明智光秀 残虐と謀略
【書 名】明智光秀 残虐と謀略
【著 者】橋場日月
【発行所】祥伝社新書
【発行日】2019/09/10
【ISBN 】978-4-396-11546-3
【価 格】840円
最新史料をもとに光秀の素顔を迫る本です。
■近江高島 田中城に籠城
明智光秀が史料に登場するのは田中城(上寺城)に籠城した時の記録が最初です。命じたのは足利義輝で六角氏を浅井氏から援護するために命じられたようです。大坂の陣で豊臣方として本町橋の夜討に傘下したのが長岡(米田)監物是季で、母は田中城主の姉で明智光秀の妻の姪でした。田中城籠城の縁で明智は田中、比良、米田、沼田、細川といった諸氏とつながりができたようです。
明智光秀は意外に若かったという説があり天文9年(1540)生まれともいわれています、こうなると本能寺の変の時には42歳となります。
■秀吉との競争
明智光秀だけではありませんが押領の常習犯で、訴えられてもいます。比叡山延暦寺の焼き討ちを進言したのも光秀で信長自身は最後まで躊躇していたようです。実力主義の織田家中では、基本的に自ら立案して信長のOKをもらい自ら実行することで自分の領地を拡げる形でした。また光秀は孤独だったようで実績を上げ続けなければなりません。またこまめにいろいろな報告を信長にしていたようで、まるで現地にいるようだと信長に褒められています。ホウレンソウは戦国時代も重要なんですね。
秀吉は中国をおさえにいきますが、光秀は四国から九州入りを狙っていました。これが長宗我部との接近となります。また毛利と和睦して九州に行く案で信長もこの案にのっていましたが、秀吉は宇喜多直家を寝返らせて毛利をたたく方に路線変更させます。また奥を取り仕切っていた妹の死去によって信長への根回しも弱くなり、八歩ふさがりになったことが本能寺の変の遠因になっているようです。
■天王山
武田勝頼と激突した長篠の戦の立案者は光秀だったようで、天王山の戦いではそれを再現するために小泉川沿いに長大な防衛ラインを作ります。秀吉側は雨なので明日が戦と言いながら、夕方に決戦がはじまります。天候が回復していきそうなので光秀が得意とする鉄砲を使えなくする作戦で勝利することになります。
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