北条氏滅亡と秀吉の策謀
【書 名】北条氏滅亡と秀吉の策謀
【著 者】森田 善明
【発行所】洋泉社歴史新書
【発行日】2013/9/23
【ISBN 】978-4-8003-0224-3
【価 格】900円
小田原評定と言えば、秀吉に攻撃され、抗戦か降参かで結論が出ず、そこからいつになっても結論の出ない会議などを呼ぶようになりました。北条氏と言えば時代がよめていなかったので滅んでしまったなどと言われていますが、その通説に焦点をあてた本です。
小田原攻めの原因となった名胡桃城強奪事件ですが、これは本当にあったのかと説が以前からありましたが、どうも秀吉と真田がしかけた罠だったようですね。この本によると小牧・長久手の合戦の後、織田信雄を追い落とし、家康を先に倒す予定でしたが、そこで発生したのが天正の大地震。秀吉の領地が被害をうけましたが家康の領地はほぼ無傷。秀吉は方針転換して家康とは和睦。九州攻めを行うことになります。
北条に対しても最初は上京して臣下になることで領土を安堵するという約束で、同盟国であった家康が斡旋。北条氏規の上洛が実現します。次は北条氏政が上洛してと準備に入っていたんですが、その間に秀吉の方針転換があったようです。跡取りである鶴松の誕生によって、今の間に国中の大名の配置や豊臣の武威を被征服地にも広めようという気になったのでは推測しています。いい迷惑だったのが北条氏、難癖をつけられて攻められることになってしまいました。家康の国替えも相当前から決まっていたようです。
この本によると理不尽な扱いを受けたのは北条だけでなく長宗我部元親もそうで、四国を占領していましたが秀吉にはかなわないと阿波、讃岐を返上し人質も出していましたが、秀吉は方針転換して人質を返し、四国攻めをすることになります。越中の佐々成政はかなわないから国を渡すと言っているのに秀吉に攻められます。攻める軍勢を民衆に見せることや小田原攻めでは挨拶にきた関東の大名に総石垣の石垣一夜城を見せるショー要素が重要だったようです。絶大な権力を握った秀吉だったからこそ太閤検地ができたのでしょう。
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