敗者から見た関ヶ原合戦
【書 名】敗者から見た関ヶ原合戦
【著 者】三池 純正
【発行所】洋泉社
【発行日】2007/5/22
【ISBN 】978-4-86248-146-7
【価 格】800円
天下分け目の関ヶ原合戦。
三成を大垣城から誘い出し得意の野戦に持ち込んだ家康。最後の最後まで迷っていたが、結局は裏切った小早川秀秋など関ヶ原にまつわるいろいろな通説がありますが、本当にそうなの?という本です。実際に関ヶ原を歩いての視点ですので、かなり説得力がありますね。関ヶ原の合戦を通説は違った目で見られる一冊です。
■大阪寄りだった北政所
淀君とそりがあわず家康寄りだったというのが通説ですが、北政所の兄(木下家定)の子供、つまり甥っ子7人のうち6人は西軍で戦いました。一人だけ裏切ったのが小早川秀秋です。宇喜田秀家の関ヶ原への出陣式には北政所が名代を派遣して戦勝祈願していますので、巷の通説とはかなり違うようです。
■周到に用意していた三成
奉行職を解かれて佐和山城に蟄居していた三成ですが、かなり周到に準備していたんですね。関ヶ原が決戦場になると高さ3メートルの土塁を延々と築き、中山道、北国街道を遮断してしまいました。家康が野戦に誘ったという通説ではなく、三成に誘い込まれたのは家康の方でした。
■最初から裏切っていた小早川秀秋
松尾山は山だとばかり思っていましたが、堅固な山城になっていたんですね。三成が秀頼と毛利輝元を迎えるために築いたものでしたが、ここにいきなり入り込んだのが小早川秀秋。結局、これが勝敗の明暗を分けることになってしまいました。
いずれにしても街道一の弓取りと言われた大大名、徳川家康に一介の小大名である石田三成が互角に戦った関ヶ原合戦です。三成が凡庸な人物であるはずはありません。不思議な話が最後に載っています。三成の兄や父は佐和山城の戦いで亡くなりましたが、三成の妻や子供、一族郎党は何のお咎めもなかったそうです。
家康は敵ながら、太閤に最後まで忠義を貫いて死んでいった武士ということで三成を高く評価していたようです。三成が捕らえられた後、井伊直政が処刑まで身柄を預かっていましたが、すごく丁寧な扱いだったそうで、おそらく家康の指図だったのでしょう。
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