真田幸村と真田丸
【書 名】真田幸村と真田丸
【著 者】渡邊 大門
【発行所】河出書房新社
【発行日】2015/04/30
【ISBN 】978-4-309-62481-5
【価 格】1500円
大坂の陣からちょうど400年。2016年NHK大河ドラマ「真田丸」が放映されますが真田信繁とは実際、どういう人物だったのかに焦点をあててみます。大坂城に集まったのは牢人だけ、いわば非正規社員。対する徳川側は藩の家臣が中心で、正社員組。面白い見方ですね。
大坂の冬の陣で、意外に牢人側ががんばりましたが、大坂城の中は3つに分かれていました。和睦推進派が大野治長、後藤又兵衛、主戦派が大野治房、長宗我部盛親、毛利勝永、仙石秀範で中間派が木村重成、真田信繁、明石掃部。後藤又兵衛は大坂方につく大名が出ないこと、やがて兵糧、弾薬がつきることから和睦派でしたが、意外に秀頼が主戦派で、潔く大坂城に籠城し死んでもかまわないと主張しており、淀君から説得してもらったそうです。
大坂方の和睦の条件は淀君が江戸へ行く、牢人衆に領地を与えるでした。徳川方の返事は淀君が江戸へ、牢人衆に扶持を与えるは同じで、もう一つ秀頼に四国を与えるので大坂城を出る
ことがありました。大坂方は豊臣のシンボルでもあった大坂城を出るのは飲めない条件でした。最終的に落ち着いた和睦案は本丸を残して二の丸や三の丸の堀を埋めること、織田有楽、
大野治長から人質を出すことになりました。堀を埋めるのは総構だけで、徳川が約束に反して二の丸などの堀を埋めてしまったというのは単なる俗説なんですね。
大坂城が裸城になり、徳川は秀頼は出ていかざるをえないと考えていました。秀頼が望む土地を与えるという条件をつけていましたが、問題は牢人衆の動きでした。上層部は徳川とうまくつきあっていこうと考えていましたが、現場の動きは違います。結局、これが大坂夏の陣を引き起こしてしまいます。真田信繁の案を採用せず、日和見で豊臣を滅ぼした大野治長とステレオタイプで描かれますが、そんなことはなく、真田が家康に対して最後の突撃をする時も側面支援をして戦っていました。大坂城が落城したのはいろいろなボタンの掛け違いだった
ようです。
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