戦国の地政学
【書 名】戦国の地政学
【著 者】乃至政彦
【発行所】じっぴコンパクト新書
【発行日】2017/11/15
【ISBN 】978-4-408-00906-3
【価 格】850円
最新の研究をもとに戦国時代の戦いは実際はどうだったかを解説しています。
■第四次川中島の戦い
”鞭声粛々夜河を渡る”で有名な謙信と信玄の戦い。信玄が陣を構えたのは妻女山ではなく、その東にある西条山(にしじょうやま:現在の象山)。妻女山から海津城は見えませんが西条山からは見ることができますので炊飯の煙も見えます。誰かが”にしじょうやま”を”さいじょやま”と読み間違え妻女山となったようです。
海津城を囲む形で謙信は包囲網を築いていました。国境の城である海津城を見捨てるわけにはいかず信玄は海津城へ入ります。そして海津城から見えるように別動隊を動かします。信玄の意図は西条山を降りなければ謙信の越後への退路を断つということで、狙い通りに謙信は山を降りました。そのまま越後へ戻るのが定石でしたが、武田の別動隊に挟撃される危険を顧みず、武田本体への攻撃をはじめます。これが車懸りで謙信の各部隊が武田の部隊をとめている間に親衛隊が本陣に切り込んで信玄の首をとる作戦でした。こうなると謙信と信玄の一騎打ちにちかい状態が確かにあったようです。
■姉川の戦い
信長、家康連合軍VS浅井、朝倉連合軍の戦いで13段に構えた信長の軍が11段まで破られたという話が伝わっていますが、現地には13段も配置できるほど広い場所はなく、浅井軍と信長の馬廻り衆が激突する状況で横山城を監視していた西美濃衆が救援に駆け付けて押し返した模様です。
■唐沢山城の戦い
北条氏康が包囲する唐沢山城へ謙信がわずか14騎で敵中突破したと伝説が残っていますが、遠巻きに布陣している相手から視認されながら射程距離外を通ったというのが真相のようです。唐沢山城城主だった佐野昌綱は去就を決めかねておらず北条は包囲することで圧力をかけて味方にしようと考えていました。そこへ謙信が佐野昌綱が味方であることを疑わないような入城をしたことで、佐野昌綱は意気に感じ上杉謙信につくことになり、目的が達成できなかった北条は陣払いすることになります。
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