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2018/03/01

竹中重門と百姓の関ケ原合戦

 【書 名】竹中重門と百姓の関ケ原合戦
 【著 者】三池純正、中田正光
 【発行所】洋泉社歴史新書
 【発行日】2018/02/19
 【ISBN 】978-4-8003-1397-3
 【価 格】980円

美濃垂井、関ケ原を支配していたのが竹中重門で竹中半兵衛の息子です。もともとは三成側で自分の城であった菩提山城の整備を行います。石田三成の戦略は菩提山城、松尾山城で関ケ原の隘路を防ぎ、中山道を遮断できる山中には大谷刑部が陣取ります。山中の先には玉の城山を整備しました。宇喜多秀家の陣では不破の関にあった土塁を二重にするなど活用しています。

家康が上杉攻めに出発するとすぐに毛利輝元などと連携をとり万全の準備をします。ところが竹ケ鼻城、岐阜城を家康側に落されたことから美濃の国人などは家康側に寝返ることになります。戦場となりそうな関ケ原の百姓を守るため竹中重門は家康側につくことになりますが、竹中重門は西軍の戦略を知っているため三成にとっては大きな誤算となります。南宮山に陣取った毛利勢は、どうも家康優勢の動きに大坂の毛利輝元とはかって日和見を決めた模様です。

島左近らが前哨戦で行った杭瀬川の戦いは家康側に守りの体制に入らせ、その隙に関ケ原へ移動することにあったようです。


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