日本史でたどるニッポン
【書 名】日本史でたどるニッポン
【著 者】本郷和人
【発行所】ちくまプリマ―新書
【発行日】2020/02/10
【ISBN 】978-4-480-8371-7
【価 格】840円
■源頼朝の弟
頼朝の弟である希義(まれよし)は土佐に流されており、西国は平氏がおさえていたため、頼朝の挙兵に伴って捕えられて殺されてしまいます。
■毛越寺(平泉)
五味文彦氏の仮説では毛は毛野国(上野と下野をあわせた地名)で越は越国(越前、越中、越後)を表し、ここらへんで一番の寺という意味。大和朝廷が支配していなかったのが毛野国と越国となります。
■室町幕府の意識と戦国大名
遠隔地については将軍の意のままにならなくても構わないという考え方でした。中部地方ぐらいまでが範疇で関東や東北は鄙の地でした。応仁の乱で戦ったのも室町幕府の範疇にあった大名たちで、しかも京都暮らしでした。京都が荒廃したため地元に戻ってもほったらしにしていたので縁が切れており戦国大名になれませんでした。駿河の今川は関東などを監視しろと言われ京都に来なくてよかったので戦国大名に、九州は博多以外は鄙でしたので大友や島津が戦国大名になります。
■大三元
科挙が語源で、試験は3年に1回。郷試-県大会みたいなもの、会試-地方大会、殿試-全国規模の3段階で合否ではなく順番を決めるもの
トップで合格した人を郷試では解元、会試では会元、殿試では状元といってトップ合格すると大三元と称されます。
■十方住持制(禅宗)
十方ーあらゆる方面、住持-住職 住職の転勤制度で実力主義で各寺をまわり出世していきます。才能による競争でしたが夢窓礎石の甥が度弟院(つちえん)制度をはじめ、塔頭は一門の弟子が代々住職を務める世襲制度に変えてしまいます。これが許せなかったのが一休宗純です。
■記録所
庶民のことを考えなかった朝廷ですが鎌倉時代中期ぐらいから変わり、記録所を復活させます。下級貴族から10人を選抜し、政治や裁判について審議に天皇の諮問に答えます。院生になると上皇に記録所の代わりに文殿(ふどの)が作られますが、伊勢神宮に関わることだけは記録所で審議されました。
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