日本史の謎は地形で解ける
【書 名】日本史の謎は地形で解ける
【著 者】竹村 公太郎
【発行所】PHP文庫
【発行日】2013/10/21
【ISBN 】978-4-569-76084-1
【価 格】743円
日本史を地形から読み解く、なかなか面白いアプローチの本です。
■家康の江戸改造
行ったのが利根川の付け替え。赤堀川を開通させ、利根川を太平洋に流すことができ次々と大規模河川工事を行って銚子へと流すようにしました。これで手に入ったのが新しい農地。江戸時代、半蔵門が江戸時代の正門で、新宿通りが尾根道になっており、どんづまりが太田道灌が造った江戸城でした。当時は日比谷まで海でした。同じ構図だったのが上町台地の尾根道をずっといった石山本願寺。難攻不落で信長は長い間、攻め続けましたが、結局、落とせず和睦になります。後の大坂城になりました。
北条の土地だった江戸に入った家康が行ったのが小名木川というまっすぐな川の作成。江戸と中川、江戸川(当時の利根川)を結んでいました。これで軍隊を船で関東中に送り出すことができ北条の土地をおさえるための軍用水路だったようです。
■赤穂浪士の討ち入りは江戸幕府がしくんだ
吉良邸が北町奉行所などがあった一等地から倉庫街の本所へ移され、さも討ち入りをどうぞという形にしたのは有名ですが、江戸幕府はいろいろと仕組んでいたんですね。まず赤穂浪士の1/3がひそんだのが麹町周辺。半蔵門が正門ですので、目と鼻の先、岡っ引きを張り巡らしている幕府が黙認したとしか考えられません。また赤穂浪士のお墓は泉岳寺にありますが、泉岳寺から1kmも離れていた高輪大木戸をわざわざ泉岳寺近くへ移転。品川宿と高輪大木戸は徒歩、船で行く人がすべて通る道で、必然的に泉岳寺がクローズアップされ、日本中に忠義の話が伝わります。
もともと吉良家と徳川家とは塩に関していろいろとありましたが、家康が征夷大将軍になり、秀忠に継承するには朝廷とのパイプが太い吉良家が重要でしたが、それもうまくいったので存在価値は減り、赤穂浪士の事件が起きた時はこれ幸いと吉良家抹殺に動いたようです。
■江戸の堤防
西側が浅草寺近くに造られた日本堤。東側が墨田堤、荒川堤、熊谷堤。日本堤の先に造ったのが吉原で吉原へ行きかう人で踏み固めました。墨田堤に植えたのが桜。こちらはお花見でたくさんの人が出て踏み固めます。
| 固定リンク
コメント