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2018/11/24

徳政令 なぜ借金を返さなければならないのか

 【書 名】徳政令 なぜ借金を返さなければならないのか
 【著 者】早島 大祐
 【発行所】講談社現代新書
 【発行日】2018/08/21
 【ISBN 】978-4-06-512902-9
 【価 格】880円

中世の利子率は月5%(年60~65%)で高率ですが、稲の種まきする頃に貸し付けて収穫期に回収する出挙以来の設定になっています。一粒から五十粒ほどになりますので当時は妥当でした。借上や土倉の本業は荘園の代官請負業で金融は副業でしたが、こちらが伸びることになります。地域では現地の荘園代官が担っていましたが税負担の増大と天変地異などで地域金融が崩壊していきます。今でいうと信金などがつぶれる状況で都市銀行に集中する形となります。

室町幕府の奥向きでいろいろと浪費していましたが、この費用を発達した京都の借上や土倉が担っていましたが、さすがに苦しくなりだし幕府はいろいろな所から税金をとろうとします。これで一般庶民が苦しむことになり徳政令を求める動きになり、実力行使で徳政令が出されますが、結局は信用できない社会となり疲弊していきます。

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2018/11/23

戦国の城の一生

 【書 名】戦国の城の一生
 【著 者】竹井 英文
 【発行所】吉川弘文館
 【発行日】2018/10/01
 【ISBN 】978-4-642-05875-9
 【価 格】1,700円

全国にある城はコンビニの数よりも多く、1村1城だった時代もありました。古城をリサイクルしたりなど城の一生についての一冊です。城の維持管理は郷村にまかされていました。例えば相模玉縄城の田名郷では中城や清水郭の兵の一部が担当でした。また山城は禿山ではなく、中の様子が見られことと土留のために適当に植生もされていました。

戦国大名は自由に城を造れたわけではなく地元が反対していると造らない場合もあったようです。城には門限もあって上野箕輪城では午前7時頃に開門し午後5時頃に閉門されていました。飲み会などは禁止でしたが、よく条文が出されるぐらいなので守られてなかったようです。

小牧長久手の合戦では伊勢も戦場になりました。織田信雄・徳川家康連合軍では伊勢萱生城へのつなぎの城として古城だった浜田城を再利用したようです。

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2018/11/16

大坂城全史

 【書 名】大坂城全史
 【著 者】中村博司
 【発行所】ちくま新書
 【発行日】2018/10/10
 【ISBN 】978-4-480-07180-4
 【価 格】1200円

大阪城天守閣館長による大坂城の歴史です。

■石山本願寺の場所
石山本願寺がどこにあったか特定されていませんが、門徒が住んでいたのが寺内六町(北町、北町屋、西町、南町屋、新屋敷、清水町)でした。信長と和睦した顕如は和歌山の鷺ノ森御坊に退去することになりますが、この時、町人はそのまま居住して商売を続けることとなりました。この町人が住んだのが現在の大阪城二の丸あたりで石山本願寺はどうも現在の本丸にあったようです。東側に本丸があったので東町がなかったようです。

■番城の時代から豊臣秀吉の大坂城へ
石山本願寺の退去跡、本丸に丹羽長秀が二の丸に織田信澄が入り、預かることになります。本能寺の変の後は池田恒興が入りました。やがて天下をとると大坂城を秀吉が築き始めますが、ルイス・フロイスの記録に「昔の城の城壁と濠の内側に建てられた」とあるため、石山本願寺時代の石垣や堀を使って、そこに増築する形で築いたようです。

■徳川時代
家康の外孫である松平忠明が入ります。実は道頓堀の名付け親で、道頓堀は成安道頓が私費を投じて開削しましたが、大坂の陣で豊臣方として戦死してしまいました。その後を引き継いでできた運河を南堀などと呼んでいましたが、松平忠明が道頓の名をおしんで道頓堀にしました。

■昭和の大阪城
江戸時代を通じて大阪は町人の街だったせいか、昭和に入り天守閣復興の話になった時、誰も徳川時代の天守閣を造ろうと言い出さず、太閤さんの天守閣にすぐ決まり、現在の天守閣が建てられることになります。短命に終わった豊臣、徳川時代の天守閣よりも長くそびえたつことになります。

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2018/11/10

明智光秀 残虐と謀略

 【書 名】明智光秀 残虐と謀略
 【著 者】橋場日月
 【発行所】祥伝社新書
 【発行日】2019/09/10
 【ISBN 】978-4-396-11546-3
 【価 格】840円

最新史料をもとに光秀の素顔を迫る本です。

■近江高島 田中城に籠城
明智光秀が史料に登場するのは田中城(上寺城)に籠城した時の記録が最初です。命じたのは足利義輝で六角氏を浅井氏から援護するために命じられたようです。大坂の陣で豊臣方として本町橋の夜討に傘下したのが長岡(米田)監物是季で、母は田中城主の姉で明智光秀の妻の姪でした。田中城籠城の縁で明智は田中、比良、米田、沼田、細川といった諸氏とつながりができたようです。

明智光秀は意外に若かったという説があり天文9年(1540)生まれともいわれています、こうなると本能寺の変の時には42歳となります。

■秀吉との競争
明智光秀だけではありませんが押領の常習犯で、訴えられてもいます。比叡山延暦寺の焼き討ちを進言したのも光秀で信長自身は最後まで躊躇していたようです。実力主義の織田家中では、基本的に自ら立案して信長のOKをもらい自ら実行することで自分の領地を拡げる形でした。また光秀は孤独だったようで実績を上げ続けなければなりません。またこまめにいろいろな報告を信長にしていたようで、まるで現地にいるようだと信長に褒められています。ホウレンソウは戦国時代も重要なんですね。

秀吉は中国をおさえにいきますが、光秀は四国から九州入りを狙っていました。これが長宗我部との接近となります。また毛利と和睦して九州に行く案で信長もこの案にのっていましたが、秀吉は宇喜多直家を寝返らせて毛利をたたく方に路線変更させます。また奥を取り仕切っていた妹の死去によって信長への根回しも弱くなり、八歩ふさがりになったことが本能寺の変の遠因になっているようです。

■天王山
武田勝頼と激突した長篠の戦の立案者は光秀だったようで、天王山の戦いではそれを再現するために小泉川沿いに長大な防衛ラインを作ります。秀吉側は雨なので明日が戦と言いながら、夕方に決戦がはじまります。天候が回復していきそうなので光秀が得意とする鉄砲を使えなくする作戦で勝利することになります。

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パンドラの匣

 【書 名】パンドラの匣
 【著 者】太宰治
 【発行所】新潮文庫
 【発行日】2016/11/5
 【ISBN 】978-4-10-100611-6
 【価 格】520円

奥付をみると68刷でした。よく読まれているんですね。太宰治は「人間失格」や「斜陽」など暗いイメージがあるんですが、二編ほど青春快活物を書いています。

その一作が「パンドラの匣」。ちょうど太平洋戦争が終わった頃、結核患者向け療養所に入った青年の周りで巻き起こる小さな日常のドタバタを描いた作品です。この療養所が変わっていて健康道場という名前で、院長は場長、看護師さんは助手、入院患者は塾生と呼ばれ、場長の闘病法である屈伸鍛錬などを行うのが日課になっています。助手のマア坊や、竹さんとのやり取りや個性的な療養患者がなかなか面白い作品で2009年には映画化もされています。(出演は染谷将太、ふかわりょう等)

■「パンドラの匣」の舞台は日下
もともと太宰ファンだった青年が療養生活の内容を日誌に残しており、亡くなってから太宰治に送られ「パンドラの匣」となりました。物語の舞台となった健康道場は東大阪市の日下にあり孔舎衙健康道場という名前です。高台にあって今は跡地だけが残っていまが、案内板もあり、石切駅から離れていて、けっこう不便な場所ですが熱心な太宰ファンが通っているようです。

「パンドラの匣」には”枕元の大きい硝子窓の下には、十坪くらいの「乙女ヶ池」とかいう(この名は、あまり感心しないが)いつも涼しく澄んでいる池があって”とありますが、健康道場跡にある高台から見える池のことですかねえ。

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2018/11/04

宇喜多秀家と豊臣政権

 【書 名】宇喜多秀家と豊臣政権
 【著 者】渡邊大門
 【発行所】洋泉社
 【発行日】2018/10/19
 【ISBN 】978-4-8003-1580-9
 【価 格】980円

毛利氏から離反し織田方について宇喜多直家が病死した時、宇喜多秀家はわずか8歳でした。やがて天下をとった秀吉は秀家を豊臣家大名にしようと養女の豪姫(前田利家の娘)と結婚させ、順調に成長していきます。

ところが秀吉が死去すると事情が激変。宇喜多秀家の領地は備前・美作ですが、昔からの国衆である有力な家臣が多く、なかなか一枚岩になりません。浮田姓を与えて疑似的な一族としたり、豪姫の婚礼と共に前田家から宇喜多家に入った中村次郎兵衛を登用して改革しようとしましたが旧臣とぶつかり、宇喜多騒動が起きます。ここに介入したのが家康で、宇喜多秀家を離れた家臣は家康につき関ケ原の合戦でも東軍方につきます。

宇喜多秀家は関ケ原の合戦で敗れ薩摩に逃れます。薩摩の嘆願によって助命され八丈島に流されることになります。

■校正ミス p211 分部光嘉の上野城(三重県伊賀市)ではなく(三重県津市)です。伊勢上野城と伊賀上野城を間違えたのでしょう。

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