「歴史街道」を駆けぬけた武将たち
【書 名】「歴史街道」を駆けぬけた武将たち
【著 者】横山 高治
【発行所】新風書房
【発行日】1996/08/01
【ISBN 】4-88269-339-9
【価 格】1500円
■出世払い
藤堂高虎が浪人していた頃に吉田(豊橋市)あたりを放浪していた時に餅屋で無銭飲食してしまいましたが、店主に旅費まで助けてもらったそうです。後に伊勢の津藩の藩主となり江戸に向かう途中に、この餅屋で行列を止め、お礼をして家臣一同に餅をふるまったそうで、これが「出世払い」の語源なんだそうです。
■長野工藤氏
津から伊賀上野に向かう途中にあるのが長野峠です。このあたりに長野城を築き本拠にしていたのが長野工藤氏です。曽我兄弟の仇討ちの敵役で有名な工藤祐経が全国の各一箇所の領地を賜って、子孫が移植したところで長野工藤氏の祖は工藤祐経の三男にあたります。
この一族の分部光嘉が17歳の時に信長の伊勢攻めが始まります。一族が信長と徹底抗戦しようとした時に、信長につき一族を破滅から守ります。後に伊勢上野城の城主に。
関が原の合戦の前哨戦として安濃津城の攻防戦が行われました。小西行長、宇喜田秀家などの西軍3万が津城の2千におそいかかりますが、分部光嘉は津の観音堂境内で16人の兵と激しく戦いました。多勢に無勢で和議に、この後に関が原の合戦が起きます。
後に伊勢上野城から近江の大溝に移りますが、大溝藩2万石は明治維新まで続きました。
■岩田川合戦
津の岩田川には百五銀行の本店がありますが、ここで南北朝の戦いが行われました。南北朝の和解で、双方から順番に天皇になるという約束がありましたが、これが反故に。南朝方の北畠満雅が多気から出陣し、幕府軍と岩田川で戦い戦死します。
北畠家は結局、信長に滅ぼされてしまいますが、北畠家の城主の妻が松永弾正の娘です。また大和の兵も多数派遣されていました。信長の北畠家攻撃で全員玉砕してしまいます。翌年、松永弾正が信長を裏切りますが、こんなところに伏線があったんですね。
■関氏
亀山あたりの本拠地をおいていたのが関氏です。平重盛のニ男である資盛が伊勢にいた頃に村の有力者に生ませた子供が祖になり、平氏滅亡の時に鎌倉に護送されますが、頼朝は一命を助けます。北条時政に預けられ、6代後に南北朝の頃に、現在の亀山へ戦国時代には長野工藤氏や北畠氏とよく戦っていました。
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