天下分け目の関ケ原の合戦はなかった
【書 名】天下分け目の関ケ原の合戦はなかった
【著 者】乃至政彦、高橋陽介
【発行所】河出書房新書
【発行日】2018/04/15
【ISBN 】978-4-309-24860-8
【価 格】1,600円
関ケ原の合戦といえば、豊臣家の簒奪を狙う徳川家康が上杉征伐に乗り出したすきに、石田三成が挙兵。関ケ原を舞台に東西両軍が戦い、西軍有利だったが小早川秀秋の裏切りで一気に東軍が勝ったというのが従来の説ですが、1次資料によるとそんな話じゃなかったようです。
・秀吉の遺言では徳川家康と淀君を結婚させ伏見で政権をにない、秀頼が成人した時に政権を返す約束でした。阻止しようとしたのが大野治長と土方雄久。家康暗殺計画を企画します。
・石田三成は朝鮮出兵時の事件で険悪となっていた諸将に襲われ、奉行職をとかれてから佐和山に逼塞した後も家康とは関係良好でした。家康暗殺計画も家康に知らせ防いでいます。
・家康が上杉景勝征伐に動いた時にクーデターを起こした首謀者は毛利輝元でした。
・西軍全体を指揮していたのは大坂城にいた増田長盛で、美濃方面は長束政家と安国寺恵瓊が指揮していました。大垣城と南宮山の陣地で東軍と対しましたが歴戦の諸将が揃っている東軍は赤坂から垂井まで占拠し、東山道がおさえられたため近江との連絡路が確保できなくなります。
・石田三成は全体を指揮していた増田長盛に伊勢など攻めず、美濃に軍勢を集めるように依頼していましたが、うまくいかず、そこへ小早川秀秋が松尾山を抑えてしまいましたので、これで連絡路が遮断されることから大垣城を出て小早川攻めに関ケ原の西にある山中へ出陣。松尾山の北側にある自害ケ峰の陣をおきます。関ケ原よりの場所に布陣していたのが大谷吉継で、ここに東軍の先手が攻め込み、小早川も攻めたため次々と陣が崩れ、西軍敗退となります。
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