考証織田信長事典
【書 名】考証織田信長事典
【著 者】西ケ谷恭弘
【発行所】東京堂出版
【発行日】2000/09/20
【ISBN 】4-490-10550-9
【価 格】2800円
ファミリー会東海支部で『郷土の三英傑に学ぶ』シリーズを書いていた時に活用した本です。当時はパラパラと参照しただけで、初めから読んだのは今回が初めてです。
信長を中心とした事典で巻末には索引もついています。信長の兄弟がどうなったかなど、細かいところまで記載されています。また織田家は明治維新時に四家が大名家として続き、旗本でも高家が三家など九家が幕末まで続きました。
■比叡山の焼き討ち
比叡山一帯が焼き討ちされたイメージがありますが、延暦寺根本中堂などを初めとする堂などでは焼失の痕跡が見つかっていません。比叡山山麓・坂本地区の塔頭や日吉山王神社などが焼き討ちにあったのは事実で、これが比叡山全体のようなイメージに変わってしまったよう
す。
■本能寺の変はなぜ6月2日だったのか?
『信長は謀略で殺されたのか』という本がありましたが、この本では光秀単独説をとっています。
信長は馬揃を行い正親町天皇の譲位を迫っていましたが、譲位により即位するのは、信長と親密な関係にあった誠仁親王で、また皇太子となるのは信長の養子である五の宮となります。五の宮が皇太子となれば信長は太政天皇になります。
歴史上、武家の棟梁が太政天皇の地位に登ったのは平清盛と足利義満だけで、この計画に気づいたのが光秀でした。馬揃の準備などで天皇家や公家などを回るうちに、何とかしなければと思ったのでしょう。
この計画の一環で天下人の地位を信忠に譲るために息子・信忠への推任を待っていました。ちょうど決定通知があり、急ぎ上洛して本能寺に泊まりお礼の茶会を行いました。信長の周りに軍隊がいない空白が生じました。また本能寺の変が起きた6月2日に信長、信忠は参内して叙任を受ける予定でした。6月2日未明に本能寺の変が起きた理由はこれが原因というのがこの本での説です。
本能寺の変については最後に書かれていますが、全編にわたって信長の歴史や、信長にまつわる人物について学べます。信長のお母さんである土田御前が本能寺の変の後、伊勢の津へ行き、津の四天王寺に墓があるときちんと記載されています。
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