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2020/02/22

日本中世への招待

 【書 名】日本中世への招待
 【著 者】呉座勇一
 【発行所】朝日新書
 【発行日】2020/02/28
 【ISBN 】978-4-02-295057-4
 【価 格】850円

■義経の結婚
義経が後白河法皇から勝手に検非違使の任官を受けたため頼朝と反目したと思っていましたが、だが任官の1ケ月後に義経は河越重頼の娘と結婚して鎌倉から京都へ向かっており結婚の世話をしたのが頼朝でした。新婦の母方の祖母は比企尼で頼朝の乳母でした。この頃はなんとか義経を取り込もうと考えていたようです。

■譲状
財産相続で争わないように書かれるのが譲状で、これを見るとほとんど平仮名です。自筆なのは偽造防止のためで鎌倉幕府の法廷では筆跡鑑定もやっていました。

■興禅の方便
中国に留学した禅僧が最新の宋学を持ち込んだため禅僧に学ぶしかありません。禅宗では宋学を足掛かりに禅宗を広めようと考えました。これが興禅の方便です。禅宗は生活のすべてが禅の修行という考えがあり学問担当の西班衆(せいばんしゅう)と実務担当の東班衆(とうばんしゅう)には基本的に差はありませんでした。東班衆も講義に出ていたため禅宗では実学を教えることになります。

■老人は60歳から
大宝令 3歳以下-黄、4~16歳-小、17~20歳-中、21~60歳-丁、61~65歳-老、66歳以上-耆(き)

■外科
中世、内科医のことを本道医と呼んでいました。外科はできることが限られていたため本道ではない意味で外科と言われました。

■アルコールハラスメントは中世から
フロイスが日本人は酒を非常にしつこくすすめ合い、酔っぱらうことが恥辱ではないと書いており、当時からアルハラがありました。

■伊勢の御師
御師と檀家との師檀関係は代々続き、檀家から御師を変更できませんでした。檀家の権利を他の御師に得ることができ、これが檀那売券(伊勢御師の場合は道者売券)

■島津家久の旅行
島津氏が薩摩、大隅、日向を統一できた御礼に伊勢神宮や愛宕山へお礼に向かいます。船の中では乗り合わせた庶民と酒を飲んだりするフランクな旅行でした。京都では石山本願寺からの戦いから帰ってきた織田信長の行列を見学しています。永楽通宝の旗印の中、信長自身は馬の上で寝ていたようです。明智光秀に招かれ坂本城も見学しています。

■高師直
バサラ武将のイメージがありますが、建武の新政では雑訴決断所の職員をしており、尊氏の時代になっても、この時の経験をいかして模倣していました。高一族は基本的に行政官僚で武人の方が珍しく、一説では楠木正成に兵法を学んだという説もあります。

■明智光秀の地位
連署状には丹羽長秀、木下秀吉、中川重政、明智光秀の順に記載され、織田政権に入った当時は地位はそれほどでもなかったようです。

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