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2018/07/24

学校では教えてくれない戦国史の授業

 【書 名】学校では教えてくれない戦国史の授業
 【著 者】井沢 元彦
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2018/02/15
 【ISBN 】978-4-569-76806-9
 【価 格】820円

本能寺の変については謀略説などいろいろとありますが、この本では四国説を掲載しています。信長の家臣だった斎藤利三が信長から長宗我部との取り持ちを頼まれ、妹を嫁がせ生まれたのが長宗我部信親。信長から一字をもらいました。良好な関係だったのですが長宗我部が勢力を伸ばすと信長が方針転換。長宗我部にまだ占領されていないのが阿波の三好に肩入れすることになり、こちらの取次が秀吉だした。秀吉は後に甥っ子を三好の養子に出しています。

占領したところを返せという信長の要求に長宗我部は拒否。大坂から四国攻めの軍団を派遣する手前で起きたのが本能寺の変です。長宗我部側だった斎藤利三はこの時、明智光秀の筆頭家老になっていました。

当時の公家の日記は該当部分が破棄されていたりして分かりませんが、本能寺の変の後、光秀は征夷大将軍に任命されていた可能性があるそうです。

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2018/07/15

逆転した日本史

 【書 名】逆転した日本史
 【著 者】河合 敦
 【発行所】扶桑社新書
 【発行日】2018/07/01
 【ISBN 】978-4-594-07993-2
 【価 格】830円

最新の学説などによって日本史がけっこう変わっています。昔、源頼朝像と習った肖像画はどうも足利直義らしく、蒙古襲来絵詞では竹永季長に向かって矢や”てつはう(手榴弾)”を投げつけている蒙古兵は、江戸時代に書き足したようです。最初は逃げる蒙古兵を追うシーンで描かれた模様。

■薬子の変 → 平城太上天皇の変
薬子というのは平城天皇に嫁いだ娘の母親。女官でついてきて平城天皇の寵愛を受けることになります。病気もあり弟の嵯峨天皇に攘夷しましたが、もう一度復権しようとしたのが平城太上天皇の変で薬子が主体的に動いたわけではなく、変わったそうです。

この騒ぎで嵯峨天皇の皇太子だった高岳親王は平城天皇の子供だったこともあり廃され、仏門に入ります。唐へ渡り修行し、最後はインドにまで修行の旅に出かけ途中で亡くなったようです。こんな歴史もあったんですね。

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2018/07/14

天下分け目の関ケ原の合戦はなかった

 【書 名】天下分け目の関ケ原の合戦はなかった
 【著 者】乃至政彦、高橋陽介
 【発行所】河出書房新書
 【発行日】2018/04/15
 【ISBN 】978-4-309-24860-8
 【価 格】1,600円

関ケ原の合戦といえば、豊臣家の簒奪を狙う徳川家康が上杉征伐に乗り出したすきに、石田三成が挙兵。関ケ原を舞台に東西両軍が戦い、西軍有利だったが小早川秀秋の裏切りで一気に東軍が勝ったというのが従来の説ですが、1次資料によるとそんな話じゃなかったようです。

・秀吉の遺言では徳川家康と淀君を結婚させ伏見で政権をにない、秀頼が成人した時に政権を返す約束でした。阻止しようとしたのが大野治長と土方雄久。家康暗殺計画を企画します。
・石田三成は朝鮮出兵時の事件で険悪となっていた諸将に襲われ、奉行職をとかれてから佐和山に逼塞した後も家康とは関係良好でした。家康暗殺計画も家康に知らせ防いでいます。
・家康が上杉景勝征伐に動いた時にクーデターを起こした首謀者は毛利輝元でした。
・西軍全体を指揮していたのは大坂城にいた増田長盛で、美濃方面は長束政家と安国寺恵瓊が指揮していました。大垣城と南宮山の陣地で東軍と対しましたが歴戦の諸将が揃っている東軍は赤坂から垂井まで占拠し、東山道がおさえられたため近江との連絡路が確保できなくなります。
・石田三成は全体を指揮していた増田長盛に伊勢など攻めず、美濃に軍勢を集めるように依頼していましたが、うまくいかず、そこへ小早川秀秋が松尾山を抑えてしまいましたので、これで連絡路が遮断されることから大垣城を出て小早川攻めに関ケ原の西にある山中へ出陣。松尾山の北側にある自害ケ峰の陣をおきます。関ケ原よりの場所に布陣していたのが大谷吉継で、ここに東軍の先手が攻め込み、小早川も攻めたため次々と陣が崩れ、西軍敗退となります。

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2018/07/04

江戸時代の不都合すぎる真実

 【書 名】江戸時代の不都合すぎる真実
 【著 者】八幡 和郎
 【発行所】PHP文庫
 【発行日】2018/06/15
 【ISBN 】978-4-569-76742-0
 【価 格】780円

江戸時代はエコでよかったといった賛美論がありますが、恵まれていたのは江戸の民衆だけで何回も飢饉で餓死者が出るなど大変な時代でした。

島津氏の元は秦氏で惟宗朝臣を名乗っていました。秦氏の祖は秦の始皇帝と伝わっています。やがて近衛家につかえ近衛家が南紀州にもっていた荘園の名前から島津となります。室町時代頃から源頼朝の子孫という話も伝わっており、幕末に島津が将軍になる可能性があると一部で言われたようです。現在も鶴岡八幡宮で行われる源頼朝の催しで子孫代表として島津宗家が参加しています。

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