日本史の内幕
【書 名】日本史の内幕
【著 者】磯田 道史
【発行所】中公新書
【発行日】2017/10/25
【ISBN 】978-4-12-102455-8
【価 格】840円
副題が「戦国武将の素顔から幕末・近代の謎まで」になっていて、古文書という1次資料を使い日本史の知られていない話が記載されています。
■秀吉の九州征伐
島津攻めに協力していたのが本願寺で、教如が門徒が多かった九州に向かっています。協力によって天満での本願寺の維持が保たれました。
■浜松東照宮
引間城(浜松城の前身)の城主・飯尾豊前守の娘だったキサが80歳まで生き延びて、孫が太閤素性記という記録を残します。配下の松下が引間城に連れてきたのが猿のような人間で、これが後の秀吉でした。秀吉が猿の真似をして皮付き栗を食べたのが引間城の本丸。落城した引間城に新しく入ったのが徳川家康で、二人の天下人の人世の転機になったのが引間城、現在の浜松東照宮になります。
■三方ヶ原の戦い
武田軍2~3万に対し、家康軍8千、信長からの援軍3千と言われていますが、甲陽軍鑑には信長軍は9頭という記述があり、頭は軍団で約2千人。全部で1万8千の援軍がいたようです。岡崎城など各地に分散されていましたが浜松城の西側を守っています。信玄としては大敗して家康が逃げ込んだ浜松城を攻めても、後詰めの信長軍に襲われる恐れがあるので攻めるわけにいかなかったようです。
家康が浜松城に逃げ帰る時に左右のお供の刀に痰唾を吐き続け、後日、それを証拠に賞したそうで、自分の命が危ない状況でも、そんな気配りをしていました。
■真田信繁
真田信繁が討死し首実検をした時、井伊家の記録には床几をはずして、「そのほうほう、たびたび、お敵いたさるところ、不慮に、ご対面ならるるとの御意なり」と丁寧に語りかけたそうです。
■松下嘉兵衛
秀吉が最初に勤務したのが松下嘉兵衛。親戚が井伊家でした。浜松の頭陀寺という修験者の多い集落の豪族でした。柳生十兵衛の母は松下嘉兵衛の娘で井伊直虎も武田に井伊谷を奪われた時に松下家に身を寄せていた可能性があります。秀吉は松下から公をとって木下とした説もあります。秀吉は浜松で下積み生活えをしてたので、小牧長久手の合戦では、「茂るとも羽柴は松の木の下かな」という句が歌われていたようです。
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