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2019/09/27

戦略で読み解く日本合戦史

 【書 名】戦略で読み解く日本合戦史
 【著 者】海上 知明
 【発行所】PHP新書
 【発行日】2019/05/15
 【ISBN 】978-4-569-84306-3
 【価 格】900円


「たとえ愚策でも勝利したと見なされる時は成功策とされる」ということで桶狭間合戦の奇襲などが分析されていますが、タマタマの要素が多く、織田信長自身も二度と同じような戦いはしませんでした。


■京都は守らない
京都は攻めるにやすく守るに難しい土地でした。攻められる時は都落ちするのが一番で平清盛は平治の乱の始めにこれを考えていました。讃岐か筑紫に落ち延び拠点である西国の力を結集して再度、上京すればよいだけです。平家の都落ちも同様で生田から塩屋へつながる膨大な要害を作り上げ制海権もおさえていました。そこへ義経が鵯越で攻めてくるのが一ノ谷合戦ですが、実際は後白河法皇による騙し討ち。和平を勧告し、平家には武装解除して源平に戦争しないように申し伝えていました。そこへ義経が攻め込んできたので、完全な騙し討ちだったというのが実態のようです。


楠木正成も同様の考えで足利尊氏が攻め上ってくる時に後醍醐天皇と新田義貞を比叡山に移して平安京を開けてしまう案です。楠木正成は河内に戻り、叡山と淀川で物流を止めて足利尊氏側の勢力が落ちた時に挟撃する案です。これを潰したのが後醍醐天皇側近で聖戦論を主張した坊門清忠でした。


■金ケ崎城の退き口
朝倉攻めの最中に浅井の寝返りが分かった時に信長がとった行動は少人数で逃げるということです。生き残れば大軍を再編できると考えていました。後に秀吉が話した逸話が残っています。信長の5000人の兵と蒲生氏郷の1万人の兵が戦ったらどうなるという問いに。秀吉の答えは信長で信長軍から4900の首級があがっても、そこに信長の首はなく蒲生軍から5つの首級があがったら、そこに勇猛果敢な蒲生氏郷の首が入っているというオチでした。


■兵農分離
信長の専売特許のように言われていますが、どこの戦国武将も行っていて農繁期にも戦をしていました。ただし農村の余剰人員でしたので差はありました。信玄の場合、1万石あたりで400数十人。北条は700人、長曾我部は1000人でした。これを徹底していたのが信長で桶狭間合戦の後も尾張を統一するまで親族などとの争いに疲れていました。武士を拠り所の土地と切り離すことを真剣に考え、給与システムにしていきます。もともとの土地を離れ城下に住みますので人が増え経済が活性化します。商業育成が運上を生み出し、新たな兵を雇うことができます。


■石山本願寺
信長公記によると「方八町のかまえ」とあり寺内町六町が巡っていました。敷地は770m×550mで現在の大阪城の約88%。51もの子城があり巨大城郭です。


■信玄の信長評価
信長はいったん包囲した城を解いて撤兵したり、国境付近の小城の落城は意に介さず、退却なども平気で行い、その反対に重要な合戦では大兵を集めて確実に勝利し領国を広めてゆく方策をとっている。信玄は自重気味で、動きが遅い自分の欠点もよく認識していたようです。


■楠木正成の四天王寺の戦い
宇都宮公綱軍が楠木正成が立て籠もる四天王寺に軍をすすめると、そこはもぬけの殻。それから4~5日後、四天王寺を遠巻きにして、沿岸沿いに紀伊に至るまで野伏に篝火をたかせました。とてつもない大軍がいると見せかけるためです。これが三夜続き、だんだん包囲網が狭まってきます。宇都宮公綱は一戦しようと考えていましたが、戦闘ははじまらず、ついに心理戦に敗れ四天王寺から撤退していきました。


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