいかず、この時に光秀が登場した可能性がありそうです。

■大野治房
大野治長の弟で大坂夏の陣では徳川秀忠の本陣へ突っ込み、秀忠自身が槍をもったと伝わっています。大坂の陣が終わり、大野治房や後藤又兵衛の息子はふつうに生活していました。大坂の陣で立て籠もった牢人衆も無罪放免となりました。やがて最後まで主君のために戦ったと評価され後藤又兵衛の孫が取り立てられました。

■軍師
信長-伊束法師、家康ー閑室元佶

 

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